第173話 あの日。陽の回想


 胸の真ん中が、熱かった。


 全て悪い夢かもしれない。目が覚めたらいつも通りの朝で、俺はベッドから跳ね起きて絵の続きを……ほんの一瞬でもそう思いたかったが、無理だった。


 痣が。この痣の熱さが、これは現実なのだと絶え間なく突きつける。


 じわじわとした熱さが鬱陶しくて恐ろしくて、陽は生乾きのTシャツの上から乱暴に痣を擦った。



 (優馬さんの言葉、どういう意味だ?! 「俺」は悪くない、自分が悪かったってい言いつつ、栞さん達には近づくなって……怖い、って)



 考えが、纏まらない。

 頭の中を整理しようとしても、優馬にもしものことがあったらという恐怖が先に立って何も考えられないのだ。



 頼む、死なないで。助けてください。優馬さんを、死なせないで。お願いです。お願いします。優馬さん、いっぱい血が出てた。ちょっと動くたびに、ブワッて。輸血は‥‥そういや俺、優馬さんの血液型すら知らない……俺、何も出来ない……何か俺に出来ることは? 何でもするから。俺に、出来ること……



 いつの間にか、病院の簡素なソファがギシギシと不快な音を立てているのにも気づかずに、痛みを感じるほど胸を擦りながら体を前後に揺すっていた。食い縛った奥歯の隙間から、呻き声が漏れる。



 助けて。たすけて! たすけてくれ! この痣のせいだ……優馬さんはああ言ったけど、絶対に俺のせいだ。だってお祓いに行けって念を押されたし栞さんに何かあったらって、怖いって、そういうことだよね。お祓い、行くけど、行くけど、もし間に合わなかったら…………いや、駄目だ。こういう時は、そうだ。飯を食わなきゃ。空腹で考え事するなって言われたもん……いや、食えないよ。こんな時に飯なんて食えるわけない。無理だよ、優馬さん。俺、どうすりゃいいんだよ……



 脂汗で濡れた額がムズムズと痒くて気持ち悪い。

 陽は両手で額を擦り、爪を立ててガリガリと頭を掻いた。そしてまた、胸の痣を擦り始める。



 嫌だよ。一緒に頑張るって言ったろ? 優馬さんが言ってくれたから、一緒に居てくれたから頑張れたんだ。居なくならないで。大切な人が居なくなるのは、もう嫌なんだ。俺を、ひとりにしないでよ……



 周囲の状況は、全く視界に入っていなかった。看護師の「ご家族の方見えられました」という声が聞こえたが、自分とは無関係の物音としか感じなかった。

 だが、近づいて来る足音を聞いた時に唐突に頭の中で意味が繋がり、陽は弾かれた様に立ち上がった。


 栞さんだ。


 どうしよう……と迷ったのは、一瞬だった。

 ひとりきりじゃないという安心感や、状況を説明しなきゃという義務感、とにかく何かしなきゃという焦燥感、そして何より、罪悪感……一挙に押し寄せた様々な感情を吹き飛ばしたのが、優馬の掠れ声だった。




『頼む。栞には、近づくな』



……栞さんに、近づいちゃ、いけない。優馬さんが、そう言った。だから、近づかない。約束したんだ。



 とにかく、近づいて来る足音と反対の方向へ……



   † † †



 どこをどう走ったものか、気づけば見知らぬ細い路地に入り込んでいた。

 ざらざらした塀に寄りかかり息を整える。酷い雨の中、人通りがないのを幸いに、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。


 この姿勢で路上で雨に打たれていると、嫌が応にも優馬の姿が思い出された。完全に血の気の引いた顔色、雨で濡れているにも拘わらずカサついて見えた紫色の唇。首筋から流れる雨混じりの血。濡れて肌に張り付き、ところどころ斑に染まった白いシャツ。



 一瞬、その場面を描いている情景が頭を過ぎり、戦慄した。途端に猛烈な吐き気が込み上げ、四つ這いになって盛大に嘔吐してしまう。


(こんな時に、なんてことを。俺は……)


 頭の中に、次々にイメージが浮かんでくる。白いキャンバスに筆が走り色を重ね、あの時の優馬が描き出される。

 何度かき消そうとしても、コマ送りのダイジェストのように映像が重なり絵が出来上がっていく。

 まるで、絵の購入者にあげていた特典の制作過程動画を見ているみたいに。



(止めろ! 止めろ! やめろやめろやめろ!)


 映像を振り払おうと頭を掻き毟っても、それは止まらなかった。胸の痣がチリチリと熱を持って存在を主張してくる。




……離れなきゃ。優馬さんから、もっと、離れなきゃ。あいつを探すんだ。お祓いなんて待ってられない。優馬さんを助ける。会って、直接話をつける!


 追い詰められた気持ちで立ち上がると、目の前にあの男が立っていた。



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