第89話 そのくせ、妙に律儀だったり



 体重をかけて重たい扉を開けると、喧しい音楽が耳に飛び込んできた。その先にある嵌め殺し窓付きの扉を押し開くと、本格的な爆音の中に放り込まれる。



「Takさーん、お久しぶりです!」

「おー! 陽か! 何じゃ、珍しいのう!」


 人の間を縫って進む陽の後ろを、耳に指を突っ込み首を竦めた夏蓮と周囲に警戒の目を光らせた五島がついてくる。

 その隊列が通り過ぎる間、一瞬酔っぱらいどもの大声や馬鹿笑いが止んだ。

 皮革や鋲を多用したファッションの色とりどりに髪を染めた男達が夏蓮に注目しているが、いかつい五島が睥睨しているので迂闊に声をかけられずに徒らに肘を突つき合うばかりだ。


「夏蓮さん、五島さんも、何でも好きなものを」

「じゃあ、ボンベイ・サファイアのロックをダブルで」


「お、ベッピンさん。イケルくちだねえ。レモンかライムは?」

「ライムを」

「わかってるねえ」Takは嬉しそうに頷いた。


「俺は車なんで……」

「じゃあ、そっちのデッカイ兄さんにはジンジャーエールでどうかな?」

「お願いします」



 あからさまにオマケしてくれたであろう、なみなみと注がれたグラスを持ち、人の少ないスペースに移動する。陽の手にはスコッチをシュウェップスのトニックウォーターで割ったグラスが握られていた。おかわりする度に段々とスコッチの割合を増やしていくのが、最近の陽のお気に入りの飲み方だ。


「優馬さんの知り合いの店なんです。少し前に、ここの壁画をやらせてもらって」

「あの絵ね。ブログで見たわ」


 驚いた顔をした陽を、夏蓮が軽く睨むふりをした。

「藤枝さんが教えてくれたの。あなた、そういうの全然言ってくれないんだもの……ま、いいわ。とりあえず、知り合いには宣伝しておいたから」


「あざっす! ……あ、じゃあ最近閲覧数や絵の注文が増えてるのって、夏蓮さんのおかげ?」

「さあ、知らないけど。私は、うちの絵を見た人達に、あなたのブログを教えただけだから」


 かかっていた曲が終わり、次の曲が始まった。ギターの音色から始まるパワーバラードだ。




 陽がおかわりを取りに行っている間に、夏蓮は絵を見ようと壁の方へ向かった。

 壁際の席で騒ぎながら飲んでいたグループが、絵がよく見える様にと夏蓮に場所を譲る。夏蓮に微笑んで礼を言われると、彼らはヘラヘラ笑いながら我先にと絵の登場人物を指差しては説明を始めた。


 陽が席に戻ると、五島がひとりでスナックを齧っていた。視線はきっちり、夏蓮に纏わりつく連中を見張っている。


「あれ、夏蓮さん大丈夫ですかね?」

「大丈夫。ちゃんと見てるし、もし絡まれても、おそらくあいつらより夏蓮の方が強い」


「え、マジですか」

「ああ。業界では『バレエダンサーとは喧嘩するな』っていうのが定説だ。彼らの体幹の強さ、身体能力、特に柔軟性は凄いからな。体重移動や各部の動かし方も熟知している。とんでもない死角から降ってくる、ムチの様にしなる重たい蹴りを浴びることになる」


「うわぁ……」

「しかも、夏蓮には基本的な護身術を教えてある。関節や絞め技なんかをな。君も気をつけた方が良い」


「……俺、ほっぺた抓られたぐらいで済んで良かったぁ」



 端から端まで絵を見終えた夏蓮が、取り巻きを軽くいなして戻ってきた。店の奥のステージではいつの間にか、客同士のセッションが始まろうとしている。



「そう言えば、ここの音楽は大丈夫なのか? かなりの音量だが」

「ここまで煩いと逆に平気なんです。普段、音楽は絵を描くのに邪魔になるから聞かないんですけど、こういう音だと、邪魔どころかイメージの方が音に追いやられる」


 大月陽はグラスの酒を呷ってグラスを置き、笑った。


「だから、こういう日には丁度いいです」





 大月陽を家まで送り届けると、時刻は11時をまわっていた。

「くれぐれも、ちゃんと布団で寝る様に」と言い含めてきたところだ。12月も半ばを過ぎた今、2晩も床に転がって寝たりしたら風邪をひきかねない。


 半ば強制的に持たされた、ボンベイ・サファイアと12年もののグレンフィディックが入った紙袋を抱えて、夏蓮がクスッと笑う。


「もう、変に気を使うんだから」



 レストランも、Takの店の支払いも、ふたりを説き伏せる形で陽が済ませた。

「一回りも年下の者に払わせられない」という五島を拝む様にして、そもそも食事はほとんど自分が平らげてしまったしTakの店は自分が誘ったのだからと言い張り、支払ったのだ。

 おまけに店で酒を譲ってもらい、「心配かけたお詫びとお礼です」と、ふたりに押し付けた。


「ボンベイ・サファイアは、瓶が綺麗で夏蓮さんに似合うから」

「五島さんは車なのに付き合わせてしまったので、お店にあった中で一番いいお酒を」……ということらしい。


「まあ、せっかくだし有り難く貰っておこう」

 五島の口の端には微笑が滲んでいる。



「それにしても、なかなか面白いお店だったわね。喧しいけど」

「ああ、まだ耳の奥が鳴ってる気がする」


「……やっぱり、オーケストラみたいにたくさんの生音が重なってるのと、電気的に増幅された大音量って、身体に及ぼす影響が違うのかしらね?」

「どうだろうな……曲にもよるのかもしれん」


「ふん……なるほどね。次はああいう曲で踊ってみようかな。鋲付きのレザー着て」

「勘弁してくれ」



 そういえば、さっきの店では夏蓮はさほど浮いて見えなかった。周囲の客とあれほど毛色が違うにもかかわらず。


(まあ、そもそも周りが百鬼夜行みたいだったしな……)


 ふと頭に浮かんだ「百鬼夜行」という言葉に、小さく吹き出してしまった。

 踊りながら先頭を歩く夏蓮の後を、楽器を抱えた妖怪の集団がぞろぞろと練り歩く様を想像してしまったのだ。


 秘かな想像を隠す様に、五島は口元を拭うふりで笑いを誤摩化した。

 そんな五島を、夏蓮は物珍し気に横目で眺めていた。



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