第87話 怒涛
木暮さんから話を聞いていたのでさほど心配していなかったのだが、夏蓮が「夕方になっても大月陽と連絡が取れない」と騒ぐので、五島は仕方なく車を出した。本来なら今日は休日のはずだったが、夏蓮一人で行かせたら今日中に帰ってくるか分らない。明日は朝から仕事が入っているのだ。
木材倉庫に着くと、夏蓮は階段を駆け上がった。鉄製の階段に細いヒールで、ほとんど足音がしないのは流石だ。五島は今更ながら、妙なところに感心した。
「陽、私よ! 大丈夫? 中に居るの?」
拳でドアをノックするが、応答が無い。
試しにノブを回してみると鍵はかかっておらず、ドアが開いた。
おそるおそる覗き込んだ夏蓮が、小さな悲鳴を上げた。
「陽!!」
靴を脱ぐのももどかしく部屋に駆け込んだ夏蓮を追って、五島も急いで部屋に踏み込んだ。夏蓮は床に倒れ込む大月陽に取り縋っている。身体を揺さぶっている夏蓮を止めさせようと跪くと、大月陽が目を覚ました。
「ん………何? ……あれ? 夏蓮さん……」
ノロノロと上体を起こして胡座をかき、眉をしかめて眠た気に目を擦っている。右の頬にはフローリングの床の跡が付き、両手は絵の具塗れ、顔にも指で拭った様な絵の具の跡。
「‥……寝てたの?」
「ん……寝てた……ああ、絵を描いてて寝落ちしちゃった」
尚も目を擦りながら、「えへへ」と笑う。
「……えへへ、じゃないわよ。全く……電話もメールも繋がらなくて、心配したんだから」
いつの間にか五島が、そこらに放り出してあった陽の上着のポケットから携帯電話を探し出し、ことりと床に置いた。着信を知らせるライトが点滅している。
「鍵をかけるのも忘れたのか。いくらなんでも不用心だろう」
「え、まじか。気付かなかった……スンマセン」
半ばぼうっとしたまま、陽は携帯の着信履歴を確認した。今朝からずっと、夏蓮の名前が並んでいる。
「ねえ、これ……昨日の晩からずっと描いてたの?」
床に横座りしたまま部屋の中を見回していた夏蓮が、驚きの声を上げた。
イーゼルには描きかけの絵が、床にはスケッチブックから切り離された絵が散乱していた。数十枚はあるだろうか、全て水彩絵の具で描かれた抽象画だった。
筆で描いたものもあったが、半分以上は指で直接絵の具を擦りつけたらしい。指紋が残っているものある。
「うん……多分4時くらいまでずっと」
「朝の?」
「いや、夕方……ってか、腹減った……」
眠気の抜けきらぬ顔で腹をさすっている。
「夕方の4時って、ついさっきじゃないの。まさか、何も食べてないんじゃ」
「うん。描いてる間は腹減らないから」
絵を検分していた五島は盛大にため息をつくと、キッチンスペースへ向かった。陽に断わりを入れ、冷蔵庫を探る。
「冷蔵庫はほぼ空だな。あとは、冷凍の白米が少し……これは?」
「あ……」
五島が手にしていたのは、恵流の弁当の箱だった。
「それ、捨てちゃって下さい……恵流が最後にうちに来た日、持ってきてくれた弁当なんです。色々あって食べられなくて、とりあえず冷凍したんだけど……そのまま忘れてました」
「へへ」と苦笑いしているが、本当に忘れていたのか? 捨てられなかったんじゃないのか? そう思いながら、五島は確認した。
「……本当に捨てていいのか?」
陽が頷いたのを見て、五島はおもむろに弁当箱の蓋を開け、箱を捻る様に力を加えた。バキバキッと音が鳴る。
「え、あの」
「ん? ああ、分別をな。アルミケースとかラップとか」
凍ったままの弁当を力づくで分解し、ラップやバラン、アルミを分けていく。生ゴミは近くにあったビニール袋にまとめ、不燃物を軽く濯いで水を切る。
最後に弁当箱を洗って振り返ると、陽は床に転がって腹を抱え、声を出さずに肩を揺らし笑っていた。
「……五島さん、豪快なんだか細かいんだかわかんないっす。ああ、苦しい」
五島はハンカチで手を拭くと、棚に並んでいたスポーツ飲料を持って戻り、目尻の涙を袖口で拭っている陽に手渡した。
「何か食いに行くか?」
「いえ。後でインスタントラーメンでも作ります。あ、賞味期限大丈夫だったかな……」
夏蓮が立ち上がり、ペットボトルの蓋を開けながら起き上がった陽のほっぺたをつねり上げ、ニッと笑った。
「そんなの駄目。ご飯食べに行くわよ。それ飲んだら顔洗ってらっしゃい。あなた、絵の具まみれよ」
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夏蓮「全く、なんだってそんなに汚れるのよ」
陽「筆使うのがまどろっこしくなっちゃって、指で描いたんです。筆だとせいぜい3~4本しか持てないけど、指は10本あるから、こう、ビャビャビャーって。布にピャッてすれば絵の具が取れて、洗う手間も省けるし。まあ、メモ書きなんでテキトーに」
夏蓮「まるでピアノとか琴を演奏してるみたいね……」
五島(ビャビャビャー?ピャ?………意味がわからん)
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