第103話 月とアポロン


「何をそんなに怯えてるの?」



 短い沈黙の後、陽はポツリと呟いた。


「そうか……怖いのかもしれない。自分の中で恵流が薄れていっちゃうかもとか……それと……夏蓮さんに迷惑なんじゃないかとか、嫌われるんじゃないかとか……」



……そう。まあ確かに、今また傷ついたら、ダメージは相当大きくなるでしょうね。でも、それは陽の問題であって、私には関係ない。


って、正直に言うわけにもいかないわね、流石に。




 灰色の雲が流れ、月が顔を覗かせ始めた。


……空が私に味方してくれている。照明の効果なら知り尽くしてる。そして多分、陽の弱点も知ってる。


 夏蓮はガウンをかき合わせていた手を離し、腕の力を抜いた。純白のシルクのガウンはサラリと開き、僅かに裾が揺れる。首筋からデコルテのラインが、月光を受けて真珠色に輝く。


 陽は視覚への反応が極端に強い。

 強烈なイメージと共にインパクトのある話を刷り込めば、それはきっと陽の心に刻み込まれるはず。

 一生忘れられないくらい、深く刻んであげる……



「あのね、陽。何も怖がることなんて無いの。私達が今こうしてるのは、運命なんだから」


 陽が顔を上げて、話を聞こうとしてる。


 手すりに掴まるふりをして少し移動し、陽の視線を引きつける。よし、光の角度もバッチリ。そして私の背後には、隣のビルとの目隠しになっている樹々の、暗い緑色の葉が生い茂ってるはず。


 この舞台の主役は、私。



「獅子座の私の守護神は、太陽と芸術の神アポロンなの。そしてあなたは、名前に太陽を持ってる。だから……あなたは私の守護神」


 陽は僅かに小首を傾げた。目の光が少し強くなった。

……なんてわかりやすい人だろう。頭の中身が全部顔に出ちゃってる。



「牡牛座のあなたの守護神は、愛と美の女神ヴィーナス。ヴィーナスとアポロンは恋人同士でもあるの。知ってる?」


 陽は曖昧に頷いた。幻惑された様に、視線は夏蓮に絡めとられがっちりと固定されたままだ。


「神話のエピソードは、絵の題材でよく出て来るから……」


……だと思った。知ってて言ってるのよ。



 雲がさらに流れ、月が現れた。銀色の月光が射し、夏蓮のガウンに光を纏わせた。ナイスタイミング!


 陽の目に、私がどんな風に見えているか、はっきりと把握出来る。

 真珠色のシルクのガウンとワンピースが受ける月光の効果で、私の姿は暗い背景から浮き上がり輝いて見えている。時おり吹くひんやりしたそよ風に、服の裾と髪が揺れてその輝きを強調すると同時に、さらに深く視線をたぐり寄せる。



「あなたは、私のアポロン。そして私は、あなたのヴィーナスになる」


 風が吹いた。


 鎖骨にかかっていた一筋の髪を後ろへ吹き払ってくれる。

 ありがとう、西風の神ゼピュロス。ヴィーナスへの祝福としては、最高のタイミング。


 陽が夢を見ているような表情で私を見つめている。瞳の煌めきが深くなり、唇が薄く開かれる。



「……それって、単なる偶然じゃ……」


 掠れた声でかろうじて抵抗してるけど、無駄よ。強引にねじ伏せるから。


「偶然の連なりを、人は運命と呼ぶの。観念しなさい。こうなることは神話の時代から決まっていたんだから、あなたがどうこう言うことじゃないの」



 陽がごちゃごちゃ言い出す前に終わらせてしまおう。ちょっと面倒になってきた。少し寒いし。


 静かに一歩、踏み出す。

 月の光を掻き分けて歩いているみたいで、自分に酔いしれてしまいそう。



「もちろん、あなたがどうしても嫌っていうんなら、話は別だけど?」


 口ではそう言ったけど、拒否なんてさせない。優しく微笑む唇とは裏腹に、強い視線で陽の瞳を刺し貫く。



「嫌……じゃ、ないです」

 強い視線に捕われ、うわ言のように呟いた。


 よし、勝った。

 なんだか夢遊病者が喋ってるみたいな心許ない口調だけど、とにかく言わせた。最終判断は相手に委ねるのが重要だもの。たとえ、ほぼ無理矢理であったとしても。


 既に刺さっているクピドの矢に気付かない振りなんて、もうさせない。

 絶対に抜けないぐらい、深く深く刺し直してあげる。トドメを刺すほどに、深く、ふかぁく……



 さらに、もう一歩。ゆっくりともう一歩。

 視線は一瞬たりとも外さない。


 手を伸ばせば届く距離まで近づいた時、夏蓮は初めて気付いた。



 視線が外せなくなっている。


 こちらが射竦めていたつもりだったのに、いつの間にか、反対に陽の瞳から逃れられなくなっている。星空を映す冷たく清らかな湖のような瞳に、意識がすぅっと吸込まれて行く。頭の芯が痺れる。


(ちょっと、何? これ……)



 額が冷たくなり、夏蓮はほんの一瞬、本能的な恐怖を感じた。無理矢理目を閉じ、陽の肩に額を押しつける。


(きっと気のせい。少し貧血気味なのかしら)


 夏蓮は冷たくなった指先を、そっと陽の指に絡めた。


「少し冷えてきたわ。部屋に戻りましょう」




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