第102話 月光のバルコニー


 恐縮しつつも興奮を抑えきれない声の陽から「美術館の閉館まで居たい」との電話が入り、夏蓮と五島は先に夕食を済ませていた。


「夜の一人歩き、大丈夫かしら」

「電話もあるし、ホテルの住所も知ってる。大丈夫だろう」



 目をキラキラさせ大荷物を抱えた陽が帰ってきたのは、9時近かった。



「アルテとノイエ、両方見て来ました! 凄かった!」


 アルテ・ピナコテークと、ノイエ・ピナコテーク。

 有名な美術館を一日かけて見て回り、陽は興奮した様子だ。午前中の不調は何処へやら、すっかり復活し頬をツヤツヤさせている。


 日本とは段違いである絵との近さへの感動を語り、信じ難いスケールの大きさに首を振り、子供達がソファに寝そべって絵をスケッチしている自由さに感心し……と、喋り続ける。

 スケッチブックを取り出し、絵の模写をいくつか披露したところで、ようやく少し落ち着いたらしい。


「とにかく、日本の美術館で見るのとは全然違うんです。すごく間近で見れて、ほんと凄かった! 俺、あそこに住みたいぐらい」



 夏蓮は微笑みながらその報告を聞き、ワインを傾けていた。


「……良かったわね。ところで陽、帰ってきて手は洗った?」

「あ、まだでした。ついでにこれ、仕舞ってきます」


 数冊のスケッチブック、ミュージアムショップで買ったらしい本や土産物を抱えていそいそと部屋に戻る陽を見送り、五島は冷蔵庫からビールを取り出しながら苦笑している。


「まるで子供の遠足だな」

「ほんとね。でも、ちょっと羨ましいわ。あんなに純粋に夢中になれるなんて」


「……確かにな」


 陽の背中を見送っていた夏蓮は、優しい微笑みを浮かべていた。


「私も、なにか新しいダンス習いたくなっちゃった」

「まだ習ってないのあったか?」

「そうねえ……バリ舞踊とか? ああ、エアリアルは上手く使えば舞台映えしそうよね」

「そうか、調べておく。だが、とりあえずは今年の公演に集中して欲しい」


「ええ、わかってる。私、もう部屋へ戻るわ。おやすみなさい」

 空になったグラスを手に、夏蓮が立ち上がる。


 陽の今夜の夕食らしきサンドウィッチのパックを袋から取り出してテーブルに並べ、ビニール袋をまとめながら、五島が頷いた。


「これを片付けたら、俺も部屋に戻る。おやすみ」



   † † †



 陽の部屋の窓が開く音がしたので、夏蓮はバルコニーへの窓を開け外へ出た。夏蓮の部屋の隣にある陽の部屋とは、バルコニーで繋がっている。



「あ、夏蓮さん。リビングに居なかったから、もう寝ちゃったかと思ってました」

「朝、話があるって言ってたから待ってたの。でも、まだ敬語で話すなら聞かないわ」


「ああ……」

 陽は後頭部をワシャワシャと掻いた。


「夕食は済んだの? 何か飲む?」

「はい、あ、うん。夕食は食べたけど、お酒はいらない。ちゃんと話したいから」



 片手を手すりにかけて半ばこちらへ向き直った陽は、別の手で耳たぶを引っ張りながら言葉を探している。

 空には濃い灰色の雲が流れてきて、レモン型の月を隠す。夏蓮は白いシルクのガウンをかき合わせ、夜気を遮った。



「あの、昨日のこと。すみませんでした」


「……謝られるような覚えはないわ」


「でも」

「私、自分が嫌なことには指一本動かさないの。無理強いなんてしようものなら、即座にハイキックかまして両腕捩じり上げて肩関節外した挙げ句絞め落とすぐらい、朝飯前なんだけど?」



 フッと笑って、陽は俯いた。また耳たぶを引っ張り始める。

「あ……うん。それは知ってる。五島さんに聞いたから。でも、そうじゃなくて」


 俯いたまま、陽は真剣に言葉を選びながら話し出した。


「俺、夏蓮のこと好きだし、尊敬してるし、色んな経験させてもらって感謝してる。一緒にいられるのは凄く楽しい。でも、俺はまだ、恵流のこと忘れられない」


「だから?」


 え、と陽は顔を上げた。


「わたし別に、恵流さんのことを忘れて欲しいなんて思ってないし、第一、本気で好きだったひとを、そんなすぐに忘れられるものじゃないでしょう?」


「でも、それじゃ……二股みたいになっちゃうし、夏蓮に失礼だと思う。えっと、今さらなのはわかってるけど」




……ずいぶん真面目なのね。高校生みたい。



「私は気にしないって言ったら?」


 陽は困った顔で黙ってしまった。


 ああ全く、めんどくさいわね。心の整理がつくまで待ってろって言うの? この私に? 私、待たせるのは平気だけど、待つのは嫌いなの。

 散々泳がせて、「ふさぎ込んでるみたいだから、気晴らしに」なんてちょっと強引な理由付けて海外までおびき出して、やっと手に入れたと思ったのに。



「私じゃ、不満?」


 強い口調で言うと、陽は慌てて顔を上げた。


「まさか、そういうんじゃないです。でも、なんて言うか……俺がこんなんじゃ、駄目だと思う。俺は、夏蓮さんに相応しくないと思う」



……わりと頑固なのね。


「私に相応しい相手かどうかは、私が決めるわ」


 陽はちょっと驚いたみたいだ。一瞬ハッとして、視線を外した。



「怖いの?」


 陽の動きが止まった。目の光りがスッと弱くなった。

……手応えあり? もうちょっと押してみましょうか。


「何をそんなに怯えてるの?」


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