第88話 感性と本能の人
車の中で、陽は平謝りだった。
「さっきは寝ぼけてたとはいえ、スミマセンでした。心配かけちゃって、あ、あと昨日はせっかく招待してもらったのに途中で抜けちゃったし……」
「それはもういいってば」
軽くシャワーを浴びて、完全に目が覚めたようだ。結わえた髪の毛先がまだ少し濡れている。
「でも、いっぱい迷惑かけちゃったし。せっかく紹介してくれるってことだったのに」
「叔父さんなら上手く話したから大丈夫よ。むしろ、絵が完成したら見てみたいって楽しみにしてたわ」
恐縮しきりの陽に、五島がバックミラー越しに声をかける。
「夕方の4時までってことは、ざっと20時間近く描いてたことになるけど、いつもそんな風なのか?」
「いえ、流石に毎回では無いけど……夢中になると、たまにやっちゃいますね。普段、夜は描かないんです。下絵ぐらいしか」
「下絵は描くんじゃないの」
呆れた口調で夏蓮がツッコミを入れる。
「あっ………でも、でも、鉛筆描きだから」
慌てて意味のわからない言い訳をする陽に、夏蓮は思わず吹き出してしまう。
「いや、あの……光の加減とかね、時間経過で変わっちゃうから。あと絵の具って後片付けとか、けっこう時間かかるんで……なんで、下絵はセーフってことで」
「セーフって何よ。全然わかんない。もういいわよ、全く……」
呆れてつい笑ってしまい、ほのぼのとした雰囲気になった車内に、カチカチとウインカーの音が響いた。
† † †
ファミリー向けチェーンのイタリアンレストランの中で、夏蓮は完全に浮いていた。まるで、ペラペラの紙皿の上に豪奢な宝飾品が煌めいているみたいに。
だが猛然と食欲を満たしている陽は、周りの目など全く気にしていない。五島にどこへ食べに行くかと訊ねられ、「一番早く食べられるところ」と即答しただけのことはある。
「……それにしても、気持ちいいぐらいの食べっぷりだな」
「ほんとね。私、見てるだけでお腹一杯になっちゃったわ」
言葉の通り、夏蓮は取り皿に盛ったグリーンサラダをちびちびとつつくばかりだ。
2人前のパスタの大半と、ピザの半分、サラダと鶏肉のグリルを胃に納めると、ようやく人心地ついたらしく、陽は「んふふー」と満足げにふたりに笑いかけた。
ふたりは(五島ですら)、そのあまりにも屈託の無い笑顔に思わず吹き出してしまう。
(ヤダもう、何この子。可愛い)
何だか妙に腹立たしくて、夏蓮はテーブル越しに手を伸ばして陽の頬をつねった。
「え、何? 痛い! ってか、今日2回目!」
陽の言葉を無視して、夏蓮はそっぽを向いて白ワインを飲んだ。安価なテーブルワインだが、値段のわりにそう悪くない。
「腹具合は落ち着いたか?」
「はい、だいぶ。でもまだ食べます」
陽はテーブルに残ったピザ数切れや、貝のワイン蒸しを指差した。五島は黙って白ワインを陽のグラスに注ぎ、夏蓮のグラスにも注ぎ足した。
「この後は? 帰ってまた描くのか?」
「んー……酒かっ喰らって寝ちゃおうかな。明日仕事だけど、このままじゃ眠れそうにないし」
「眠れないって、さっきだって2~3時間しか寝てないでしょう?」
ピザを一切れ皿にとりながら、陽は緩く頭を振った。
「なんか、まだ脳が興奮してるみたいで。イメージがチラついて煩いんです。この辺りに」
後頭部の辺りをぐるぐると指し示す。
「イメージが……煩い?」
「うん。脳内スクリーンに、バババッて」
「夏蓮、意味わかるか?」
「……微妙」
小声で訊ねる五島に、グラスを咥えたまま夏蓮が答えた。
得心が行かぬ様子のふたりに、陽は言葉を継ぐ。
「えーっと、意識してイメージした絵は、この辺に」
人差し指で額の辺りをぐるぐると指し示す。
「勝手に湧いてくるイメージは、この辺に浮かぶわけです。って言っても、なんかそんな感じがするってだけですけど」
先ほどと同じく、後頭部の辺りを指差す。
「昨日は、勝手に浮かんだイメージを忘れない様に再生して脳内に刻み付けてるうちに、次々に新しいのがぶわーって浮かんできちゃったから……初めてのことでびっくりしたし、頭の中がぐるぐるして大変でした。絵に描いたからだいぶ発散出来たんですけど、後遺症が、まだちょっと……」
一瞬絶句した夏蓮だったが、神妙に眉をひそめた。
「それは……壮絶ね……想像するだけで目眩がしそう」
五島は想像すら出来ないのだろう、不思議なものを見るような目つきで陽を眺めている。
「だから、騒がしいところでグワーって酒飲んで酔っぱらって、バタッと寝ちゃおうかと思うんです。なんで、良ければちょっと付き合ってもらえませんか?」
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五島「映像が次々と勝手に浮かんでくるなんて、気が狂いそうな話だな」
陽「んー、覚えようとすると、ちょっと大変ですね。ただ観てるだけなら楽しいんですけど」
五島「ただ、観てる……?」
陽「そう。画集とかPVとか眺めてるみたいに。たまに味とか匂いも付いてくるし」
五島(わからん。お手上げだ……)
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