第136話 脱? ワタナベの悩み


 自分の思いを確かめるように、青年は再び、ゆっくりと話し始めた。


「……でも、そうはならなかった。期待してたもの、想定してたのと全く違うことを言われて、すごくびっくりしたんです。話してて噛み合ってるのかどうかもわかんないのに、なんか心の底がざわざわして、脳が揺さぶられて、ひっくり返されたみたいだった。だってまさか……丸ごと全部、受け入れるなんて発想、俺には全然無かったから」


 渡辺青年は、小さく、だが勢い良く息を吸った。


「そうだ。俺、赦して欲しかった。君は悪くないって言って欲しかった。なのに……自分に、その用意がなかったんだ。心の準備が出来てなかった」



 声が小さく震えている。

 少しずつ、少しずつ吐き出す細い息も、震えている。




「誰かに自分を受け入れて欲しいと思ってたけど、自分自身で、自分を受け入れてなかった?」


 優馬は、彼の言葉を整理するふりをして時間を稼いだ。

 そう。ゆっくりでいいから、ちゃんと古い息を吐ききって、新しい酸素をいっぱい吸い込めばいい。ゆっくり、ゆっくり。



「……その通りです。なんの覚悟もないくせに、理解して欲しいだの正解が欲しいだのって。そんなの、ただ甘えてるガキだ」


 呼吸が整い、声の調子が戻った。視線も定まったし、表情も少し吹っ切れた様に見える。



「そうか、ガキか。でもまあ、無条件に受け入れられたい、思いっきり甘やかされたいって思うこと、誰にでもあるもんだよ」


「木暮さんにも?」

「もちろん。大人だっつったって、心がガラッと全部入れ替わる訳じゃない。子供じみた感情だってしつこく残ってて、たまに顔を出してきたりする。ま、世間は厳しいから、そうそう甘やかしてはくれないけどね。そのうち慣れる。だんだん、折り合いのつけ方ってのを覚えて行くんだ。若いうちにいっぱい傷ついたり考えたりしたら、その分大人になってから生きてくのが楽になるから、大丈夫」


「……大丈夫、ですか」

「うん。だいじょうぶ」



 目の前の青年は肩を竦めて息を吸い込み、ふうっと思い切り吐き出した。

 首と両肩がガクンと落ち、腕の力を抜いてだらりと下げる。俯いた口元から、力無い笑い声と呟きが漏れてきた。


「ふ、へへへ……大丈夫か。そっか……大丈夫か………そういえば、宏ねえもそう言ってたな……」




……お? どうした? 急に笑い出したぞ? 何が琴線に触れたのか不明だが、この路線で正しかったみたいだ。


「それでも辛くなったら……好きな絵でも見てさ。美味いもん腹一杯食って、うひゃひゃって笑って。こうやって誰かと話して。たまーに真面目に考えごとしたりしてさ。どう転んだって、人生なんてどうせあと80年かそこらしか無いんだ。気楽にいこうや」



 長めの前髪に隠れ表情は窺えないが、肩が僅かに震えだした。


 くつくつという忍笑いののち、とうとう渡辺君は笑い声をあげた。



「あははは、ダメだ。可笑しい」

「お? なんだなんだ」


 少し驚きつつもつられて笑顔になりかけている木暮を見て、渡辺青年は更に笑う。



「だって、だってさ。木暮さんも大月さんも、励まし方がなんか独特すぎて……」


「え。別に、励ましてないし」


 息も絶え絶え、という風情で腹を抱えていた青年は、堪えきれずにカウンターに突っ伏しバンバンと棚板を叩き始めた。


「ほら、その言い方もそっくり!」



「あー……そうか?」


 思わず耳たぶを引っ張りかけ、すんでのところで手を止めた。これじゃ、ますます陽に似ていると思われてしまう。

 しかし、なんだな。長らく一緒にいると、話し方や仕草まで伝染ってしまうものなのだろうか。



「それに、80年って普通に長いですから」


「そうそう。80年もあるんだから試行錯誤しながらのんびり過ごすも良し、どうせあと80年で終わるんだからって気楽に構えて過ごすも良し、ってね」


「なんか、木暮さんって生きてて楽しそう」

「おう。楽しいぞー!」


「どうしたらそんな風に思えるんだろ」

「簡単だよ。楽しく生きてこう、って決めて、そうしてるだけ」


「それって、簡単には思えないけど……あ、でも。大月さんも似たようなこと言ってました。全ては気の持ちようだって。あと、『見ようによっては、この世界は美しい』って」


「ああ、『見ようによっては』ってのがあいつらしいわ。大変な思い、いっぱいしてきてるのにさ、それでも、ヘラヘラ笑いながらそう言っちゃうんだよな」


「……すごいですよね」


「ああ。でもあいつ、『えー、別に普通だよー』とか言うよな、絶対。で、飄々とすごい絵を描き続ける。変な奴。すっごい変な奴」


「はい。凄い人で、すごく変な人です」

「やっぱそう思う?」


「なんかこう、突き抜けてて。悩んでる自分が馬鹿に思えてきます」


「いや、馬鹿じゃないよ。悩むのは先に進もう、解決しようとしてるからだ。馬鹿なのはさ、悔やんでるだけのヤツ。自分や周りを呪って、恨んで、僻んでばっかで。そうやって時間を無駄にして、人生を棒に振るようなのを馬鹿と呼ぶんだ」


「辛辣ですね……でも、確かにそうかも。大体そういう人って、何がしたいのかわかりませんし」

「な? まあ、凝縮熟成された恨みつらみから生まれるものも、あるのかもしれないけどさ」


「でも、あと80年しか無いし?」

「そういうこと。楽しんだ方がお得だろ?」


お得か……と呟き笑った青年は、いつも纏っていた淡い憂いを払い落としたように見えた。



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