第21話 回想
栞が優馬と出逢ったのは24、優馬が26の時だった。今から5年ほど前のことだ。
学生時代バドミントンの選手で、大学を卒業して実業団でプレイしていた栞は、膝を痛めてしまい引退を余儀なくされた。会社を離れ、看護師の資格を取るために看護学校へ入学して、しばらく経った頃だった。
ある日、看護師見習いということで、とあるアマチュアスポーツ大会の看護アシスタントとして友人を通して応援を頼まれたことがあった。
その時に、バスケットボール選手として出場していた優馬に出逢ったのだ。足首を傷めたチームメイトの付き添いをしていたのが、優馬だった。
「この人、いつもの調子でヘラヘラしてるのに、何故か私にだけは、ぶっきらぼうというか、つっけんどんで」
「だって緊張しちゃったんだよ。テキパキしてて、凛としてカッコ良くて、ドストライクでさ。んで、上手く喋れなかっただけ」
「へーえ」
「ニヤニヤすんな」
優馬は向かいに座る陽の足を、テーブルの下で蹴った。恵流はクスクス笑っている。
「その後もね、チームメイトのお見舞いと称してはしょっちゅう病院に来て。その方が退院して通院治療になってからも、病院まで送って来たとか言って、何度も……」
「だって、嘘じゃないし。ほんとに頼まれたの!」
優馬の抗議を無視し身を乗り出して聞いているふたりに、栞は少し声をひそめて話し始めた。ふたりはさらに身を乗り出す。
「でね……」
† † †
その日、優馬は正式に交際を申し込もうと決意していた。栞の勤務が終わる時間を聞き出し、屋上に呼び出していたのだ。
極度に緊張しながら屋上のドアを開け、ベンチに向かって歩きながら、無意識に煙草をくわえて火をつけた。大きく一息吸って、吐き出す。
と、側に若い男性が立っているのに気付いた。
「こんにちは」
ソワソワしていたので、何の気無しに声をかけた。会話でもしていれば気が紛れるかと思ったのだ。
振り向いた男性は、ギョッとして手すりにつかまった。
優馬が違和感に気付く。ガチガチに緊張していたので目に入らなかったのだが、男性は手すりの向こう側に立っていたのだ。
「え、あの……危ないですよ」
後になってみれば、なんとも間が抜けていると思う。
男性は、か細い声で答えた。
「……死のうと思って」
「……はぁ」
またも間抜けな受け答えをしてしまう。突然のことで、思考停止してしまったみたいに、頭がぼんやりしていた。現実味が感じられない。
「また、なんでここで」
「……死んでも、すぐに見つけてもらえると思って。医者なら死体とか見慣れてるだろうし」
優馬はふらりと男に近づき、真下を見下ろした。なるほど、下は職員用の駐車場だ。
男は優馬を見つめたまま、身体を固くした。生白く妙にぶよぶよとした、生気のない顔がこわばっている。
「あの、非常に申し上げ難いんですが、出来れば、別の場所で……せめて、日時をずらしてもらえませんかねぇ」
途方にくれた様な優馬の口調は、男には意外だった様だ。当然、止められると思っていたのだろう。
「俺、これから告白するんですよ。一世一代の。彼女、ここのナースなんでね、今飛び降りられたら残業確定なわけ。こっちもさ、何日も前から時間調整して、やっと今日半休取れたの。思いっきり気合い入れて来たのに、延期なんてさ。酷くない?」
後半を畳み掛ける様な口調で訴えかけ、優馬は右手を広げ男の方へかざした。
「これ見てよ、震えてんの。いい歳して、情けないことに」
確かに、人差し指と中指に煙草を挟んだ優馬の手は、細かく震えている。
「……はぁ」
戸惑った様子の男に、優馬は音を立てて手を合わせた。
「だから、お願い! 今日のところは止めて! 頼む、このとおり」
拝み倒す勢いで手を合わせていると、カツカツとヒールの音が響いた。
「なにやってるの!」
足音高くやって来たのは、もちろん栞だった。が、その表情は今まで見たことも無いほど怒りに燃えていた。
栞は数歩離れたところで立ち止まり、仁王立ちで男を睨むと強い口調で詰問する。
「あなた、臓器提供の意思表示カードは? 持ってるの?」
「え……いえ」
弱々しく答える男は、まさに蛇に睨まれたカエルの様にすくみ上がっている。
