第110話 譲れない条件
独立を決めるにあたり、陽はひとつだけ、条件を出した。
あの場所を離れない。それだけだ。
今住んでいる木材倉庫ごと、陽が天本から借り上げ、賃料を支払う。そうすればすべての土地を手放す必要が無くなるし、僅かながら月々の収入が見込める。
幸い、工房の土地だけを売った金額で手術や諸々に必要な経費は捻出出来る計算だった。土地の買主にも了承してもらえた。
その後の生活は、保険金や静江の副業、そして陽からの家賃収入で賄うことが出来る。
「オヤジさんが復帰したらさ、前よりだいぶちっちゃくなっちゃうけど、あの倉庫で工房を復活させるんだ。で、頑張ってまた土地を買い戻して、元通りの工房にする」
陽がそう宣言した時、天本は男泣きに泣いた。もちろん静江も隣で大泣きだ。
あの工房は、ほぼ天涯孤独と言ってもいいであろう陽にとっても大切な「家」だが、もちろん天本夫妻にとっても二人一緒に築き上げてきた大切な場所だった。
工房を大きくすることや従業員たちへ十分に給与を支払うため、自分たちの生活や保険加入等は最小限に抑えてきた。その結果、結局工房を手放さざるを得なくなってしまった不甲斐なさに密かに打ちひしがれていた天本にとって、陽の言葉は救いとなるものだった。
元通りの工房。
たとえそれが叶わなかったとしても、陽のその気持ちだけで充分だ。そんな風に思って貰えるだけの関係性を築けたことが、何より嬉しかった。
また、倉庫の賃料の件でも、陽は頑なだった。
今までどおり、社宅扱いの家賃でいいと言うのに、階下の倉庫を含めた市場の相場額を支払うと言い張り譲らない。
「一番根っこのとこでいつまでも甘えてたんじゃ、独立したなんて言えない。ちゃんと自分の足で立った上で、あの場所は俺が守ります。いつか全部取り戻せるように、頑張ります。俺に、親孝行させて下さい」
珍しく一歩も退かぬ陽に頭を下げられ、天本は自由にならない右腕で陽の頭を抱き寄せた。
なんと逞しく、立派な青年になったことか。
高校の制服姿で工房の入り口に立っていた、あの繊細そうな青年が。
将来への不安や現状への不満を一切口にすること無く、しかしどこか危うく張り詰めた表情で立ち尽くしていた、あの陽が。
手術を無事に終え、何年かかってもリハビリをやり遂げ、あそこに戻ろう。そう心に誓う。
その頃にはもう、陽は有名な画家になっているかもしれない。そうなっても、この子は俺の可愛い弟子だ。いや、立派な息子だ。
頭の上にポタポタと涙が落ちるのにも構わず、陽は不自然な体勢のまま天本の胸に頭を付け、じっと動かずにいる。
やがて、陽の右手がそっと天本の右手を包んだ。徐々に力が加わりぎゅっと強く握られたとき、動かない右手に、陽の手の温かさを感じた。
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陽「俺が描いて、優馬さんが売る! 栞さんも賛成した! だから大丈夫!(^_^)v」
天本(陽が言うと、何故かちょっと心配だ……)
優馬「会計士の吉田さんとも十分に相談済みです。ご心配無く」
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