第141話 ちょっとした違和感
足音が聞こえたわけでもなかった。
近づいてきた強烈な気配に惹きつけられる様に振り返った時、控えめなノックの音が聞こえた。
「芹沢さん、お久しぶりです」
目かくしのパーテーションの影からひょこっと人懐っこい笑顔を見せたのは、大月陽だ。会うのはアトリエの設立パーティーの時以来だった。
「あああ! 大月くん、お久しぶり!」
「あ、今日もピアス可愛い」
彼にピアスを褒められたのは、確かあのパーティーの時だった。
すれ違いざまにふと言われただけだったが、それ以来、なんとなくピアスを集める様になってしまった。
「ありがとう。お気に入りなの。大月くんの方は、木暮くんのコーディネートかしら? 随分と垢抜けて、男前に磨きがかかったじゃない」
「ちょ、やめて下さいよ」
笑顔から一転、困った様な苦笑に変わる。
大月陽という青年は、人を褒めるのが上手い。ちょっとした変化やその人の美点を見つけ、嫌味を感じさせず、さり気なく褒めるのだ。
そのくせ、自分が真正面から褒められるとほとんど狼狽とも見える態度を示す。
それを知っていながら止めないのは、彼の反応が面白いからだ。
「今やすっかり有名人ね。そろそろ取材も慣れたんじゃない? テレビなんかでもチラホラ見かけるし」
「いやいやいや、勘弁して下さい。テレビって言っても地方局やCSの番組とか、朝のニュースでチラッと映っただけだし。雑誌の取材も、全然慣れなくて。優馬さんに怒られてばっかりです」
そわそわと髪の生え際を親指で掻きながら、大月陽は芹沢の向かいの席に座る。備え付けのポットから汲んだ冷たい麦茶を勧めると、陽は軽く会釈して紙コップを受け取った。
簡素な会議室の蛍光灯のせいだろうか、改めて間近で見るとちょっとした違和感を覚えた。
「あれ。もしかして、ちょっと痩せた?」
麦茶をひとくち飲んだ陽が、紙コップの端を咥えたまま眉を寄せた。
「んー、どうだろう? 体重測ってないから……あ、でも」
コップを口から離し、ため息まじりに笑う。
「絵描いてると、たまにメシ食うの忘れちゃうんですよね。そのせいかな」
「それでまた、木暮くんに怒られるんだ?」
「そう。あははは」
「笑い事じゃないんすよ、芹沢さん」
いつの間にか、木暮優馬が背後に立っていた。
「うお! ちょっと優馬さん、気配消すの止めてってば」
少し視線を向ければパーテーションが視界に入る筈の陽が、完全に背中を向けていた芹沢よりも大げさに驚く。
「集中力が凄いのはいいんですけどね、絵以外のことはボロボロ。それはもう、ボッロボロ。ちょっと目を離すと、どんどん痩せやがる。全くコイツは……」
元の職場だけあって、勝手知ったる会議室。
デスクを回り込み、優馬の愚痴を聞いていない振りをしている陽の隣の椅子に腰掛けると、当たり前の様に冷たい麦茶を汲んで飲み干し、笑った。
「相変わらず、薄い麦茶」
「すみませんね。嫌なら飲まなくて良いのよ?」
文句を言いつつ2杯目を注いでいると、カメラを携えた菅沼もやって来た。
「おう。お待たせ」
「全員揃いましたね。では早速、始めましょうか」
いつの間にか、さっき感じた違和感は消えている。痩せた、ということ以外にも何かが引っかかったのだが……まあ、気のせいだろう。
芹沢は背を伸ばし、改まった様子で一礼した。
「ええ、おふた方、本日はご足労いただきーー」
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