第86話 クリスマスコンサート


 夏蓮は随分とご機嫌な様子だ。

 彼女の叔父が指揮するクリスマスコンサートを毎年楽しみにしているが、今年はさらにお楽しみが増えたからだろう。


 大月陽をコンサートに誘った際(お誘いメールはもちろん五島の担当だ)、恋人である清水恵流と別れたことを知った。それを夏蓮に告げた時、彼女の口の端が僅かに吊り上がったのを五島が見逃すはずも無かった。



 夏蓮は気に入った獲物を逃すことは無い。


 と言っても、何もせずとも向こうから勝手に転がり込んでくるのだ。

 基本、既婚者や彼女持ちには手を出さないが、向こうが勝手に全てを捨てて夏蓮の足元へひれ伏すことも何度かあった。

 夏蓮がする事といえば、お気に入りの相手との交流を絶やさない様にする事だけ。そうすればいずれ、自動的に手に入るのだから恐ろしい。


 そして、交流を続ける為の連絡をとるのは、もちろん五島の役目だった。

 面倒極まりないが、様々な交流から学ぶことも多く、それが演技に反映することもあった。何より、人脈が直接仕事に結びつくことも少なくないので、そうした雑事も仕事の一環だと思っている。



(今日は、コンサート後すぐに解散コースか……)


 そう思いながら、五島は戸締まりのチェックをし、夏蓮に声をかけた。

 階段を降りてきた夏蓮は、真紅のドレスに身を包み、ゴージャスに巻いた艶やかな黒髪を髪を揺らして婉然と微笑んだ。


「お待たせ」




    † † †



「3人で会うのは久々ですね」


 大月陽は、一見以前と変わらずニコニコしているが、どこか表情に影がさしている様に見えるのは気のせいだろうか。

 とりあえず、カズからは「彼が自分で持ち出すまでは、清水恵流のことには触れるな」と言い含められているので、気を付けなきゃ。



「俺は車を停めてくるから、先に中に入っててくれ」


 夏蓮は五島の言葉に頷くと、当然の如く陽の腕をとった。陽は一瞬驚いて身を引きかけたが、すぐに夏蓮をエスコートしながらゆっくりと歩き出す。


「今日も綺麗ですね。クリスマスコンサートにピッタリの服装だ」


 襟元にファーをあしらった純白のコートを羽織り、中にはデコルテのラインを引き立てる豊かなドレープが美しい赤いワンピース。足元には同じく濃赤のパンプス。耳たぶにはプラチナとダイヤのピアスが揺れている。


