第84話 優馬の来訪
玄関の扉を開けた陽の顔を見るなり、優馬は持っていた傘の柄で陽の頭を小突いた。
「なっさけねえツラしてんじゃねえ」
不服気な顔で頭を撫でている陽の脇をすり抜け、ずかずかと我が物顔で部屋に入り込むと、コートを脱いでスツールの上に放り投げる。
「まったく、何でそんなんなるまで言わないんだよ」
「何?」
「恵流ちゃんのことだよ」
絶句している陽に、ポケットから細い缶コーヒーを取り出して手渡す。反対のポケットからもう一本取り出して開け、まだ十分に温かいコーヒーを飲んだ。
「……なんで知ってんの?」
「2週間前、栞んとこにメール来た。丁寧な挨拶とお礼のメール」
「2週間前……」
「ああ、お前らが別れた日の夜」
優馬は既に床に胡座をかいて座っている。呆然と立ち尽くしている陽に、優馬はトントンと床を叩いて座れと促した。
「遠方への転勤に伴い、陽とお別れしました。今までありがとうございました、ってさ。ほんとはもっと長かったけど、まあそんなカンジで? お前が何か言ってくるまでと思って待ってたのにさ、全然言わねえから」
ああ……と呻き、一気に脱力して床に座り込むと、陽はため息を吐き出す様に短く笑った。
「別れたんじゃない。振られたんだ。いきなり」
缶コーヒーの蓋を開け、顔の前に軽く掲げた。優馬も同じ仕草を返す。
「栞さんにまでメールかぁ。やっぱ、もう駄目なんだな」
「いいのか?」
「良くないよ。良くないけど、しょうがないじゃん」
† † †
あの日いきなり別れを告げられて、茫然とするばかりで何も出来なかった。
恵流は別れる理由をほとんど一方的に話すと、すぐに部屋を出て行った。手作りの弁当を置いて。
部屋を出る時、思い出した様に振り返って「これ、ありがとう」と言って微笑んだ。手には陽が買って来たばかりの栄養ドリンクが握られていた。
それが恵流との最後だった。
確かに最近は会う回数は減ったけれど、大きな喧嘩をしたわけでもなく、仲良くやっていると思っていたのに。この間まで、楽しくクリスマスの計画を立てていたのに。
茫然自失状態から抜け出したものの、頭は混乱していて、部屋の中をぐるぐる歩き回った。しばらくして漸く正気に戻り、追いかけたが見つからない。電話もメールも着信拒否されていた。
恵流の家に行ってみたが留守だった。
納得出来なくて、その後も何度か家に行った。が、「仕事で留守にしている」と言われ、会うことは出来なかった。
† † †
「恵流のお母さんがさ、『うちの娘の我が侭で、ごめんなさい。一度決めたら頑固な子で。本当にごめんなさい』って、深々と頭下げるんだ。何度も何度も。それ見てたらもう、何も言えなくなっちゃった」
淡々と語られる陽の独白を、優馬は黙って聞いている。
「すごく優しいお母さんなんだ。俺が恵流を送っていった時とか、何度か挨拶したんだけどさ。いつもお礼言ってくれて、たまに果物とか持たせてくれて……そんな人に頭下げられたらさ」
陽はおもむろに立ち上がると、作業台の上の小さな箱を取り上げ戻って来た。
「でも、やっぱり諦めきれなくてさ。これ送ったんだ。クリスマスプレゼントに恵流が欲しがってた、お揃いのマグカップ。でも、送り返された」
箱 を床に置くと、陽はゴロリとうつ伏せに寝そべった。足をバタバタさせながら自嘲気味に笑う。
「仕事の目処が立つまで待ってる。遠くても会いに行くから、ってメモ入れたら、『待たないで下さい』だって。俺、女々しいわー。ダッセー」
言いながら、ゴロゴロと床を転がり部屋の向こうの壁にぶつかり、またゴロゴロと戻って来た。うつ伏せに寝そべったまま、箱の中から小さなメモを取り出し優馬に手渡した。
「で、さすがにもう無理だってわかった。挙げ句、さっきのメールの件だし。恵流の気持ちは、変わらない」
メモには、心からの謝罪とお礼の言葉が並んでいた。
そして、「私のことは待たないで、幸せになって下さい。これからの活躍を遠くからお祈りしています」という文章で結ばれていた。
「……これは、キツいな」
「うん。キッツい。超キッツい」
「……でも何か、変な感じだよな。あまりにも突然すぎる。なんか納得いかない」
メモを見つめたまま眉を寄せている優馬を一瞥し、陽はコーヒーの缶を手持ち無沙汰にぐるぐる回しながら再び言った。
「俺も納得いかない。ぜーんぜん、なぁーんにもわっかんない。でもしょうがないじゃん。諦めるしかない」
いや、何かおかしい。この文面にしても、丁寧ではあるが固すぎるし淡々とし過ぎてる。別れる理由も恵流ちゃんらしくない気がする。
なんとなく、としか言いようがないが、違和感を覚えるのだ。
が、陽の言葉で、優馬はそれを追求出来なくなってしまった。
「……まあ、少なくとも恵流は、面と向かってちゃんと言ってくれた。親父みたいに、黙っていなくなったりはしなかったんだ」
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