第165話 封印
あいつだけは、許せない。
夏蓮が、あんな顔をするなんて。
誰よりも勁く、気高く、美しい、夏蓮が。
常に昂然と顔を上げ、次々に新たな挑戦を成し遂げては賞賛を浴び、その美しさと実力とで周囲を支配してきた、あの、夏蓮が。
「むーちゃん、たすけて」
消え入りそうな声でそう言った夏蓮は、まるで出会ったばかりの頃の少女の様だった。勝気で負けず嫌いで、そのくせ泣き虫だった、あの頃のまま。
夏蓮は、弱くなった。
あの男と付き合ってから、夏蓮は少しずつ、弱くなっていった。
優しく、柔らかく、幸せに……そして、弱くなっていった。
まるで、普通の女みたいに。
俺の、夏蓮を、返せ。
紛れもない才能と強烈なその個性で有無を言わさず君臨する、女帝の様な夏蓮を。
あの頃からずっと、文字通り血の滲む努力を重ね、だが周囲にはそれを見せず華麗に優雅に振る舞い続けて築き上げた、煌月カレンを。
どんな困難も撥ね退け、何年ものあいだ共に闘ってきた、あの、煌月カレンを。
今までどんな男が隣に居ようと、夏蓮は夏蓮だった。何者にも屈さず、染まらず、傷ひとつ付けられない。
それが分かっていたから、現れては消える男どもの存在にも耐えられた。
どうせすぐに飽きられ捨てられる。それを知っていたから、男どもに同情してみせる素振りさえ出来た。
全く意に介さぬだろうと知った上で、夏蓮に苦言を呈したこともあった。
年長者として、またはビジネスパートナー兼用心棒として、尤もらしく説教じみた小言を垂れながら、心の中では彼らに向けて何度叫んだかわからない。
「ざまあみろ」と。
結局、夏蓮が頼るのはこの俺だ。
夏蓮の一番近くにいるのは、夏蓮を最も理解しているのは、夏蓮に必要とされているのは、この自分なのだ。
夏蓮に打ち捨てられた哀れな男たちの背中を見送る度、歪んだ自己満足に心を震わせてきた。
それなのに。
あの男は、夏蓮を変えてしまった。
ふたりで苦心して築き上げた女神の座から、いとも
幸せな、ただの女に。
そして、当の夏蓮はといえば。
以前にも増して美しく眩いばかりに光り輝いた。
だから、許せなかった。
夏蓮の心に潜り込み攫って行ったあの男が、憎かった。
その気持ちはずっと、自分の心の中でさえ、厚く重たい蓋で封印していた。だが、その封印の下では、気も狂わんばかりの嫉妬と憎しみが渦巻いていたのだ。
「……むーちゃん、たすけて」
夏蓮の見上げる瞳と溢れた涙、掠れた弱々しい声が蘇り、五島の胸をまた、苦しくさせる。
夏蓮が、俺に、助けを求めた。
胸の奥から、震えるほどの昏い喜びが湧き上がる。
結局、夏蓮が頼るのはこの俺だ。
夏蓮の一番近くにいるのは、夏蓮を最も理解しているのは、夏蓮に必要とされているのは、この自分なのだ。
子供の頃から、そしてこの先も、ずっと。
あの男が、邪魔だ。
あいつが居るから、夏蓮が苦しむ。
二度と夏蓮の前に現れてはいけない存在だ。
俺が、夏蓮を救うのだ。
五島は内心の逆上を平静の下に隠し、大型アウトドアショップで闇色のウインドブレーカーと大きなナイフ、軍手を購入すると、携帯電話を手に取った。
大事な話があると嘘をつき、大月陽の居場所を確認する。
強い風と雨の中、顔を伏せずとも五島の姿を気にする者は皆無だった。公園の中の公衆便所で着替えを済ませて出てきた、殺気に満ちた五島の目に気づく者も。
……大月陽を、消さなければ。
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