第146話 冷たい湖底


 夢をみた。


 気づくと私は、ひんやりと心地よい水の中を漂っていた。

 魚のいない湖。他の生物が住めないほど、澄んだ水。


 淋しくなって何か泳いでいないかと水面を見上げると、ふわりと水が動いた。


 身体が反転し、抗うことも出来ぬまま、すーっと沈み込んで行く。水流にうねり入り乱れる髪の向こうに、キラキラ光る水面が見える。程なくして水底に背中が押し付けられた。

 キラキラと光る水面はどんどん遠ざかり、やがて辺りは光の届かない真っ暗な闇に包まれた。纏わり付いては水面へと立ち昇っていた小さな水泡さえ、闇の中へ消えてしまった。


 身体は、水底に刻み付けられてしまったように動かない・・・・



   † † †



「どうした夏蓮、顔色が悪いぞ」


「おはよう、カズ。大丈夫よ、ちょっと変な夢をみたの。それだけ」

「夢なんて珍しいじゃないか」


 普段、夏蓮はあまり夢をみない。ぐっすりと熟睡する質なのだ。


 夏蓮は朝食用の籐椅子に座ると、気怠げに髪をまとめ、大きなピンで留めた。

 額の後れ毛を後ろへ流すついでに額に手を当てる。額はいつもより少しひんやりとしていて、先ほどみた夢の感触を思い起こさせた。


 サイドテーブルに、湯気を立てたコーヒーカップとフルーツサラダが置かれる。


「無理するなよ。休むか?」

「ありがとう。大丈夫、シャワー浴びればシャキッとするわ」


 休むなんて、とんでもない。

 今日は公演会場の候補をいくつか回って、その後はいよいよ本格的な振り付けが始まるのだから。


 日々の訓練により、エアリアルの技術はかなり向上していた。これから、夏蓮の持つ技術でどれほどのパフォーマンスが可能なのか見極めながら、長い期間をかけてステージを構築していくのだ。


 全体的なイメージは出来ている。自信もある。

 だが、初めての試みが多いことと舞台装置が大掛かりになること。そしてこの舞台を成功させれば、ダンサーとして大きく飛躍することができる。


 私は少し、緊張しているのかもしれない。もしかしたら、少しだけ。


 でも。

 それ以上に、新しいことへの挑戦と未知の領域への期待感で興奮している。




 コーヒーを、ひとくち。深い香りと爽やかな苦味が広がり、私を落ち着かせてくれる。


 窓の外には、夏の日差しを受けさわさわと揺れる濃い緑。

 ふと、陽と一緒に行ったドイツの夜を思い出す。あのホテルのベランダから見る景色は、この家の窓から見える風景と少し似ている。



……陽は、今どうしているだろう。


 夏蓮は胸元のペンダントに指先で触れた。金色の五芒星を取り囲む、銀色の月桂樹。

 陽はシンガポールで行われる「アジア アートフェスタ」に招かれ、先日から滞在している。忙しいらしく、スカイプはおろか、メールすらほとんど送ってこない。


(シンガポールとの時差はどれくらいだったかしら。たしか……)



「夏蓮、コーヒーはどうする?」


 五島の声に物思いを破られた。


「もういいわ。それよりお水を飲みたい。あ、いいの。自分でやるわ」


 夏蓮はわずかに残っていたコーヒーを飲み干すと、席を立った。流し台にカップを置くと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注ぐ。


 グラスの中の水に踊る細かな気泡を見て、夏蓮は再びあの夢を思い出した。

 水の冷たさと、湖底に引き込まれてゆく、あの感覚。


 妙に心細くなり、思わず夏蓮はペンダントをギュッと握った。


(夢に、引き摺られている………)




 夏蓮はペンダントを離し、急いで水を飲み干すと、ベッドルームへ向かった。



 馬鹿馬鹿しい。熱いシャワーを浴びて、さっさと忘れてしまおう。


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