第147話 悪い夢


 石造りの階段を先に立って歩く夏蓮の後ろを、五島はさり気なく周囲に目を配りながら付いて行く。


 夏蓮には昔から、階段を歩く際、手摺りのある壁際を登るように言ってあった。

 手摺りや壁とで夏蓮を挟むように、五島は夏蓮の数段後を歩く。もし足を滑らせたりしたら自分が支えられるし、暴漢や悪質なファンが来ても守れる位置取りだ。


 いつも通り、夏蓮が階段を登りきると、劇場の扉を開けるべく、五島は足を速めて夏蓮を追い越した。

 横をすり抜ける際、劇場関係者の挨拶に艶やかな笑顔で応え、手垢のついたお追蹤(しかし本心からであろう言葉)を巧みに受け流す夏蓮を、目の端で確認していた。


 大きな歩幅で数歩、ドアの手摺りに手を伸ばしかけた時。

 視界の隅に強烈な違和感を感じ、五島は咄嗟に振り向いた。


 そこからは、まるでスローモーションだった。




 階段の方を振り返った夏蓮が、ゆっくりと倒れてゆく。

 こちらに半ば顔を背けたまま、背中から、ゆっくりと。


 数歩分をひとっ飛びに、五島は駆け出した。が、体は重く、悪夢の中でもがいているみたいに進まない。


 ゆっくりと振り向いた夏蓮の目が驚きに見開かれ、何かを叫ぶ様に小さく口が開いたのが見えた。が、その表情はすぐに、うねる黒髪によって隠れてしまう。


 五島の動きに気づいた関係者が振り向き、驚いて声をあげる。


 倒れながら差し伸べられた手を掴もうと、五島は精一杯腕を伸ばす。が、その距離は遠く、指先さえ触れずに空を掴んだ。



 絶望の1秒間だった。


 吸い込まれる様に落ちて行った夏蓮の体は石造りの踊り場に叩きつけられ、そのままの勢いで階段数段分を転がり落ち、途中で止まった。




 自分がどうやって夏蓮の元へたどり着いたのか、五島は覚えていなかった。


 ただ徒らに、夏蓮の名を大声で呼び続けていた。



   † † †




 眠り姫の様に、夏蓮は眠っている。


 ただ穏やかに、ひたすらに美しく。



 治りかけの擦り傷といくつかの斑色の痣が見えるが、それすらも前衛的なメイクを施したかのように美しかった。




 これはきっと、悪い夢だ。



 五島は無骨な手を伸ばし、夏蓮の頬に触れようとした。

 が、その手は空中でぴたりと止まって行き先を変え、薄い掛け布団の端を整えるに止まった。


 触れたら、痛い思いをさせてしまうかもしれない。


 麻酔が効いて眠っているとはいえ、夏蓮の身体に少しでも苦痛をもたらす可能性のあることは、恐ろしくて出来なかった。


 五島は簡素な丸椅子に座りなおすと、両手で頭を抱え背中を丸めた。

 頭を割ってしまわんばかりの力を両手に込め、奥歯を噛み砕く勢いで歯をくいしばる。気が狂いそうで、そうでもしていないと正気を保つことが出来そうにない。




 伸ばした指の先、まるで見えない手に放り投げられたか風に攫われでもしたかの様に、ふわりと浮いて見えたあの瞬間。

 倒れていく身体と、差し伸べられた両腕。艶やかな黒髪が踊り、赤いピアスがきらりと光って揺れる。鮮やかなオレンジ色のブラウスのゆったりとられた袖がはためき、白い二の腕が垣間見えた瞬間、夏蓮の身体が硬い床に叩きつけられ、跳ねた。


 そのまま転がり落ち、階段の中腹で斜めになって横たわった姿は………



 劇的なまでに、美しかった。


 艶やかな髪が床に広がり、目を閉じた美しい横顔には耳から流れ出た真っ赤な血が、一筋。

 放り出された腕は完璧な角度で留まり、指先は優美に開いていた。

 燃え立つ様なオレンジ色のブラウスは羽ばたく直前の翼を、真っ白なパンツを纏った長い足や銀色に輝く華奢なサンダルは神話の中の女神を思わせた。



 救急車を呼ぶことも思い至らず、半狂乱でその身体を抱き起こし、ただただ名前を叫び続けていた間。

 周囲のざわめきや関係者の怒号、救急車のサイレンが妙に遠くに聞こえる中、ぐったりとした身体を抱きしめ髪を撫で、「大丈夫だ」「俺がいるから」「何も心配するな」と震える声で囁き続けていた間。

 救急隊員や周りの人間に両腕をもぎ取られるようにして夏蓮を奪われ、担架で運ばれる夏蓮に取り縋ろうと喚いている間も。


 ずっと、脳裏にあの場面がちらついていた。




 きっと、一時的な錯乱状態だったのだろう。


 本来ならば、身体を動かさず速やかに救急車を呼び、各方面に連絡し、周囲の人間に状況を確認すべきだった。

 だが突然、絶望と恐怖、究極的な美に襲われたこと、そしてその様な状況で「美しい」と感じてしまった自分を怖れ、恐慌状態に陥ってしまったのだ。


 

 情けないどころの話じゃない。マネージャーとして、最も冷静であらねばならぬ場面で、俺は………



 最悪の対処だった。

 

 もしかしたら、自分のしたことのせいで夏蓮の状態が悪化したかもしれない。そう考えるのは、とてつもない恐怖だ。だが、その可能性は低くはない筈だ。


(夏蓮にもしものことがあったら……)



 食いしばった歯の奥から、うめき声が漏れた。


 五島は音をたてぬよう席を立ち、そっと病室の外に出た。時計の針は、もうじき深夜を指そうとしている。


 夏蓮の両親が朝一番の便で到着する。

 応急処置と一応の検査の結果は伝えてあるが、彼らが到着する頃には追加の検査が行われているだろう。


 スタッフや、現場にいた関係者には連絡済みだ。当面の指示も済ませた。


 あとは………大月陽だ。すっかり忘れていたが、彼にも知らせなければ。




 五島は大きく息を吐くと、木暮にメールを送るべく、夏蓮の眠る病室へ戻った。



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