第43話 恩師の思い
「恩師……ねぇ」
昨日読んだ記事の内容を再び読み返し、大友は唇に少し歪んだ笑みを浮かべた。
あの演説以来、大月 陽はすっかり自分に懐いてしまった。
あまりにも純粋に、熱心に吸収しようとするので、大友は自分の画風や癖を押し付けぬ様、厳重に注意しなければならなかった。彼を自分のコピー版にさせたくなかったからだ。
だがその一方で、大友の持つシニカルな視点を植え付けてしまっていた。記事の中にある、絵画コンクールへの無関心さに、それが顕われている。
大友は、いわゆる美術界の因縁ともいうべきものを嫌っていた。
美術に限らないのかもしれないが、あの界隈では、師弟関係というものが非常に重視される。
どこそこの美大を出て、だれそれの師について、ナントカの賞を獲る。
コンクールの賞一つとってみても、派閥だの流派だの系譜だので、受賞が左右される。派閥争いどころか、潰し合いなんてものまで、ちゃんとある。
大きな展覧会であれば、それはもう壮絶だ。
審査員を務める大先生への付け届け、貢ぎ物、袖の下は当たり前。大先生とやらの家族親戚にまでゴマを擦り、媚び諂い、歓心を得なければ、受賞など滅多に出来ない仕組みなのだ。
今まで、それで潰れてきた画家の卵がどれほど居たことか。
だから大友は、自分の生徒達にいつも言ってきた。
コンクールの結果なんて信じるな。
受賞を目指して絵を描くな。
民間の企業が主催する絵画コンクールなどに出品する際には、どういった傾向の作品が選ばれるのかを分析してみせ、生徒の作品の中からそれに該当しそうな物を出品した。
主催者の求めているテーマや、過去の受賞作の傾向、審査員の顔ぶれを見れば、大方の予想はついた。ちゃんとコツがあるのだ。
審査員が何人居ようが、結局は最古参のベテランの意見が通ることになっている。そのベテランの好みに合わせた作品と、もし、出品者の中にその企業の関係者や大手取引先関係者などが居れば、(よほど下手くそでない限り)その関係者の作品が受賞することになる。
そういった説明を生徒たちにしたうえで応募し、それなりに結果を残してきた。おかげで、我が校の美術部は優秀とされている。
絵の評価なんて、所詮そんなものなのだ。
もしかしたらそうでない所もあるかもしれないが、少なくとも自分が目にして来た世界は、反吐が出そうなほど醜かった。
だからこそ、生徒達にはいつも、好きに描けと言う。
評価や受賞に拘り過ぎて、絵を描く楽しさを忘れてしまって欲しくないからだ。キャンバスに最初に色を載せるときの、あの緊張を孕んだ高揚感を、失って欲しくないからだ。
楽しく描いて、たまたまそれが評価されたなら喜べば良い。それだけの話じゃないか。
自分の考えは少し偏っているかもしれない、とも思う。だが、大きく間違ってはいないと自負している。
そういう世界であると知った上で、業界の権威を目指すのか、そういった枠組みから外れて自由に描くのか。どちらを選ぶのかは人それぞれだ。
大月 陽は、確実に後者だ。
面倒なしがらみや、窮屈でギスギスした人間関係などは、彼の最も苦手とする処だった。
画壇という、怨念や執着、時には陰謀が渦巻く世界。
彼のように純粋な人間がそこに飛び込めば、その世界の醜さに魂は穢れ、精神は擦り切れ、絵への情熱や喜びは消え去ってしまうかもしれない。
一匹狼とまでは言わないが、極度にマイペース。揺るぎない自分の世界と、凄まじいまでの集中力。
そういったところが、彼にどことなく超然とした雰囲気を纏わせている。
彼には、孤高の画家というイメージがよく似合う。
人間関係での瑣事に汲々とする大月陽の姿など、大友は見たくなかった。
いつまでも、いつまでも。
あの真っ直ぐな瞳で、混じりけの無い情熱で、手で触れられそうなほどの集中力で、眩しいほどの喜びを以て、絵を描き続けて欲しい。
大友は薄い冊子の表紙を閉じると、それを封筒に戻した。
封筒の差出人の署名、そしてその隣に押してある三日月と太陽の意匠のスタンプをそっと指でなぞり、封筒を引き出しに仕舞った。
もうすぐ授業の時間だ。そろそろ生徒達がやって来るだろう。
授業が終われば、今度は美術部の部員達が集まってくる。文化祭に向けて、発表する絵を真剣に描いている生徒達だ。
今日もまた、同じお題目を唱える事になるだろうか。
お得意の、「構造・自由・創造」だ。
大友はフッと短く微笑んだ。
描く喜びを失ってしまった代わりに、教える喜びを得た自分。何年もの間、同じ台詞に声を張り上げ、似たような生徒達の間をうろうろと歩き回る毎日。
そんな自分に、生徒達は描くことの喜びを返してくれる。
時々こうして思わぬ贈り物をくれる者がいる。
「恩師」などと呼んでくれる者がいる。
その中でもとび抜けた才能を持つであろう大月陽に、天本さんの工房を紹介した時、大友は心の底で自覚していた。
手放したくなかったのだ。目の届く範囲に置いておきたかったのだ。その姿を、画家としての成長を、彼の描いた絵を、見続けていたかった。
自分が失ったものを、きっと彼が体現してくれる。
彼は自分の夢であり、憧れなのだ。
美大時代に世話になった天本さんになら、信頼して託すことが出来る。
彼を壊すこと無く、見守り育ててくれる。あの繊細な感性を支え、無意識の渇望に応え、注意深く鍛えてくれる。
そして何より、大月 陽とのうっすらとした繋がりを保つ事が出来る。
今夜は久し振りに、天本さんに誘われている。大月 陽の近況を、我が子の自慢でもする様に話してくれるに違いない。それを肴に、さぞかし美味い酒が飲める事だろう。
1杯目のオーダーは、もう決まっている。華やかな香りと爽やかな甘味にほろ苦さが混じるお気に入りのカクテル、アドニスだ。
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