「とても楽しみにしてたの。叔父には年1回しか会えないから。コンサートが終わったら紹介するわね」


「俺も楽しみです。コンサートって生で見るの初めてで」

「あら、そうなの」

「ええ。高校の時、吹奏楽部の演奏を聴いたぐらいで」


 夏蓮は諌める様に、絡めた陽の腕をギュッと握った。

「ちょっと、世界的なオーケストラと吹奏楽部を比べたらさすがに可哀想よ」

「ですよね。すんません」


 苦笑いしながら、ゆっくりと階段を上る。


 正面扉をくぐると、すぐに知り合いが声をかけてきた。


「やあ、カレンさん。久し振り。あれ、今日はカズさんは?」

「車を停めに行ってるの。あ、こちらは大月陽くん。才能溢れる画家で」


 陽が礼儀正しく頭を下げると、相手は笑顔で握手を求めて来た。


「……あ、カズが来たわ」




   † † †



 程よいクッションの座面を倒し葡萄色の椅子に深く沈み込むと、陽が感心したようにため息をついた。


「……やっぱ凄いですね。夏蓮さん、知り合いばっかじゃないですか」

「んん、まあね。指揮は私の叔父だし、毎年来てるし」

「席に着くまでに何人挨拶したんだろ。俺、覚えてられる自信が無いんですけど」


 夏蓮は気軽に笑ってみせる。


「憶えなくったって大丈夫よ、そんなに頻繁に会うわけじゃないし。ねえ、むーちゃん?」

「だな。だが、むーちゃんは止めろ」



 緞帳の向こうからは、微かに楽器の音や衣擦れのざわめきが聴こえる。

 陽が心持ちそわそわした様子でパンフレットを弄っているので、夏蓮は先入観を与えない程度に、ごく簡単な解説することにした。


「今日演るのは、パッサカリアとフーガ。次がシャコンヌで、両方ともバッハの曲。オーケストラ版にアレンジしてあるの。両方とも面白い曲よ。後半はクリスマスらしく、シューベルトのアヴェ・マリアと、クリスマスソングメドレーね。このコンサートは子供連れも多いから、クリスマスソングはポップな曲が多いの」


 陽はパンフレットを眺めつつ、頷きながら夏蓮の説明を聞いている。五島は腕を組み目を閉じて、瞑想でもしているかのようにじっと動かない。


 会場はほぼ満席になっている。開演時間になり、声をひそめた観客達のざわめきが自然に静まってきた。



 そして、開演のアナウンスが始まった。




 プログラムが半ばまで進んだ頃、夏蓮は陽の異変に気付いた。

 目を固く閉じて俯き、膝の上で拳を握っている。薄暗い客席でもわかるほど、額に脂汗が滲んでいる。


「ちょっと、陽? 大丈夫?」


 うんと声をひそめて訊ねると、陽は小さく頷いた。だが、ちっとも大丈夫そうには見えない。


「どうしたの? 具合悪そうよ。外に出ましょうか」


 陽は目を閉じたまま、握っていた手を開き膝を掴むと、力なく首を振った。

 夏蓮は反対隣に座る五島の肘を突つき、囁く。五島は身を乗り出して夏蓮越しに陽の様子を確認する。


 会場には素晴らしい音色が重なり絡み合い、繰り広げられるドラマティックな演奏が観客を魅了している。



「おい、大丈夫か」


「大丈夫……いや、ごめんなさい。あの、音が……色が‥………」

 ついに陽は大きく広げた両手で頭を抱え込んでしまい、うわ言の様に何かを呟いている。


「もうすぐこの曲が終わるから、そしたら出ましょう。陽、もう少しだけ我慢出来る?」




 覚束ない足取りで分厚い防音扉から脱出した陽は、ホールのソファにぐったりと腰掛けた。やはり額には汗が浮き出しており、眉間に深く皺を刻んで頭を抱えながら小さな声で謝っている。


「謝らなくていいから。それより、大丈夫? 病院に行く?」


「いえ、大丈夫。前にも似たようなことあったから……ああ、夏蓮さんの舞台の時」

「え?」

「頭の中に、色や映像が……波みたいに襲ってきて……ぐるぐる……」


 五島が足早にホールの出口付近へ向かい、携帯電話で誰かと話し始めた。



「あの時とはちょっと違うけど……イメージが、こう……」


 そう言ったきり陽は口を噤んでしまう。時折小さく呻きながら、固く目を閉じている。

 夏蓮はオロオロしながら陽の背中を擦った。何をどうしたら良いのかわからない。 ホールを見回して五島を探すと、携帯電話を仕舞いながらちょうどこちらへ戻ってくるところだった。