「ここは病院よ。みんな必死に生きようとしてるの。ここで命を粗末にするなら、せめて使えるモノは残して行きなさい。臓器移植が必要な人はたくさんいるの。あ、眼球もね。だから、何ひとつ無駄にしない様に、脳みそだけ潰して綺麗に死になさい」
恐ろしく冷たい怒りのオーラに圧倒され、優馬は声も出せない。ただ、美人が本気で怒るとこんなにも美しいのかと、妙な方向に茫然としていた。
無意識のうちに、ポケットから携帯灰皿を取り出し、指に挟んでいた煙草を捨てていた。怒られそうで怖かったのかもしれない。
「でも……俺、役立たずで……生きててもしょうがないし……」
「あなたの事情なんて聞いてない。馬鹿? 馬鹿なの? 役立たずならせめて、死ぬ時ぐらい人の役に立ったらどうなのか、って言ってるの。わかる?」
隣に立ち尽くす男を、優馬は横目で窺った。涙目で唇を噛みしめ震えている男が気の毒に思えてくる。
「いやあの、神崎さん……それはちょっと言い過ぎなんじゃ……」
「黙ってて」
睨みつけられ、優馬は即座に「はい」と姿勢を正す。
「とにかく、飛び降りは却下します。別の方法を考えて、やり直し」
仁王立ちのまま、栞は人差し指をクイと曲げこちらへ来る様に示した。男が動かないので、横目で優馬を見遣り目線だけで命令する。
優馬は弾かれた様に振り返ると、フェンスの下部に足を掛け、男の両腕をそっと掴んで引っ張り上げた。意外にも、男は抵抗すること無く自らフェンスを乗り越えた。
膝から崩れ落ちそうな風情の男をベンチまで支え、なんとか座らせる。男は泣くでもなく、紙の様に真っ白な顔で茫然と俯いていた。
なんともいえず張りつめた空気の中、カツ、と栞のヒールの音が異様に大きく響いた。
その瞬間、優馬は我知らず叫んでいた。
「神崎栞さん、俺と結婚して下さい!」
******
「ええええ?!」
「なんでそのタイミングで?!!」
優馬は両手で顔を覆った。
「俺だってわかんないよ……」
栞がおかしそうに笑って、シャンパンを飲んだ。
「緊張の中、突然の非常事態でちょっとネジが飛んじゃったんじゃない?」
「ほんとはさ、『付き合って下さい』の筈だったんだよ。でもなんか、あの時の栞がツボに嵌まっちゃってさ……『この人しかいない』って思っちゃったんだよね」
両手で顔をゴシゴシ擦りながら、優馬が呟く。
「だからって、なあ……」「ねえ」
陽と恵流は顔を見合わせ、吹き出した。
「飛び降りようとした男の子も、なんだかキョトンとしてたわ。気が抜けたみたいに『どうぞお幸せに』とか呟いて、頭下げて帰って行ったもの」
ひとしきり笑うと、恵流が先を促した。優馬はあらぬ方向を不自然に眺めながら、しきりに親指で額を掻いている。
「その後は、ちょっと落ち着いて下さいって感じで。優馬は妙に興奮状態だし。私だって、そりゃ面喰らうじゃない? で、とりあえずお茶でもってことで、この店に移動して」
「そう。この店、昼間は喫茶店なんだけど、当時から俺の行きつけなんだ」
「いきなり結婚は無理だから、結婚を前提としたお付き合いを……ってことに」
「なかば強引に持って行った」
栞の話に合いの手を入れる様に言葉を継ぐと、優馬は観念した様子で背もたれに寄りかかり苦笑して見せた。が、その笑顔はどことなく得意気にも見えた。
「でも、その男の人は? どうなったんだろ。無事だといいけど」
「半年後ぐらいに、病院宛に手紙が来たわ。就職して、なんとかやってますって」
「そっかぁ。良かった。優馬さんのプロポーズのおかげで、少なくとも3人の人が幸せになったんですね」
「あ。そういわれれば、そうね」
「ほんとだ」
何故か、優馬が栞に向かって手を挙げた。栞も当然の様にハイタッチを交わす。陽や恵流にも手を差し出してくるので、4人でハイタッチをしあうことになった。
恵流はキャッキャと喜び、陽も「意味わかんない」と笑いながら応じた。
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<オマケ>
陽「なんでハイタッチ?」
優馬「団体競技経験者のサガだ」
栞「ほぼ条件反射なのよね……」
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