第56話 来訪者


 陽に来客があったのは、12月28日、仕事納めの日だった。工房の大掃除もほぼ終わり、各々最後の後片付けをしている最中のことだ。


「俺に来客? 誰だろ」

「知らん。宮内って言ってたけど。ひょろっとした若いあんちゃんだ。ここは俺がやっとくから、行って来い」


 すんません、と軽く頭を下げ、軍手を外しながら外へ出てみると、緊張の面持ちで立っていたのは、陽が公園で投げ飛ばした例の男だった。



「あの……先日は、どうも。宮内って言います」

 陽の足元辺りに視線を漂わせながら、男がひょいと頭を下げた。


「ああ、この間の……何か?」


 少し踏み出すと、宮内は素早く後ずさりした。

 陽が足を止め「何もしない」と言う様に両手を開くと、男はおずおずと進み出た。


「今、時間大丈夫ですか」

「ああ。もうじき終業だし、少しなら構わないけど」


 宮内は、今度は深く頭を下げた。

「あの、謝りに来ました。俺、酷いことした。すみませんでした」



 一瞬面喰らったが、すぐに気を取り直し、陽は短く笑ってみせた。


「いいよ。もう、気にしてないから」

「でも、殴っちゃったし……」

「いいって。俺も煽るようなこと言ったし」

「でも……あの、絵を汚しちゃって……」


 宮内は一応頭を上げたが、顔は俯いたままだった。身体の脇で両手の拳を固く握り、落ち着かな気に交互に片足に体重を移している。


 陽は工房の壁に背中を預け、もたれかかった。ザラザラとした外壁の感触と冷たさが、つなぎの作業着越しにも伝わってくる。

 一度ぐるりと首を回すと、ポケットに手を入れ身体の力を抜いた。


「殴られた分はおあいこだろ。絵のことも、もういいから。また描けばいいんだからさ」


「でも。あの時君が言った通り、俺は許されないことをしたと思ってる。後悔してる。だから」



 一瞬言い淀んだが、すぐに言葉を継いだ。

「あの……あの絵、良かったら買い取らせてもらえないかな?」


「だから、いいって」

「でも、それじゃ俺の気が済まない」

「捨てたんだ。全部」


 宮内は身体をこわばらせたが、唾を飲み込むと、静かに震える息を吐いた。その様子から、陽の答えを予想していたのが見て取れた。


「………じゃあせめて、弁償させてもらえないかな」


「弁償?」


 陽は「んん……」と唸りながら耳たぶを引っ張っていたが、やがて気怠げに壁から身を起すと、「じゃあ、こっち」と手招きで促した。硬い表情の男を従えて数メートル歩き、自動販売機を指し示す。


「これ。俺、ウーロン茶がいい」

「え……」


 宮内は戸惑った表情を見せる。


「あ、あったかいやつね」

 急かす様にそう言うと、宮内は急いで財布を取り出し温かいウーロン茶を2本購入した。

 不器用に釣り銭を取っている男に構わず、陽は勝手に男の手から一本頂戴した。


「サンキュ。俺、甘い飲み物苦手なんだよね」

 そう言いおくと、「あったけー」などと呟きながら、勝手にぶらぶらと工房の方へ戻り始める。


 宮内が自販機の前でつくねんと立ち尽くし見送っているのに気づいた陽は、振り返って顎を振ってみせた。

 弾かれた様に足早に戻って来る男を待たずに工房の前へ戻った陽は、缶の蓋を開け、歩道との境にある低いブロック塀に腰掛ける。

陽に追いついた宮内に、自分の隣に座るよう目線で促したが、男は首を振って断り立ち続けた。



「あのさ。あん時は、そりゃ頭にきたけどさ、今となっては良かったと思ってるんだ。いや、良くはないんだけど……」


 熱い缶を手の中で転がしながら、陽は言葉を探した。


「なんていうか、踏ん切りがついたって言うのかな。君が言ったみたいに、チマチマした小銭稼ぎの絵は止めようって」


「……いや、あれはただ、ケチつけたかっただけなんだ。みっともない八つ当たりだった」

 宮内は、消え入りそうな、くぐもった声で言った。



「だとしてもさ、図星だったよ。自分で『絵の具代稼ぎ』なんて言ってたんだから。でもこれからは、ほんとに描きたいものだけを描きたい様に描いてやるって、あの時思ったんだ。だからさ」


 陽は男を見上げ、ウーロン茶の缶を目の前に掲げた。


「これで、チャラってことで。いいよね?」


 宮内は心許なさげに頷き、手の中のウーロン茶の蓋を開けた。

「君が、それでいいって言うなら……」


 陽に倣って缶を掲げ、熱い茶に口をつける。


「あの……飲まないの?」


 陽は片方の眉をしかめ、飲み口にふうっと息を吹いた。


「猫舌なんだよ」



 宮内は、やっと緊張が解けたみたいに、少し笑った。



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(陽くん、甘い飲み物苦手なのに、恵流ちゃんからの差し入れのジュースはちゃんと飲んでました)


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