「今、木暮さんと話した。大丈夫みたいだから、家まで送ろう」

「何? 病院は?」


「病気じゃないから心配要らない。後で話す。悪いが夏蓮、クロークで……」

五島がポケットから引き換えの札を取り出すと、夏蓮は即座に反応した。


「コートね」

 そう言うと跳ねる様に立ち上がり、軽やかに駆け出した。まるで雲の上を走っているかのようにふわふわと、しかも結構なスピードで駆けていく。


 五島は陽の腕を取り、立ち上がるのを手伝った。


「君はもう喋るな。後のことはこっちがやるから、心配要らない。集中しろ」



 正面の階段を降りたところで夏蓮は二人に追いついた。

 二人の上着を手に持ったまま、夏蓮は五島の反対側に寄り添い陽を支えて歩く。


「陽、胸が痛いの? 大丈夫?」

「夏蓮、話し掛けるな。大丈夫だから」

「でも、胸を押さえてるわ」

「問題無い。集中させてやってくれ」




 五島は「後で話す」と言っていたが、車に乗り込んだ後も3人は無言だった。夏蓮は後部座席に座り、陽の背中にずっと手を置いていた。


 しばらく走ると夏蓮はそっと手を離し、座席の上で身じろぎして陽から少し離れて様子を窺っていた。

 陽はいまや、膝に肘をついて完全に顔を覆っている。指の隙間から、額に滲む脂汗が見えた。




 漸く部屋の前に着くと、陽は転がり出る様にして車から降り、現在は雪景色になっている資材置き場のシャッターの前を通り過ぎ、一目散に階段を駆け上がる。玄関扉前の踊り場で鍵を持っていないことに気付いた時、ちょうど五島が陽の上着を持って追いついた。


 上着のポケットを探って見つけた鍵と上着を手渡した五島に、陽は勢い良く頭を下げた。


「今日は色々とすみませんでした!」

「気にするな。また連絡する」


 陽はもう一度、五島とその後ろにいる夏蓮に「失礼します」と一礼し、部屋に入った。


 バタバタと部屋の中を動き回る音を確認し、五島は振り返った。


「……行こうか」

「どういうこと?」


 階段を降りながら、五島が説明する。


「おそらく、共感覚みたいなものだろうと思う」

「共感覚?」


「数字や音、文字に色が見えたり、味を感じたりって現象を聞いたことは無いか?」


「ああ、あるわ。それが共感覚っていうのね……私の場合は実際に色は見えないけど、感じることがある。数字や文字、旋律なんかがきっかけで、頭に色や振り付けの映像が浮かぶ時があるの。これも共感覚?」


「いや、俺も詳しいことはわからない。俺自身には全くそういう経験が無いし、今日の大月くんみたいな話を聞いたことも無いんだが」


 ふたりは車に乗り込んだ。今度はいつも通り、夏蓮は助手席に座る。

 帰りの道中、五島は先ほど電話で木暮から聞いたことを話した。



 大月陽は、「鷺娘」を見た時も似たような状態になった。

 その時は、夏蓮の踊りを映像として記憶して、それを頭の中で繰り返し再生し続けていたのだそうだ。どこまで正確に再生していたかはわからない。だが、それには凄まじい集中力が必要だろう。彼はその記憶を頼りに、そのまま朝まで何枚もの絵を描き続けたのだそうだ。


「でもそれって、単に記憶力がすごいってことじゃない?」

「そうかもしれない。だが……」


 だが今回、彼は色や映像が波の様に襲ってくると言っていた。おそらく演奏によって想起されたものだろう。それを共感覚と呼んでいいのかはわからないが、何らかの能力、才能であることは間違い無さそうだ。



「じゃあさっきのは、その涌き上がった映像なりイメージを、繰り返し脳内再生してたってこと? 『鷺娘』の時みたいに?」

「かもしれん。もしくは、新たなイメージが次々に湧き続けているのか……」



 夏蓮は両手の平をじっと見つめ、ため息をついた。


「どっちにしても凄い話ね……さっき隣に座ってたけど、集中力が凄まじかった。身体からビリビリした何かを放射してたわ。私、途中で離れてしまった。なんだか圧倒されてしまって、手を触れていられなくなったの」



 そのまま目を閉じて黙り込んだ夏蓮の美しい横顔をちらりと見遣る。眠りたいわけではなさそうだ。


 いつもの様に頭の中で踊っているのだろうか。それとも大月陽の涌き上がってくるイメージについて思いを馳せているのか。


 五島は時計を確認した。今から戻っても、公演には間に合わないだろう。夏蓮のこの様子だと、外食は喜ばなそうだ。帰ってから何か軽く食べられるものを作ってやろう。


 冷蔵庫の中身を頭の中で確認しながら、夏蓮の物思いを妨げぬよう、五島は速度を落とした。


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