第107話 頭上で交わされる戦略
病室の質素なパイプ椅子の上で青い顔で黙り込む陽に、天本はぎこちなく右手を動かして見せ、励ますように声をかける。
「心配するな。ほら、ちゃんと動くだろう?日常生活には、さほど支障無いんだ」
天本は嘘をついた。腕はなんとか動くものの指先はゴワゴワとして動かし難く、右足はほぼ動かないため、松葉杖か車椅子が必要になるだろう。
陽の背後に立つ優馬は肩に手を乗せ、「ほら、しっかりしろ」とでも言うように強く握った。陽はこわばった表情で、なんとか頷く。
「だが、工房の仕事をするにはかなりのリハビリが必要で、しばらくは無理なんだ。でも、お前達の就職の世話はこっちでちゃんとやるから」
自分の両膝を握りしめ、陽はまた頷いた。
手術と入院にかかる費用を工面するため、工房を人手に渡すしか無いのだと言う。
以前よりとある駐車場管理会社があの土地を欲しがっていて、かなり高額で買い取るという話が出ており、そうすれば、入院費用も賄え、工員達の退職金に色をつけて渡してやれると言うのだ。
「村本は早期退職して嫁さんとふたり地元に引っ込むと言ってるし、竹内は腕もいいし紹介先はいくつもある。で、お前だ」
天本は努めて明るい声で話すが、陽は深刻な顔で俯いたまま目を合わせようとしない。
「お前はまだ半人前ではあるが、仕事が丁寧だし覚えも早い。仕事に対する姿勢も真面目で意欲もあり、欲しがるところは多いだろうと思う。俺も、胸を張って折り紙付きで送り出せる。だけどな、陽」
優馬に視線を送ると、しっかりと頷き返された。確信を持って、天本は声に力を込める。
「お前、独立しないか?」
天本の言葉にポカンとした表情で顔を上げ、目を見開いたまま固まっていた陽が、ゆるゆると首を振った。
「いや、ムリムリムリムリ。村本さんや竹内さんならともかく、俺なんてまだ、全然……」
天本の声が、茫然としている陽を遮る。
「そうじゃなくて。絵の方で、独立するんだ」
狼狽しきった陽を落ち着かせるのには、しばしの時間を要した。
陽が副収入の相談をしていた会計士からのデータや、ここ数ヶ月の絵の売上などを丁寧に説明し、充分やっていける可能性が高いことを言い聞かせる。
だが、陽はなかなか納得しない。
独立そのものの不安もあるが、今の環境が無くなる恐怖心も少なからずある筈だ。なんと言っても父親が居なくなって以来、工房の皆が家族のようなものだったのだから。
「確かに最近、絵は売れてます。でも、たまたま今、運がいいだけかもしれない。この先どうなるかなんて」
「そこで、俺の登場だ」
優馬が陽と天本の間に立ちはだかり、陽にピースサインを突きつける。
「俺がお前をプロデュースする。お前の絵を売りまくり、仕事を取りまくってやる」
茫然と優馬を見上げていた陽が、ゆらりと立ち上がった。
「……何言ってんだよ。頭おかしくなったのか?」
「至って明晰です。俺、出来るオトコ」
ピースサインをハサミのようにチョキチョキさせながら、優馬はニカッと笑ってみせる。
「……仕事あんだろ」
「辞めます。ってか元々辞めるつもりだったし~」
まだチョキチョキしている優馬の手を、陽が振り払う。
「ふざけんな! こんな時に何わけのわかんないこと言ってんだよ! 家族が居んだろ! 栞さんどうすんだよ! 優侍は!」
「もちろん、俺が養う。当たり前だろ。だからお前は、死ぬ気で絵を描け」
陽は乱暴に音をたて、再び椅子に腰を降ろした。ため息をつき、何度も両手で額を擦る。
「……何言ってんだよ……まじで、わけわかんね。お前、馬鹿だろ! なあ、馬鹿だろ……」
「もう一度言いますが、至って明晰です。俺の営業力をナメてもらっちゃ困る。ちゃんと考えて、勝算があって言ってる」
両手で頭を抱えて動かなくなった陽に代わり、天本が興味を引かれたらしい。
「勝算? 何か具体的な案があるのかい?」
「もちろん」
優馬は自信ありげに微笑んだ。
「購入者特典として、絵の制作過程の動画をプレゼントぉ!」
頭を抱えたまま、陽はため息とともに言葉を吐き出す。
「……はぁあ? 何言ってんの? そんなもん、誰が欲しがるんだよ」
「うん。それ、いいかもしれん」
顔を上げ天本を振り返った陽は、凄まじいしかめ面をしていた。
「良い案だよ! 木暮くん」
「ちょ、オヤジさんまで何言ってんすか! 絵なんて完成してなんぼでしょ? 俺ならそんなもん要らない。興味無い」
「そうか? 陽。お前、ダ・ヴィンチの制作過程、見たくないか? ボッティチェルリは? ルノワールは? シャガールは? ええと、デューラー? あとは、ルーベンス、フェルメール、モネ、クリムト……それから……」
「それは……見たいけど……でも俺は、ダ・ヴィンチじゃないし」
「いやいや、陽」
天本も負けじと割って入る。
「建て込みに行った時のお客さん、憶えてるだろ? 嬉しそうに作業を見守る人がほとんどだったじゃないか。目を輝かせて、何度も何度も様子を見に来てたろ?」
「それは……それは、自分ちや自分の店の家具だし。楽しみにもするだろうけど」
殊更に大きく頷き、天本はこわばった手で人指し指を立てた。
「そうだ。お前の絵を気に入って買うお客さんにとっては、お前の絵は世界にただひとつの宝物だ。たとえ無名の画家の絵でも、それが出来るまでを見られるなんて、嬉しいと思うよ」
「いーや! 天本社長。俺は、陽が歴史に名を残す画家に成ると思ってます。今は無名でも、絶対に有名になる」
優馬は天本の隣に歩み寄り、一緒になって陽に向かって指を振り立てる。
「……お前が有名になれば、絵の価値が上がる。そう期待して、もしくはただただ嬉しくて、その映像をあちこちにアップする客も居るだろうな。ということは、だ。客が勝手に販促までしてくれるってことだ」
「何を……寝ぼけたこと……そんな都合良く……」
半ばぐったりとした陽が呟くのを他所に、ふたりはやけに盛り上がっている。
「おお! そうか! 木暮くん、頭良いねえ」
「でしょー?」
「ちょっと、ふたりとも。俺が独立する前提で話すの、やめてもらっていいっすか?」
当の本人からの抗議を聞き流し、優馬と天本は独立後の経営方針について勝手に意見を交わし始めていた。
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天本「ところで陽、ドイツ土産は?」
陽「………ドイツのビールです」
天本「えー、退院するまで飲めないじゃないか」
陽「だって、入院したの知らなかったし! 内緒にするからじゃん!(#`ε´#)」
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