第192話 ここから


「もう充分見ましたから、か………」


 礼を言うカップルに軽く会釈し、宮内はふらりと歩き出した。



「ねえ、駅と反対方向だよ」


 追ってくる渡辺に構わず無言で進み、例の自動販売機の前で止まると、ウーロン茶を2本購入した。


 黙ったまま、片方を渡辺に差し出す。察した渡辺もまた、それを黙って受け取った。


 プルタブが音を立て、ほのかな湯気が白く昇る。


 熱い液体をゆっくりと一口啜り、宮内が天へ昇る湯気を目で追った。



「あいつ、猫舌だったな」

「……そうだったね。甘いものも苦手で」


 宮内に倣い、渡辺も空を見上げた。


 真冬の夜空は暗く澄み渡り、たくさんの星を煌めかせている。

 小さな銀色の月にかかった薄い雲が、ゆっくりと過ぎ去っていく。

 自販機の明かりに照らされた街路樹が、かすかに枝を揺らす音が聞こえた。



 宮内は、いつの間にかかつて陽がやっていた様に缶を両手で転がして手を温めている自分に気づき、俯いて小さく笑った。


「俺、あいつの背中を追っかけるの、やめる。お前の言う通り、もう充分見た」

「え?」


「なんでもない。ただ、俺は大月陽みたいには描けないし、親父の望む絵も描けないってわかった。改めてあの絵を見て、痛感した。おかげで吹っ切れたわ」


「そうだけどさ……大月さんだって、お前にはなれなかったと思うよ?」



 その言葉に、宮内はさも意外そうに渡辺の顔を覗き込んだ。


「………なにお前、もしかして案外いいやつ?」

「案外って、何か酷くない? 」


 熱い缶を持った手の甲で口元を擦り、渡辺は受け流すように笑った。


「……まあ、俺がいいやつだとしたらさ、それは大月さんと木暮さんのおかげだよ。他人に好意や興味を持つことが出来たっていうか……興味どころか、あのふたりの関係性は俺の憧れだった。そんな風に思うの、初めてだった。それに、彼らの絵は俺の気持ちを少し、楽にしてくれた」


