第119話 五島の懸念
年末のミュンヘン公演は大成功、鳴り止まぬスタンディングオベーションのうちに幕を降ろした。
演目はやはり、「鷺娘」。
「日本版 白鳥の湖」と言われる演目なだけあって、欧米の観客にも受けるだろうという夏蓮の思惑は、見事に的中した。日本での公演とほぼ同様の振り付けだったが、特に日本舞踊の動きを織り交ぜた振り付けは、オリエンタル且つエレガントだと絶賛された。
一切の台詞も無い舞台にも拘らず、観客はときに頬に手を当てて微笑み、感嘆の声を上げ、目の前で両手を組んで身を乗り出し、ハンカチを握りしめて涙した。
日本での公演を観た者も、今回の公演を絶賛した。
五島の目から観ても、素晴らしい舞台だった。それぞれの場面で感情が迸り、観客の心を取り込み一体となって物語を紡ぐ、そんな演技だった。
特筆すべきは、飛躍的に向上した表現力だ。否応無しに心を揺さぶられてしまう。
一体どうして、これほどの表現力を獲得したのか。
……言うまでもなく、あいつのせいだ。大月陽。
記者からのインタビューに、「常にインスピレーションを与えてくれる恋人のおかげ」と夏蓮は答え、幸せそうに微笑んだ。
その言葉を立証するかのように、夏蓮は年越しパーティーが終わるとその足で、日本へ帰ってしまった。
パーティーなど華やかな場所が大好きな彼女にとっては、異例なことだ。いつもなら大きな公演の後は打ち上げと称し、知人友人に囲まれて連日遊び歩くというのに。
夏蓮を空港まで送った帰り道、五島は思い返していた。
胸元に光るペンダントに触れ、月桂樹の葉に囲まれた五芒星の感触を確かめる様にそっとなぞる夏蓮の表情。それは今までに見たことの無いような、穏やかで慈愛に溢れた、満ち足りた微笑だった。
まるで、聖母マリアのような。
言葉にすればなんと陳腐な、ありふれた表現だろう。
だがそれを目にした時に五島が感じたのは、彼女のその表情に全くそぐわぬ、危機感、焦燥、苛立ちだった。
これまでの夏蓮の恋愛は、いつでも相手の上に燦然と君臨し、支配し振り回し、やがて打ち捨てるというものだった。
それが良いとも悪いとも言うつもりは無い。ただ自然に、夏蓮はそうしてきたし、五島はそれを傍で見てきた。おそらく、世界中で一番近くで。
独自のセンサーで人の才能を嗅ぎ分けるという才能を持つ夏蓮はまた、気に入った人物を惹き付ける才能も併せ持っていた。
夏蓮が狙う標的は、例外無く彼女に引き寄せられ、彼女の虜となる。無我夢中という言葉がぴったりなほどに溺れ、彼女の歓心を買おうと躍起になり、身を削るように奉仕しては、その反応に一喜一憂する。
そうするうちにやがて、まるで精気を吸い取られた様に才能は潰え、乾涸びていく。
そうなれば、彼女は対象に興味を失ってしまう。才能の輝きを放たない男など、意味が無い。その辺の塵芥と同等なのだ。
どれだけ取り縋ろうと、彼女は一顧だにしない。それはもう、端から見ればいっそ清々しいほどに。
誘蛾灯に集まる虫を思わせる彼らに、さすがの五島も同情を覚えなくもない。
だが、そうも言っていられない。夏蓮の寵愛を受けられなくなった彼らはほぼ一様に、五島に思いの矛先を向け、攻撃に転じるからだ。
五島と夏蓮の仲を勘ぐる者もいたし、単にいつも夏蓮の傍に居る五島に嫉妬する者もいた。そんな彼らを五島は慰め、説き伏せ、時には身体を張って排除してきた。
彼女が愛していたのは自身のその才能だったと気付いた者の中には、自分を見つめ直し、その分野で復活を遂げる者もあった。
だが、そのまま潰れて行ってしまった者の方が多かった。
……大月陽は、どうなるのだろう。
夏蓮の中に新たな表情を描き上げた、才能溢れる芸術家。
今までに無い夏蓮の変化に、五島は言い知れぬ不安を感じた。
まさか夏蓮に限って、舞踏より彼を優先するなんてことにはならないとは思うが……いや、どうだろう。もしそんなことになれば……
そこまで考え、五島は思いを振り払うように首を振った。
……夏蓮の変化が、このまま舞踏家としてのさらなる飛躍に結びつくなら良いのだが。
五島は大きく息を吐き出すと、意識を運転に集中させた。
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