第191話 あの場所で


 渡辺はいつもの特等席で、道路にしゃがみ込んで絵を見上げていた。隣では宮内が、腹が苦しくてしゃがめないと言って道路に足を投げ出し地べたに座り込んでいる。


「うー、ケツが冷える」

「もう帰る?」

「まだ。まだ見てたい」



 絵から視線を外さぬまま後ろに手を付き、宮内は懐かしむように目を細めた。


「アイツさ、俺にそこの自販機のウーロン茶奢らせてさあ」

「うん?」


 少し先に設置してある自販機の方へ顎を降り、話を続ける。


「謝りに行った時の話。それで絵を踏んだ事チャラにするとか言いやがって。どこのイケメンだよ、って」

「あはは。さすが大月さん。カッコイイ」


「だろ? でも俺、後からすっげームカついて。どんどんどんどんムカついて仕方なくてさ」

「なんで? イケメンすぎて?」

「ちげーよ。いや、それも無くは無いけど、そうじゃなくて。親の金で美大通って親の顔色伺って、周りからの期待とかやっかみとか色々浴びて萎縮してさ。毎日イライラビクビクして、絵がどんどん嫌いになってた時に、大月陽の絵を見てさ。で、すげーじゃん? しかもあいつ、描いてるときも絵の話するときもメチャクチャ楽しそうでさぁ」


「ああ、わかる。あの人、ほんと楽しそうに描くんだよね」


 ピロちゃんを描いていた顔を思い出す。

 特に笑顔を浮かべているわけではないのに、不思議と楽しんでいるのが伝わって来たものだ。絵を描いている彼の姿を、ずっと見ていたいと願ってしまうほどに。


 大月陽が描いているところを目の当たりにしたのは、ピロちゃんの時を含めて数えるほどだった。今思うと、それはとても特別で、濃密な時間だった。



「……で、挙句にイケメン対応されて、ムカついたんだ」

「そ。俺、何やってんだろうって思ったらもう、悔しくて。そんでフランス行くって決めたんだ。別にフランスじゃなくたって、どこだって良かったんだけど」


「そうなんだ」

「結局さ、大月陽のせいで人生変わったんだよな」

「そっか……」

「お前もだろ?」

「うん。そうだね。俺ら、まだ二十歳そこそこだけどさ、転機になったんだろうなって思う」

「な。すげえよ。腹たつけど。そんで結局、向こうでも助けられてさ。あームカつく」



 しばし、渡辺は思案した。


 うん。駄目元で言ってみようか。



「……あのさ、宮内。それ、喋ってみない?」

「は?」

「俺、取材受けることになってるんだ。大月陽さんを取材してた記者さんが、彼の生涯を記事にしたいって。写真も大量にあるから、ゆくゆくはそれを本にまとめたいんだって」


「いいけど。お前が勝手に決めちゃっていいのか?」

「たぶん大丈夫だと思う。木暮さんの家族とか大月さんの恩師、他の人にも色々取材するらしいから」

「ふうん。ま、親友の頼みだから? 引き受けてもいいけど?」

「え、なんかランクアップしてる」


「こっちにいる間は、どうせ暇だしな。なんか面白そうだし」



 絵を眺めていた宮内が、突然首をぐるりと回し顔を向けた。


「そういやお前、あれ。アドラメレク関連でめっちゃ書き込みしてんの、お前だろ」

「あ、わかる?」


「文章がまんまお前じゃん。信者呼ばわりされてるみたいだけどさ、取材に答えたりしたら身バレすんじゃね?」

「いいよ、別に。大月さんと出会ったことは俺の財産だから、隠す必要なんて無い。身バレ上等、なんてね」

「いや、それはさすがに……」

「一応個人情報は伏せるけど。でも、バレても別にいいんだ」


「なんでそこまで?」


 宮内は上半身を起こして足を組み、胡座をかいた膝を手で擦った。


「恩返しかな。大月さんの絵で、俺はすごく救われたから。だから、大月さんが命賭けてまでやったこと、引き継ぎたいんだ。今も少しずつだけど、アドラメレクに関する情報が世界中から集まってきてる。もしかしたら、その正体を突き止められるかもしれない。それが無理でも、こういう奴に気をつけろ、容易に手に入る力なんて信じるなって、伝えられる」


「なるほどな……あ、俺が取材で話すのは、別に恩返しとかじゃないから」


「……わかってるって。親友の頼みだから、だろ?」

 含み笑いをこらえながら、渡辺は賛同してみせる。


 まあな、と呟き、宮内は引き寄せられる様に再び絵に向き直った。


「……なあ、もしお前がそいつに会ったら、どうする?」



 ぼんやりと絵を眺めながら尋ねた宮内の声は少し心もとな気で、渡辺の気を引いた。


「ダッシュで逃げるよ。でもその前に、そうだな……おととい来やがれ、って言ってやる」


 宮内は、フッと短く笑う。

「……甘いな。くたばれ糞ジジイぐらい言ってやれよ」


「あはは。罵詈雑言は宮内には敵わないね」

「こんなん序の口だ」



 さり気なく様子を窺いながら、渡辺は念を押すように言ってみた。


「お前も、逃げろよ? 宮内」

「……当たり前だ」



 口を曲げ不機嫌に嗤う宮内を見て、何故か安心する。

 大丈夫。俺もこいつも、奴の罠には嵌らない。絶対に。




 駅の方からカップルが近づいてきて、渡辺たちから少し離れた場所で立ち止まった。夜気に鼻先を赤く染め、小さな声で話しながら熱心にシャッター絵を見つめている。


 渡辺は宮内を目で促し、立ち上がった。


「あの、絵を見にいらしたんですか?」


「あ、はい」


「それなら、ここがベストポジションですよ。こう、しゃがんで低い位置から見上げるんです。ええ、どうぞ。僕等はもう、充分見ましたから」


 宮内も立ち上がり、場所を譲った。



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