第42話 大友政直
懐かしい名前から、学校に封書が届いた。
大月 陽。
4年前に卒業した生徒だ。
地元の情報誌に記事が載ったからと、大友宛にわざわざ1部送ってきたのだ。
大友は封を開け、雑誌の表紙をめくった。
1ページ目から、大友の記憶よりだいぶ逞しくなった大月陽の写真が載っている。顔つきからあどけなさは薄れたが、澄んだ瞳と真っ直ぐな視線は相変わらずだ。
その右手には絵筆が握られ、背後にはたくさんの絵が立てかけてあるのを見て、大友は思わず頬を弛めた。
(よしよし。ちゃんと続けてるな)
実は、記事の内容は既に読んでいた。
雑誌が発行される前日に、陽の勤め先の社長であり大友の恩人でもある天本良治から、コピーがFAXされて来たのだ。
天本はパソコンに疎く、スキャナで取り込んでデータを送信、といった簡単な作業も、未だ苦手らしい。パソコンでの作業は、ほとんど妻の静江がやっていると聞いている。
大友は美術準備室の窓辺に歩み寄り、午後の自然光の下で写真を見直した。
うん。なかなか良い絵じゃないか。
大友はいつもの様に、窓の外に目を向けた。窓の側の大きな銀杏の樹が、黄葉し始めている。
† † †
大月 陽が初めて油絵を描いたのは、確か今頃の季節だったはずだ。
大友の方針として、部員達には入部してから半年間ほどみっちりデッサンをやらせることにしている。
ひとつの物を、様々な角度から。
光りの当たり具合、反射の仕方、影の出来方を観察させ、紙に写し取る。
様々にモチーフを変えながらそれを何度も繰り返すうちに、生徒の描き癖がわかってくるのだ。
その上で、矯正するべきところは矯正し、個性として伸ばすところは伸ばす。
半年間という時間は、生徒のデッサン力を培うと共に、生徒の個性を見極めるという点で、大友にとっても必要な時間なのだ。もちろん、個人によってその期間は多少変わってくるのだが。
大月陽については、入部当初から確かに絵が上手かったが、それまでは全くの自己流で描いていたため、大友は少し指導をした。
例えば、鉛筆の握り方や肘の角度。そして何より、描く時の姿勢。
背筋を伸ばし、首を真っ直ぐに立てる。描き疲れて背中を丸めてしまうと、視点が微妙に変わってしまう。構図にほんの僅かなずれが生じる。
特に油絵等の長期間に渡って描くものにとっては、そのほんの僅かのずれが、構図の微妙な歪みや心地の悪さをもたらすことになる。
だからまず、長時間描き続けても疲れない姿勢を、身体に叩き込む。描き方のテクニック等は、追々学んでいけば良いのだ。
半年ののち、大友は1年の部員達に静物画を描かせた。
与えたモチーフは、背もたれのある木製の椅子と、座面に掛けた布、その上にはいくつかの果物と貝がら。
放課後の数時間を使いひと月程描き続けた頃、ある日彼は突如筆を止め、途方に暮れたような顔で自分の描いた絵を見つめていた。
不自然に長くそうしているので、大友は彼に声を掛けた。
「あの、もう少し太く描くべきなのはわかるんですけど……なんか、これ以上描きたくないんです」
思い思いに描いている生徒達の間を縫って回り込み、彼の背後から絵を覗き込む。
彼の言葉通り、確かにモチーフの椅子は実物より若干華奢に描かれていた。下描きの時点では実物にかなり近いバランスだったから、色を載せていくうちにそうなったのだろう。
「あと、この辺も……もう塗りたくない。なんか気持ち悪いです」
キャンバスの淵に添って、ぐるりと指でなぞる。
暗めの色でぼかして描いた背景は、淵の近くで徐々に薄れ、擦れて色褪せたような風合いになっていた。
「気持ち悪い?」
「はい……塗ろうとすると、ムズムズする。椅子のところも、描き加えようとすると手が固まる。どうしたらいいか、わからないんです」
絵は、仕上げに入る直前の段階だった。
仕上げに入ってからでは、描き直すのは難しくなる。直せないわけではないのだが、そのテクニックを教えるのはまだ早いと思われた。
描き足すとしたら、今だった。だが、大友はそうさせなかった。
今の、この絵の完成形を、見てみたかったのだ。
薄暗い背景に浮かび上がる様に描かれた、繊細な物たち。
柔らかな光りを纏い内省的な濃い影を落とすそれらの物たちは、ひっそりと不思議な存在感を発している。誰にも気付かれぬ様に密かに呼吸を続け、期待を押し止めながら、来るべき瞬間を待っている。
浮き立ちそうなエネルギーを内に封じ込めた静物と、外に向かって拡散希釈されて行くような背景。
その存在感の密度の違いのせいか、その絵は無限の収縮と拡張を繰り返している様な錯覚を起こさせた。
「好きな様に描けばいい。実物そっくりの画なんて、写真に任せときゃいい」
その言葉に、彼は少し驚いた様に振り向いた。
今までのデッサンでは、実物に忠実に描くことが重要だっただけに、今回もそのための具体的なアドバイスを貰えるものと思っていたのだろう。
「それ以上描きたくないなら、そこで止めれば良い。絵を描く上で一番難しいのは、筆を止めるタイミングなんだ。手が動かなくなるのは、きっとそれが君の中でのベストなバランスだからだ。背景だってそのままでいい。それ以上塗りたくないなら、その淵のかさついた感じが、現時点での君の画風なんだろう」
大月 陽は、目を見開き口元を弛緩させて呆然とこちらを見つめ返すばかりだ。
「いいかい、実物と違ってたって構わないんだ。キャンバスの中は、君の世界なんだから。絵なんて、君の自由に、好きに描いたら良いんだ」
あの時の、彼の表情の変化を、俺は一生忘れないだろう。
大友は何度もそう思い返したものだ。
生徒に道を示した時、新たな扉を開いたときの彼らの反応というのは、教える立場にとって最大の喜びでもある。中でも、大月 陽の場合はそれが顕著だった。
手が止まってしまう、と困惑していた表情。
大友の言葉に、意外そうに見開いた目には徐々にキラキラとした光が瞬き、まるで朝日に照らされたように顔がパァーッと明るくなっていった。
実際にそんなことは起こり得ないのだが、その時大友は、人の顔面が光を放つのを見た気がした。
大月 陽の静かな興奮が、いつの間にか部室中に伝播していた。
部員達が集中して、自分に注目しているのがわかった。大友の指導を長く受けており、お馴染みの演説を何度も聞いているはずの上級の生徒達でさえ、自分達のモチーフそっちのけで耳をそばだてている。
大友は、この教室の静かな興奮の中心点である大月 陽の真っ直ぐな視線を受け取り、そこへ逆流させる様に言葉を注ぎ込んだ。いいか、絶対に忘れるな。
「ただ、構造を無視しちゃいけない。何かを描く時、構造を立体的に意識するんだ。目に見えてる部分以外の所。物の裏側。その、向こう側の空間。
構造が崩れていれば、絵も崩れる。世界は成り立たない。そうだろ?
敢えてわざと崩すという場合もあるが、それだって、しっかりとした構造を思い描けてこその話だ」
大友は顔を上げ、そこに居る部員達全員に向け、お決まりの台詞を言い放った。
「構造を把握し、しっかりとイメージする。そして、自由に描く。キャンバスの中に、世界を創る。よし、続きを描け!」
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