第179話 放送終了


(嫌よ、何する気なの? やめて、陽! 駄目! 駄目! お願い戻ってきて! お願い!)


 見えない糸で縛りつけられたみたいに、声は喉元に張り付いて出てこない。弱々しい息が小さな塊になって、不規則に往復する。



 膝に乗せたノートPCにしがみつき、夏蓮はその画面を食い入る様に凝視していた。目を逸らしたいのに逸らせない。必死で祈りながら、陽の姿を、白い煙の中に探す。


 ゴトッと重たい音がして、祭壇の影から酒瓶らしきものが転がり出てきた。床に滲みが出来、徐々に広がっていく。



(ああ、陽……駄目よ………神様お願い、陽を助けて……)



 カズに張り付いている警官が、画面を覗き込みながら喧しく携帯で話している。

 その声が煩くて、既にめいっぱいボリュームを上げてあるPCを胸の前に持ち上げ、顔を寄せた。


……何か聞こえる。これは、呻き声?


 心臓が引き攣ったみたいになって、息が出来ない。



 苦しいの? 陽、苦しんでるの? 陽が苦しんでる。助けて。誰か、お願い……



 パリン、と澄んだ音がして、ステンドグラスが割れて落ちた。新鮮な空気が入ってきたのか、炎の勢いが強くなる。


 そして、小さな笑い声が聞こえた。



 間違いない。陽の声だ。小さく短い笑い声だったけど、間違いなく陽の声。



 生きてる! まだ生きてる! はやく居場所を突き止めて! 彼を助けて!




 真っ白い煙の中、祭壇の炎がパチパチと爆ぜる。


 そして唐突に映像が消え、荒いグレーの画面に切り替わった。ザーザーというノイズの音量に、夏蓮は思わず飛び上がった。



 呆然と、PCを見下ろす。


 その画面は、生放送が終了したことを示していた。




……これは、何? 私は今、何を見たの……?




 先ほどの警官が、夏蓮の膝の上からPCをそっと取り上げ操作する。ノイズを消し、閉じたPCを五島のベッド脇の机に置いた。


「放送を見た視聴者から、数件通報があったようです。今、調べてますから」



 放送、視聴者、通報………バラバラに聞こえていたひとつひとつの単語が結び合わさり、警官の言葉がゆっくりと意味を成した瞬間、指が、腕が、体が、激しく震えだした。


 たった今見た非現実的な映像は、現実だ。現実のものなのだ。




「……お願い。どうか……お願い、します………」


 やっとの思いで声を絞り出すと、夏蓮は震える両手で自分の肩を抱き、固く目を閉じた。




……………陽を、助けて。





   † † †




 腰が抜けてしまい床に崩れ落ちた渡辺は、PCデスクの前から這いつくばってベッドにたどり着いた。毛布に顔を埋めて目を閉じ、今見たものを必死に否定する。


(嘘だ。嫌だよ。あんなの嘘だよね? 大月さん…… )



 震える腕でベッドの上の絵を取り、見つめる。


 大月陽から今朝届いた、渡辺を描いた肖像画。


 僅かに斜に立ち、こちらに向かって手を差し伸べる、自分の姿。

 その表情は優しく柔らかく、リラックスしている。瞳には励ます様な光が灯り、唇は今まさに微笑もうとしていて、まるで「大丈夫だよ」と語りかけてくる様に見える。肩の上には心地良さ気に目を細めたピロちゃんが乗っかっている。


 柔らかな背景色に浮かび上がり輪郭を光に縁取られた僕らの姿は、差し出された手を取れば明るい場所に連れて行ってくれる……そんな風に見えた。



 まるで合わせ鏡みたいなその絵を、そっと胸の中に抱き締め、蹲った。


 刃物を突き立てられているみたいに、胸の真ん中が痛み脈打ち、張り裂けてしまいそうだ。

 横隔膜が揺れて腹筋が波打ち、喉が締め付けられる。堪えきれぬ呻き声は嗚咽に変わり、やがて慟哭となった。

 涙と唾液、洟水で床や膝を濡らし、渡辺は絵を掻き抱いたまま夜が更けるまで体を震わせ、泣いた。



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