第116話 ブラックホール



 大友はふらつく足で病室を後にし、脂汗を滲ませながら病院の前で待機しているタクシーに乗り込んだ。



 何なんだ。大月陽に、一体何が起きた?!

 何だ?! あの、怪物じみた……いや、あれはもう……怪物だ。




「お客さん、どちらまで?」


 顔を上げると、タクシーの運転手が心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「ああ、駅まで。最寄りの……いや、***駅までお願いします」


 最寄り駅ではすぐに着いてしまう。もっと時間が欲しかった。誰の目にも触れない閉ざされた空間に踞ったまま、なるべく早くここから立ち去りたかった。


 車が動きだし、大友は大きく息をついて両手で顔を覆った。


「畏まりました………あの、お客さん、大丈夫ですか?」


 毎日たくさんの病人や見舞客を相手にしているであろうタクシーの運転手がこれだけ心配するということは、いま自分は相当酷い顔をしているのだろう。


「ああ、大丈夫。いや……済まないけど、ラジオを消してもらえないかな。ちょっと音が辛くて」




 車内が静かになり、先ほどの衝撃を思い返す余裕が出て来た。


 天本と談笑していると、病室の外から何かが近づいてくるのが分った。壁に遮られて見えないのに、何故か意識がぐいと引き寄せられるのだ。

 やがて、足音が聞こえてきて病室の前で止まった。


 扉を開けて入ってきた大月陽と目が合った瞬間、首の後ろが総毛立ち、反射的に立ち上がってしまった。本能的に逃げようとしたのだと思う。


 だが大月陽は、一瞬驚いたものの嬉しそうな笑い声を上げ、昔と変わらぬ人懐っこい笑顔で挨拶をしてきた。


「大友先生! いらっしゃるとは思いませんでした。ああ、びっくりしたぁ」

「お前が喜ぶだろうと思ってな、引き止めてたんだよ」

「うん。すっげー驚いたけど、嬉しいです。先生、ご無沙汰してます」



 動揺を隠しつつなんとか挨拶を返し、再び椅子に腰掛けた。天本に近況報告しているのに耳を傾けるふりをしつつ、陽を秘かに観察する。


 大人っぽくなってはいるものの、精悍な中にもどこかおっとりした印象を与えるのは昔のままだ。


 実際のところ、彼がおっとり大らかに見えるのは、絵を描くこと以外の物事への執着やこだわりが極端に薄いせいだと、大友は思っていた。

 無邪気にも見える笑顔の下には恐ろしく老成した何かを抱えており、厭世的だったり刹那的な傾向が隠されているように感じてしまうのは、彼の生い立ちを知っているからかもしれないが。



 そんな、どこか飄々としたところのある彼が、何故こんな、禍々しいとまで感じるオーラを放つようになったのか。

 いや、放っているというのは逆かもしれない。

 まるで、こちらの意識が、エネルギーが、吸込まれて行く様に感じるのだ。


 高校生だった頃は、そんなことは無かった。

 確かに、ある意味では目立つ生徒ではあった。喧しく騒いだり率先してリーダーシップを発揮したりという目立ち方ではなかったが、親の失踪以前から、妙に人目を惹くところは確かにあった。


 だが今は。


 目を惹くどころの騒ぎじゃない。まるで、ブラックホールだ。

 近くに居るだけで、為す術も無く強制的に引きずり込まれて行く感覚。目立つなんてモノじゃない。否応無く視線をもぎ取られる。目を逸らしても、つい視線を戻してしまう。

 恐いもの見たさにも似て、恐れつつも心奪われてしまうのだ。


 こんなに不穏な、なのに抗い難い、妖気と言ってもいいほどの何かに、天本は全く気づいていない。ずっと傍に居たせいで慣れてしまっているのだろうか。

 昔を知っている自分が久々に会ったからこそ、気付けたのだろうか……





 大月陽との邂逅は、おそらく20分にも満たなかったと思う。耐えきれず、大友は架空の予定をでっち上げて逃げ出したのだ。


 別れ際、大月陽は握手を求めてきた。相変わらずの、目尻の笑い皺も微笑ましい、人懐っこい笑顔を浮かべて。


 その表情と、彼が纏う『何らかの』ギャップに引き裂かれそうになりながら、大友は手を差し出した。背筋がゾッとして、冷たい汗が滲んだ。

 彼の温かい手を握り返した時、足元の地面が引き抜かれるような感覚を覚えた。波打ち際に立った時、足の下の砂が波に攫われて行くのにも似た、あの感覚………




 思い出し、酷い貧血に似た目眩に襲われて、大友は両手で額を覆い目を閉じた。



 大月陽。


 かつての生徒だった、いや、心の底で愛弟子とも思っていた青年は、もういない。彼は別の何かになってしまった。自分の期待とは遠く離れた、全く違う、何かに。


 いや、と大友は思う。


 もしかしたら、全て自分の勘違いかもしれない。再会への過度の期待と、病院という非日常的な舞台設定に過敏になっていて、ありもしない何かを見たと思い込んでいるのかもしれない。

 そうだったら、どんなにいいか。ただの思い過ごしだと、笑い飛ばせたら……



 だが大友は、再び陽に会いたいとはどうしても思えなかった。


 これからは更に遠くから、うんと遠くから見守ろう。本人そのものではなく、圧倒的な絵の才能とその作品だけを。

 天本さんには、息子の自立を促すべきだとかなんとか言って、少し距離をとるように勧めてみよう。それぐらいしか、今の自分に出来ることは無さそうだ。



自分の臆病さを嗤いながら、大友はそれでも陽から完全には離れられない、忘れ去ることが出来ない自分に気づき、やるせないため息をついた。



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