「ふうん。よくわかんないけど、良かったな」

「うん。他人に期待してもしなくてもいいし、色んなことは、わりとどうでもいいんだよ」


「……お前、何言ってんの? ウーロン茶で酔っ払ったか?」



 先ほどより深刻な表情で心配そうに覗き込む宮内に構わず、渡辺は尚も言い募る。


「だからさ、宮内は宮内でいいし宮内じゃなくてもいいってこと! 俺も宮内も、変わっても変わらなくてもいいんだ。どっちでも」


「おぉ………そうか」


 気圧されて、宮内は意味も分からぬまま曖昧に頷いた。



「そう。自分の好きにすればいい。どっちにしてもね、そんなの関係なく、世界は美しいらしいから」

「おあ? ……お前、マジで大丈夫か? まさか、ショックで」



 月の光を受けて渡辺の頬が濡れているのに気付き、宮内は口を噤んだ。


「大月さんがそう言ってた。だから多分、そうなんだと思うんだ。今はまだわかんないけど、俺はそう、思おうと………思ってみようと、思うんだ」



 両手で缶を握りしめ、渡辺は音もなくぽろぽろと涙をこぼしている。宮内は慌ててポケットを探ったが、生憎財布と携帯しか入っていなかった。


「悪い、俺ハンカチ持ってない」


「……だいじょうぶ」


 袖口でゴシゴシと顔を擦り苦笑いを漏らした渡辺の肩に腕を回し、宮内は力を込めた。ゆっくりとガードレールまで誘導して座らせ、自らも隣に腰掛ける。



「……意味は全くわかんないけどさ。美しいか汚いかだったら、そりゃ綺麗な方がいいよな、うん」


 本当に全く伝わっていないらしいが、宮内が精一杯気遣ってくれているのはよくわかったので、渡辺は洟を啜りつつ黙って頷いた。



「せっかくだから、俺もそう思ってみるかな。大月陽が……そう言うなら?」


 ウン、と頷き、へへと笑った渡辺を見て、宮内は安心したようにウーロン茶を飲み干す。


「……寒いし、そろそろ帰ろうぜ。お前も早くそれ飲んじゃえよ」




 駅へ向かおうとスタジオの前を通り過ぎた時、先程のカップルはまだ、シャッターの絵を見上げていた。



   † † †



 駅までの道を辿りながら、宮内は空を眺めて言った。


「あのさ、俺、正月明けまでこっちに……ってか、お前のうちに居るけどさ」

「え、俺んちに? そんなに?」

「うん」


「わあ、即答。決定事項なんだ……」


「でさ、その後の冬休みの間、俺んとこ遊びに来れば?」

「……って、フランス?」


「そ。俺んち泊まればいいし。遊ぶトコは無いけど、なかなか面白いよ。おかしな連中ばっかで」

「………でも、ピロちゃんが居るしなあ」


「実家に預けるとか」

「うーん……」


「向こうの奴らもさ、大月陽の絵が好きなのが結構いるんだ。例の件で話題にもなったし。お前のこと、伝説の画家と知り合いだって紹介してやるよ」

「伝説の画家?」


「そうだろ。人間関係超絶冷めきってたお前が、それだけ慕うようになったんだし。もちろん絵も凄いけど……って当たり前か。絵に出てるんだよな、色々と」


「うん。俺と同じような人は、たくさんいると思う。彼や彼の絵に出会って、何かが変わったって人。身体的な影響どころじゃないよね、人生に影響与えちゃうんだもん。確かに、伝説の画家だ」



 宮内は渡辺の肩を掴み力を込めながら、歩みも話もグイグイと押し進める。


「取材同行の話も聞かしてやろうぜ。フランス語? 俺が通訳する。チケット代もこの時期ならそんなに」

「ってか、なんでそんなに………あ」


 渡辺は足を止めた。



「宮内………もしかして、俺を慰めようと……? うちに来たのも、それで?」

「ちげーよ馬鹿、ただの帰省だって! ホラとっとと歩けよ! さみーんだよ」


 即座に否定するその速さが、渡辺の言葉を裏付けてしまう。

 宮内はそそくさと先に立ち、足早に歩きながら勝手に次々と言い訳を並べ立てた。


「正月くらいはやっぱな、顏出しとかなきゃじゃん? でも家に居ると親父がうるせーし。あとあれだよ、叔父さんとこの画廊の絵もさ、見せてもらおうかなとか思って。日本の土産も頼まれたし。文房具とか絵の道具とかさ、向こうでも評判いいから」



……ありがとう、なんて言ったら、宮内はきっと怒るだろうな。いや、怒ったふりか。


 感謝の言葉は胸の内に留め、渡辺はぴょんぴょんと跳ねる様に宮内に追いつくと、言い訳を信じたふりで頷いてみせた。


「……そっか。じゃあ、ピロちゃんのこと、親に頼んでみるよ」

「おう」



 住宅街を抜けると、遠くに高架線が見えた。電車の黄色い明かりの連なりが、音を立てて通り過ぎる。



「あのさ、さっき話した記者の人ね、本の表紙はあの絵にしたいんだって。書き始めは、もう決まってるんだよ」


「え、お前、そこまで知ってんの?」

「うん。取材の申し込みの時に、冒頭の文章だけ見せてくれたんだ。それ読んで、取材受けようって決めた。何度も読んだから憶えちゃった。大月さんと木暮さんが出会う元になった場所、あのシャッターの絵から始まるんだ」


 渡辺は歩を弛めて目を伏せ、唄でも詠むかの様に語り出した。




 先ず、月が在った。

 星のない空にぽっかりと浮かぶその満月は、曖昧な陰影をたたえ煌々と闇を照らしていた・・・・・






  


______________________________________




これにて一応、完結です。長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。

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アドラメレク 霧野 @kirino

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