第99話 夏の夜に咲く


 仕事を終え、夏蓮を迎えに行く頃には、16時を回っていた。

 五島が車を運転する隣で、夏蓮が陽に電話を架けはじめた。ハンズフリーにしたので、五島にも会話が聞こえてくる。


「夏蓮さん、お疲れさまです」

「お疲れさま。これから帰るけど、大丈夫だった?」


 電話の向こうが何やら賑やかだ。


「えっと、大丈夫なんですけど、なんか行列出来ちゃって……」


「行列?」



 ふたりがホテルに着くと、ちょうど陽が戻って来た。両手一杯に荷物を抱えている。たくさんの果物やお菓子、瓶ビール、ペットボトルのジュースなど様々だ。



「絵のお礼に、って貰っちゃいました」



 発端は、陽が街中で風景画を描いていたことだった。


 その絵を小さな女の子が覗きに来たので、別のページにサラサラと似顔絵を描き、プレゼントしたのだという。

 すると礼を言いにやって来たその子の親に、「漢字で娘の名前を書いてくれ」と頼まれ、それを見た周りの人々が「我も我も……」となったらしい。



「途中からは似顔絵関係なく、とにかく漢字の名前を!! ってなって。お金を払おうとするから断ってたら、なんか現物支給みたいに」


 陽は笑いながら、「黒の絵の具だけやたらと減っちゃいました」とボヤいている。



「なんか、黒がい良いらしいんですよね。墨字っぽいからかな?」

「太い筆で書いたみたいに見えるように、こう‥‥漢字のアウトライン先に書いて、後で中を塗りつぶしたんですよね。単なるレタリングなんですけど、マジシャン扱いされました」

「何て書いたか? ……忘れちゃったけど、必死で漢字を捻り出しましたよ。あ、パウロって人がいた。Pから始まる漢字なんて無いから、『波宇侶』って書いて『波と宇宙の僧侶』とか適当に説明したら、すごい喜んでた」



 いかにも愉しげな陽が珍しく饒舌に語るのを、夏蓮は声を上げて笑い、嬉しそうに話を聞いている。


「凄いじゃない。なんかそれ、商売になりそうよね」

「ああ、面白そうですね。当て字の雰囲気から絵を描いてみたりとか……海外向けにやろうかな」



 貰ったものを整理し終えると、陽はバッグの底からペットボトル入りのオレンジジュースを取り出した。


「これ、忘れてた。朝、駅前で買ったオレンジジュースがやたら美味かったから、ふたりにもと思って買っておいたんです」


 えへへ、と笑ってボトルを差し出す陽から、夏蓮は今にも蕩けそうな表情で受け取る。五島もジュースを受け取りながら、一瞬彼の頭を撫でてやりたくなった自分に驚いていた。




 食事の間、陽は名前のことについてずっと話していた。外国の名前に漢字を当てていて気になったのだと言う。


「そういえば夏蓮さんって、芸名? はカタカナでカレン、ですよね? 何でですか?」


「んー、カレンって、海外でも通じる名前じゃない? で、実は夏の蓮って意味だって教えると、受けがいいのよね。でも、理由はそれだけじゃなくて。煌月夏蓮って字面が仰々しいし、サインするとき面倒なのよ」


「ああ、なるほど。サインが面倒って、わかります。俺も、横書きで名前書くと『大腸』に見えちゃうことがあって」



 夏蓮と五島は一瞬目を合わせ、同時に吹き出した。


「あははは、ほんと。 大 月 陽 で、大腸ね! 見える見える!」

「大きな月と太陽って良い名前なのに、台無しだな」


「一瞬の錯覚なんですけどね。……って、そんなに笑わないで」


 そう言う陽も、自分で笑ってしまっている。


 レストラン店内の客が数組、「楽しそうだな」という表情でこちらを見ている。中には微笑みかけてグラスを掲げてみせる者も居た。

 夏蓮の笑う声は、高いけれど、空気中に広がってキラキラと淡く輝きながら溶けていくようで、とても耳障りが良く煩さを感じさせない。美しいプールサイドで高価な薄いシャンパングラスが割れ、粉々になったガラスが水の中に降り注ぐ様を思い起こさせる。



