第130話 渡辺博己の願望
陽がいつまでもピロちゃんと遊んでいるので、渡辺はふたつめのアップルパイに取り掛かった。ふたつ目に入ると、甘酸っぱいリンゴの奥からシナモンの風味がより強く香ってくるから不思議だ。
「さっきの話ですけど」
そう前置きして、渡辺は話のきっかけを作る。
「木暮さんって、なんか凄い人ですよね。何でも出来ちゃうし、カッコイイし、優しいし。ミスター・パーフェクトって感じです」
「うーん……本人は器用貧乏だなんて言ってるけどねぇ。俺も素直に凄いと思うわ」
陽はまだピロちゃんに夢中だが、意識の半分はこちらに向けてくれたらしい。
「営業やらプロモーション活動はもちろん、俺の絵の特典動画の撮影も編集も、全部優馬さんがやってるしね。あと料理も上手いし話題も広い。スポーツ万能、楽器も弾ける。欠点といえば……ギャグが致命的に古いぐらいか」
あははは、と渡辺は思わず声を上げて笑ってしまい、急いで謝る。
「いや、謝るとこじゃないし。今だにゲッツとかワイルドだろぉとか言うしね、あの人」
渡辺はまた吹き出してしまう。
でも、なんか……僅かな笑いを顔に残したまま、渡辺は少し目を伏せた。
「俺、大月さんと木暮さんみたいな関係、羨ましいです」
「そう? ……とか一応言うけど、実は俺もかなり自慢に思ってます」
「え……」
「え?」
驚いて顔を上げると、陽も驚いた様子でインコから目を離し渡辺を見返した。
「いや……そういうの、普通にサラッと言うんだ、と思って」
「え、うん。だってマジで、いくら感謝してもしきれないぐらいだし。優馬さん以外にもね……すごく周りに恵まれてると思ってる。みんな、いい人たちばっかりなんだ」
「ね、ピロちゃん♪」とインコを撫でながら、陽は心の底から嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、渡辺は胸の奥が締め付けられた。脳裏に大好きだった人の顔が、ありありと浮かんだからだ。
ピロちゃんの、前の飼い主。
当時唯一の理解者だった従姉妹の宏ねえが亡くなってから、もう1年以上になる。
「……いいなあ。そんな人たちに囲まれてて。だから、大月さんの絵は優しいのかな」
「優しい?そう?」
「はい。ちょっと怖いような絵でも、その奥に……奥とか周辺に、優しさが滲み出てるというか、薫ってるというか」
「おお、それは嬉しいな。ってか渡辺くん、詩人だね。そういえば、前にも絵の感想をメールしてくれたよね」
「はい。どうしても伝えたかったから……でも、ううん」
もどかしそうに顔をしかめ、首を振る。
「全然言えてない。伝えられてないと思う。もっと、違うんです。えっと……うまく言えないな。すごくモヤモヤする」
渡辺は両頬を乱暴に擦った。
「うらやましい。絵の中に入りたい。絵の中の世界で生きて……」
口をつぐみ、両手を降ろす。
「生きて、と言わないまでも……少しだけ雰囲気を体感してみたいなぁ、って思います」
……急いで取り繕ったが、きっとそれもバレているだろう。なんて返されるだろう。笑われるだろうか。
渡辺は窺うように陽を盗み見た。
ひとり遊びを始めたピロちゃんに構ってはいなかったが、優しい目で、まだじっと小鳥を観察している。
少し間をおいて、陽がぽつりと言った。
「……それ、いいね」
「え?」
急にワクワクした表情で空中に絵を描き、説明を始める。
「扉を開けるんだ。分厚い、でっかい扉。そしたら、絨毯の敷かれた廊下がまっすぐに伸びててさ……」
……一体、何の話デスカ?
「薄暗い廊下の両側には、ドアがずらーっと並んでる。ドアの横にはそれぞれ、ぼんやりした灯りが灯ってて。ひとつひとつのドアに、絵のタイトルが書かれてる。で、ドアを開けるとそのタイトルの絵の世界に入れるの」
「はあ……」
「ドアの向こうの絵の世界は、別の絵と繋がってたり繋がってなかったり。入ったきり戻れなくなるかもしれない……っていう絵。面白くない?描こっかな」
(絵の話かい!)
渡辺は思わず心の中で突っ込んだ。
……いや、絵の話だ。絵の話には違いないんだけど……違くね?そうじゃなくね?さっきの俺の話は?
半ば呆れつつ、陽を見遣る。
いつの間にか、陽の意識がピロちゃんを離れ自分の内側に向いているのがわかった。おそらく、目の前にあるものではなく、脳内に描かれている絵を見ているのだろう。
画家としての、ピロちゃんを観察していた時とはまた別の側面を垣間見た気がして、少し背筋がざわついた。
ほんの一瞬で、こんな風にスイッチが切り替わるのだ。
「タイトルはねー……渡辺博己の願望」
……突然フルネームを呼ばれて、ドキリとしてしまった。
そんなわずかな狼狽に気づくこともなく、陽は「ちょっと直球すぎたかな。タイトル付けるのって難しいよね」などと呑気に笑っている。
またスイッチが切り替わったのか、陽の表情は元の雰囲気に戻っていた。
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陽「渡辺博己の野望、熱望、希望、欲望……展望? 眺望? ふふっ。クスクス……」
渡辺「大月さん、連想ゲームみたいになってます(うわぁ、この人どこまでもフリーダムだ……)」
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