第176話 放送開始



 そろそろ時間だ。


 寂れた小さな教会の中ほど、ノートPCを置いた台に向かう。並んでいたベンチは隅の方に寄せてある。


 PCの前の簡素な丸椅子に座り、最後の調整をする。

 画面には板張りの小部屋に座る自分が映っている。我ながら、酷い顔だ。

 薄暗い部屋の中、ひびの入った素朴なステンドグラスと古ぼけた祭壇が辛うじて見える。



 あの部屋に居られなくなって最初に思い出したのが、ここだった。

 もう何年も前、配達の帰りに景色を求めて道を外れ偶然見つけた、打ち捨てられた古い小さな教会。

 最後に来たのは、恵流と花火をした時だ。

 花火とシャボン玉を同時にやって遊んだんだ。色とりどりの光と白い煙の中に浮かぶ虹色に光るシャボン玉は、夢の中にいるみたいに幻想的だったっけ。



 全て夢であって欲しいという思いが、ここを最期の場所に選ばせたのかも知れなかった。


 でも、これから自分が行うことは、現実だ。夢に逃げ込んだ結果じゃない。散々考えて迷って足掻いて、でも、こうするしかなかった。他に選択肢は無かったんだ。




 覚悟を決めたとはいえ、やはり手が震える。

 でも、やらなくちゃいけない。多くの人に、このことを伝えなくては。

 自分と同じ罪を、他の人に起こさせないために。


 それが唯一、自分に出来るせめてもの罪滅ぼしなのだ。




 PCに伸ばした指が、震えている……






「みなさん、こんにちは。大月陽です」


 一礼して顔を上げると、画面の隅に表示された閲覧数がみるみるうちに跳ね上がっていく。夏蓮も見てくれているだろうか。


「理由があって、しばらく記事の更新や絵の販売を含めた全ての活動を停止していました。にも拘わらず、たくさんの方がブログなどを閲覧して下さっていて、心から感謝するとともに申し訳なく思っています。また、勝手に連絡を絶ってしまったことで、心配してくださる方もいらっしゃると思います。本当にごめんなさい」


 再び、深く頭を下げる。何度詫びても足りないぐらいだ。


「……俺……えっと、私は、喋るのがあまり得意ではないのですが……どうしても伝えなければならないことがあって、本日、このようにネットでの生放送という形を取りました。これを見て下さった方の中には、いや、たぶん殆どの人が、私の頭がおかしくなったんだと感じるだろうと思います。でも、それで構いません」


 そう思ったとしても、きっとあながち間違いじゃない。俺はもう、壊れかけてる。心が砕けるどころか砂みたいに崩れて、風が吹けば飛ばされそうになってる。完全に狂ってしまえば楽だろうが、それは出来ない。

 ほんの少しでも、自分のしたことの責任を取らなければ。


……そういや、前に同じようなこと言ってた奴がいたな。『完全に狂ってしまえば楽だろうが』って。



「私は、たくさんの人に迷惑をかけ、彼らを不幸にしてしまいました。みな、私を気にかけてくれて、親身になってくれて、愛してくれた人たちです。私の大好きな、大切な人たちです。でも私は、彼らを不幸にしました。決して意図的にではないにせよ、結果として、恩を仇で返すみたいに」


 胸が詰まる。言葉が出なくなって大きく唾を飲み込もうとしたが、喉がそれを拒否する。強く目を瞑り、無理やり飲み込んだ。



「もしやり直せるなら何だってする。でも、無理なんです。起きてしまったことは、もう取り返せない。だから、終わらせるしか無いんです」


 そう。あの男と対峙した後、散々調べて回った。優馬さんが探偵社に依頼した結果も無理やり聞き出したし、自分でも色々やった。無駄だと分かっていたがお祓いもした。結局、「手に負えない」と匙を投げられたが。



「どう話したらいいのか……事前に頭の中でまとめたつもりだったんですが……」


 両手で額を撫で上げると、冷たい指先が乾いた額に触れた。真夏だというのに、汗ひとつかいていない。

 割れたガラス窓から、外で鳴いているセミの声が聞こえている。窓の外には、目も眩むような真っ白な日差しが揺れる。


(今日も暑い筈なのにな……)


 かさついて色の抜けた唇を噛んで湿らせる間に、もう一度頭の中を整理した。上手く話せればいいけど。



「何年か前の話です。私はある時、ひとりの老人に話しかけられました。『望みは何か』って聞かれて、『絵を描くこと』って答えた。ただ、それだけだったんです。俺の中にある絵を、イメージを、そっくりそのまま……形にしたかった。絵を、描きたかった。それだけだった。聞かれたから、そう答えた。でも、それが間違いだった……」