「それにしても……」陽はうんと背の高いグラスで少し濁りのあるビールを飲んだ。


「夏蓮って名前は夏蓮さんにピッタリです。泥の中からスーッて伸びて、空中で華麗で大きな花を咲かせる」


「空中で? 水面にポカッと咲くんじゃないの?」

「それは、睡蓮。蓮の仲間だけど別の花です」


「……花にも詳しいのか。なかなか博学だな」

「偶々です。モネの絵で、睡蓮ってのがあるでしょう? あれで知りました」



 夏蓮は白ワインのグラスを口に運ぶ。


「7月の誕生花なのよ。蓮の花」

「いいですね。夏の夜、煌めく月の光りを浴びて……あ、蓮って夜は閉じちゃうんだっけ」


 そうか、と陽が頷く。

「だから代わりに、夏蓮さんが咲くんだ」



 カタン、と音を立てて夏蓮がグラスを置いた。


「ちょっと、ヤダ。私、こんな素敵なこと言われたの初めてかもしれない。ねえ、陽。あなたって時々すごくロマンティックよね」


 ほんのりと頬を上気させた夏蓮がはにかんだように微笑む。


「ね、ごーちゃん。ちょっと見倣った方が良いわよ」

「余計なお世話だ」


 五島は大きな肉の塊を頬張った。

 陽はニコニコ笑いながらソーセージを齧っている。耳の縁が赤くなり目が若干眠たそうなのは、3杯めのビールがまわって来ているからだろうか。



「タケカズさんって、わりと珍しいですよね。漢字とか、ありそうでなかなか無い名前って気がする」


「ああ、うちは武道一家だから。代々『武』の字を使うんだ」

「3人兄弟の長男だから『一』なのよね。海外の人はタケカズって発音しづらいらしくて、みんなカズって呼ぶの。で、カズは『一』って書くんだって教えると、みんな大喜びよ。棒一本の名前なんてクレイジーだって」


「つかみはオッケーってやつですね。でも、『タケ』じゃ駄目なんですか?」


「英語表記すると面倒なことになる」

「……ああ、なるほど」


「ついでに『五島』も面倒よね。紛らわしいっていうか」


「苦労されてるんですね」

「大腸ほどじゃない」



 ひでえ、と陽はまた笑い出す。今日の陽はいつにもまして上機嫌だ。


「五島さんって、思ってたより面白い。顔怖いのに」

「仏頂面で悪かったな」


「ほんと仏頂面! 声出して笑ってるところ、さっき初めて見たし」


 なにか言葉に詰まってしまい、五島は黙ってビールを飲んだ。夏蓮はクスクス笑いながら、そんなふたりの様子を眺めていた。




 トイレに立った陽の背中を、夏蓮が微笑みながら見送っている。


「……随分とお気に入りなんだな」

「まあね」

「年下は初めてじゃないか?」

「年齢なんて気にしたこと無かったわ。でも、年下もいいわね。可愛くて。昼間オレンジジュース貰った時なんて、キュンときたわよ」


 グラスに残ったワインを飲み干し、夏蓮はからかう様な視線を向けた。


「そう言うごーちゃんも、わりと気に入ってるみたいじゃない?」

「別にそういうわけじゃないが……実を言うと、昼間ちょっと思ったんだが……ムサシに少し似てる」


「……!!」夏蓮は両手で口を塞ぎ息を呑んだ。


「それよ!」

「ああ。昔、よく石だの松ぼっくりだのをプレゼントされた。オレンジジュースを渡された時に、ふと思い出してしまって」



 ムサシというのは、五島が実家で買っていた雑種の中型犬だ。真っ白で美しく賢かったが、ひどく人懐っこくて、愛嬌のある犬だった。



「陽を見てると、両手で思いっきりワシャワシャってしたくなる衝動に駆られることがあるの。その理由が、やっと分ったわ。ありがとう、ごーちゃん」


「どういたしまして」



 勘定をする為に、五島は人差し指を立ててウエイターを呼んだ。



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