第111話 それぞれの理由



 17時をまわり、優馬が差し入れを持ってやって来た。


「あれ、藤枝さんは? もう帰ったのか?」

「うん。ついさっきね」


 イーゼルに立てかけられたスケッチブックから目を離さずに、陽は答えた。傍の作業台には付箋を貼られたスケッチブックが何冊も積まれている。

 朝いちで訪れた藤枝が、数十冊ものスケッチブックを全て改め、めぼしい作品をチェックしたものだ。



 陽には冷えた缶ビールを渡し、自分は買ってきたカップアイスの蓋を開ける。この後、また会社に戻らなければならないので、ビールは飲めない。


「それは? ……ああ、恵流ちゃん?」



 イーゼルに立てられたスケッチブックの絵は、あの夏の日の恵流だった。

 淡い紫色の浴衣を纏い、月を見上げる恵流の後ろ姿。


「これとこれ、大きいサイズの油彩で描けって」

 次のページを開きながら、妙にポキポキした口調で言う。


「ほぉん。いい絵だもんな。で、いくらで?」

「80か100号で、1点3~40万ぐらいって。もちろん、出来によるけど」


「……でかいな」



「これ描いて恵流に見せた時、すごく喜んでくれたんだ……恥ずかしいとか言いながらも、何枚も写メ撮ったりしてさ。それもあって余計に、『渾身の一枚を描こう』なんて意気込んじゃったんだけどね」


 陽はビールを一気に半分ほど飲み干すと、物置へ向かった。戻って来たときには、恵流の絵を手にしていた。恵流の死を知った日に描いた、あの絵だ。



「この絵、恵流のご両親に渡して来る。じゃなきゃ、これを描けない」


 スケッチブックにちらりと目を向ける。


「後ろ姿だけど、モデルは恵流だから。作品にするなら、ちゃんとご両親の許可を貰ってからじゃないと、描けない。描きたくない」



……黙ってりゃわからないだろうに。こういう律儀なところ、実に陽らしい。


「おう。俺も一緒に行くか?」


「ううん。ひとりで大丈夫」

 陽はきっぱりと首を振った。


 しばらくの間、じっと絵を見つめていた陽が、やがてポツリと呟いた。



「……親父も、どっかで死んでんのかな」


 まるで、うっかり言葉がこぼれ落ちたみたいだった。

 陽は自分が落とした言葉に狼狽したように口元を拭い、「あ、いや……」と落ち着き無く両手で腰の辺りを擦っている。



(恵流ちゃんみたいに、か……)


 陽が考えていることは察したが、優馬は言葉に詰まってしまった。こういう時、何と返せばいいのだろう。

 思わず、アイスのスプーンを噛みしめる。安っぽい木の香りが口中に広がった。



「……あー、あれだ……もしそうなら、連絡が来るだろ。警察やなんかから。捜索願も出してる訳だし」


……つい焦ってしまい、こんな即物的な返し方をしてしまう。もうちょっとこう、何かあるだろう! 俺!



 が、陽は救われたような表情で何度か頷いた。


「あぁ……うん。そうだよね。なんか俺、変なこと言ったね」

「おう、変だ。変だぞ。ほら、アホなこと言ってないで、早く渡して来い」



 自らの失言を取り消すかのように慌ただしく支度を済ませ、陽はバタバタと部屋を出て行った。




   † † †



 玄関で陽の背中を見送り、優馬はスケッチブックの前に戻った。


 自分の病のことを一切知らせずに身を引いた、清水恵流という女性。


 その選択が正しかったのかどうか、優馬には判断出来ない。

 陽がそのことで酷く傷ついたのは事実だ。だが、最愛の恋人の死に直面するのもまた、辛いことだ。


 栞によれば、自分の死期を近しい人に隠したまま闘病する人は少なくないのだと言う。


 きっと、不必要に心配をかけたり悲しませたりしたくないのだろう。

 心配されたからといって病気が治るわけでもなし、どうせ自分が死んだら悲しませてしまうことになるのだから。ならば報せずに、今まで通りに接して欲しい。そう望む人は、案外多いのだと。



「恵流ちゃんね、自分の希望を通すのと同時に、陽くんのことを守ったんだと思う。誰だって、愛する者を悲しませたくないもの。一時的に憎まれ役になってでも、陽くんの心の負担を少しでも軽くしたかったのよ」


 栞の言ったことは、きっと真実だろう。

 いや、恵流ちゃん本人の気持ちはそんな風に短く言い表せるものではないだろうから、真実の一部だろう。



 もしこれを陽に言ったら、陽の心は軽くなるだろうか。


 恵流ちゃんに対しても、もしかしたら、勝手に出て行った父親への思いも?

 陽を捨てて出て行ったのではなく、何か理由があってのこと、陽のためを思ってのことかもしれないと……いや、そう思ったところ何になる? 結局、出て行った理由が判明しなきゃ、意味はないのだ………



 俺は、何と言えば良かったんだろう。栞なら、陽に何と言葉をかけただろう。


 肝心な時に思いやりのある言葉を返せなかったことを悔やみながら、優馬は恵流の絵の前でいつまでもアイスのスプーンを齧っていた。



______________________________________



栞「どっちにしたって悲しいんだもの。何が最善だったかなんて、わからないわよ」

優馬「そうだよな……ホールのケーキと数種類のショートケーキ、チョコの詰め合わせ。どれ選んでも美味しいもんな。美味しさの質が変わるだけなんだよな……」


栞(その例え、どうなのかしら……)

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