 何度も何度も、あの晩のことを思い返した。あの日に戻れさえしたら。無理やりにでも気を鎮めて、あのまま恵流と食事に出掛けていたら……彼女はきっと、今でも……

 お馴染みの悔恨と怒りが押し寄せる。何度襲われたかわからない絶望の荒波を、歯を食いしばってやり過ごす。波が去っても、自責の念がじわじわと身体に染み込み、心を蝕む。



「俺は、まんまと騙された。途方もない馬鹿だったから、付け入られて騙されたんだ。でも今は、あいつの正体を、知ってる」


 感情が、昂ぶっている。動悸が、息が、荒くなっているのがわかる。落ち着け。冷静に話さなきゃ、ちゃんと伝わらない……


 気づけば爪を立てて膝を掴み、もう片方の手では拳を握って太腿を何度も殴りつけていた。骨に沁みるような痛みが走り、おかげで少しだけ落ち着けた気がする。



「あいつは自分のことをオーディンとか擬えてたけど、そんなんじゃない。あいつは、悪魔だ。あるいは、悪魔の手先だ。気が狂ったと思うだろうけど、本当なんだ。あいつは、俺に印を付けた。呪いの烙印。これが、その証拠です」


 ぐい、とシャツを捲り上げる。何日も着たままだったせいか傷んでいたらしく、裾が破けた。面倒になってそのまま破いて毟り取り、床に落とした。



「羽を広げた孔雀……この痣、蓮の花だったらいいなと思ってたんだけど……違ったよ………羽を広げた孔雀の、烙印。悪魔の印です」


 心の声が思わず漏れてしまった。

 夏蓮がいつか言ってた。胸に真紅の花が咲いてるって……彼女はいつも指で触れて……愛おしげに………


 駄目だ。今は考えるな。思い出すな。話すことに集中するんだ。



「……おい、お前」

 ウェブカメラを睨みつけ、痣を抉るように胸に爪を立てる。



「お前の正体は、アドラメレクだ。それか、その手下だ。そうだろ」


 あいつは、絶対に見てる。この放送を、見てるはずだ。

 どうだ、図星だろう。出てこい。俺は絶対に、お前を許さない。せめてもの道連れにしてやる。



「アドラメレク! 言葉巧みに言い寄って子供を生贄にさせる悪魔! 親切ぶって近づいてきて、人を陥れてほくそ笑む悪魔だ! いいかステッキじじい、お前は知識を求めてるんじゃない! 人の不幸をニヤニヤしながら観察しているだけの、下衆野郎だ! 下衆野郎! 屑中の屑だ! 糞じじい! 見てるんだろ?! 強く願えば姿を現すんだろ! 出てこいよ! 出てきてみろ!」


 激高のあまり、頭がズキズキする。一瞬目の前が眩んで、大きく息を吸った。


「悪魔なら悪魔らしく、地獄に落ちろ! いや……俺がお前を連れて行く! 連れて行けないまでも……これ以上、お前の思い通りにはさせない」


 PCを置いている台に立てかけておいた一枚の絵を取り上げ、画面に映す。この時の為に描いたものだ。


「黒い山高帽に、古びた黒いロングコート。季節に関係なく、ヤツはこの姿で現れる。身長は多分、170センチ弱。黒い眼帯をして銀細工の入った黒いステッキをついて……しゃがれ声で下らないことをペラペラ喋る。もしこいつを見かけても、相手にしちゃ駄目だ。絶対に答えちゃ駄目だ。すぐに走って逃げてください。話をすれば、付け込まれる。言いくるめられる。絶対に、話をしちゃいけない。会話をしたら最後……不幸になる。大切なものが犠牲になる」


 モニターに映る醜い老人を睨みつける両の目から、いつの間にか涙が流れていた。


「お願いです。騙されないで。俺のようにならないで下さい。もう誰も、不幸になってほしくないんだ。だから……頼みます。逃げて、ください」



 あの時あいつと話したりしなきゃ、恵流も優馬さんも死ななかった。栞さんだって夫を失わずに済んだんだ。夏蓮は怪我しなかったし、天本さんも静江さんも元気で、今も工房のみんなと仕事してた筈なんだ。全部俺のせいなんだ……


 腕で乱暴に涙を拭うが、手首から肘までビショビショに濡れてもまだ、涙は完全には止まらず滲んでくる。


「俺の言うこと、信じられないと思う。気の狂った絵描きの戯言だと思ってくれて構いません。でも、憶えていて欲しい。この老人……アドラメレクに、絶対に関わっちゃいけない。これだけは、忘れないで」


 椅子から立ち上がると、絵を元どおりに立てかけPCを取り上げる。


 もう手は震えていない。その代わり、心臓が普段の鼓動とは異なり小刻みに震えている。


 静かにひとつ、息を吐く。



「これから、儀式を始めます……」


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