第175話 悪魔と呼ぶのなら。陽の回想


 もう、立ち上がる気力さえ消えていた。


「頼む……頼むよ。お願いします。優馬さんを、助けて。夏蓮を、親父さんと静江さんを、助けて下さい」


 倒れた姿勢から四つ這いになり、頭を道路に擦り付ける。


「俺はどうなってもいいから。お金なら全部あげる。魂でも寿命でも、何でも持ってっていいから。絵なんてもう描けなくていい。今ここで死んだっていい。だから、お願い……この力を消してよ。もう誰も、巻き込まないで」


 道路に落ちる雨粒が顔に跳ね返る中、陽は縋る思いで頭を下げ続けた。



 だが、返ってきたのは、頭上から降り注ぐ無情な声だった。なんの感情も見られない、無機質な声。


「君の金にも魂にも寿命にも、興味は無い。一度与えられ生み出された力は、取り消せない。お祓いも無駄だ。生命と同じだよ。生まれた赤ん坊を腹に戻せるか? 祈れば無かった事に出来るかね? 否」


 陽の懇願にも構わず、老人は滔々と言葉を連ねる。


「一度生まれれば、力は育っていく。強くなる。存分に描きたまえ、より素晴らしい作品を」


「嫌だ! 大事な人を不幸にしてまで、俺は……」


 頸を振って叫ぶと、道路の水気を吸い込んでしまい噎せ返った。激しく咳き込む陽を余所に、老人は続けた。


「力を求めれば、代償が要るものだ。大きな望みを叶えるには、大きな力を。大きな力を発揮するには、大きな代償を。大きな代償とは、その者にとって一番価値のあるもの。君の場合、それは周囲の人の幸福であり、周囲の人々もまた、それを望んだ。実に単純な話だ」


「だって……」


 無理やり咳を止め、陽は漸く顔を上げて老人を見上げる。老人は無感動に陽を見下ろしていた。


「だって、知らなかったんだ……代償が要るなんて言わなかったじゃないか」


 老人は陽を見下ろしたまま、緩く首を振った。

「言うまでもないだろう。何かを得るには何かを支払う。世の中の理だ」



 絶望のあまり、体の力が抜けていく。頭の中がグラグラと揺れているのを感じながら、陽は茫然と呟いていた。


「そんな……なんで、そんなこと……」




 先ほど道路にこすりつけた額がズキズキと痛むのに気付き、小さな怒りが湧いた。


 小さな怒りは徐々に大きくなり、体に力が戻り始める。すると、一つの疑問が浮かんだ。


 雨に打たれ道路に跪いたまま、陽は低く唸った。


「……あんたは、何を得た?」

「ん?」


「物事には対価が要るんだろ? 俺に力を与えることで、お前はどんな得をした?」


「……ほう。なかなか鋭いね。どうやら私は、君を少し見くびっていたらしい。この状況下でそれに気づいた君の知性に敬意を表し、質問に答えよう」


 睨みつける陽を見下ろしながら、男は気取った仕草で両手を広げた。


「私が得たのは、新たな知識だよ。人の心が、どんな風に動くのかに興味があってね。怒り、悲しみ、喜び、欲望、恐怖、焦燥妬み狂気……多様な感情と、行動。様々な人間に力を与え、それぞれの力がどう働くのか、其の者が何をするのか、どういう結末を迎えるのか。それらを見届けて解析し、理解したいのだ」


「それだけの理由で、人を破滅させるのか?」

「別に破滅させたいわけじゃない。愚か者が自滅しているだけだ」



 陽の眼差しが、鋭さを増す。かつて感じたことのない怒りが湧き上がり、体に満ちていく。


「この、悪魔……お前は、悪魔だ」


 陽の言葉に、老人は薄ら笑いを浮かべた。


「失敬な。私も君と同じ、人間だよ。『人の心が知りたい』と強く望み、別の誰かに力を貰ったのだ。代償は、自分の体だった。私は知識を得る度、体の機能をひとつ失う。足も、内臓機能もあちこち壊れているが、最初に失ったのは、この目だ」


 老人は自分の黒い眼帯を指差し、ほとんど自慢げに言った。

「さながら知識を求めて片目を泉に投げ入れた、オーディンの様じゃないか?」



 気力を振り絞り、体に力を込める。

 ゆっくりと、陽は片膝を立てた。


「何がオーディンだ。お前は、悪魔だ。俺はお前を許さない。絶対に、許さないからな」


 立てた膝を支えに、ゆらりと立ち上がる。



 老人は退屈そうにステッキを持ちかえ、わざとらしく手を振って嘆く様な仕草を見せた。声には嘲るような響きが滲んでいる。


「おお、せっかく力を与えたのに、なんたる言い草。近頃の者は礼の言い方も知らん……今だって、その力が働いているだろう? 絵を描きたくて体が疼いているだろう? 描くことへの情熱が滾っているんだろう?」


 老人は腰を屈め、ぐいと顔を突き出した。


「……君が私を悪魔と呼ぶのなら、君も同類だ」


「違う! 違う! 俺は……!」

 陽は思わず、ニヤニヤと黄ばんだ歯をのぞかせる老人から後ずさった。


 老人は背を伸ばすとステッキを高く掲げ、まるで悦に入った舞台俳優の様な声を張り上げる。


「さあ、描きたまえ! 我が同胞よ! 最強の生贄を得た今の君なら、素晴らしい作品を描ける! 歴史に名を刻む作品を創りたまえ!」






 同胞なんてとんでもない。この男は、狂った悪魔だ。


 陽は踵を返し、一目散に駆け出した。




 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!! ……逃げろ! 離れるんだ!



 遠くへ! うんと遠くへ!



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