第155話 バレンタインデー (3)

 インフルエンザに罹患りかんして、バレンタインデーに駿へチョコを贈れなかった幸子。

 逆に、駿からバレンタインのチョコと、思いのこもった歌のビデオレターをもらってしまう。


「チョコをあげるのは、バレンタインデーじゃなきゃダメなのかしら?」


 母親・澄子の一言に、自分の想いを込めたチョコを作って、駿に渡すことを決意。


 『幸子のバレンタインデー』は、これから始まるのだ。


 ――バレンタインデーから五日後 土曜日


『次は終点、戸神本町駅前です。どなた様も……』


 車窓を流れる灰色と茶色の雪景色。

 昨夜、中途半端にたくさん降った雪が、あちらこちらで積もっている。空も、灰色の雲が厚く覆っており、いつまた雪が降り出すか分からないような天気だった。


 そんな中、幸子は、手作りのチョコレートが入った白いギフトバッグを手に、バスに乗っている。


 インフルエンザに罹患していた幸子は、駿からのホットチョコレートを飲んだ翌日火曜日の朝に平熱へ戻り、その後、木曜日まで安静にした後、金曜日に登校を再開した。

 学校で、亜由美たちから手荒な快気祝いを受けた後、帰宅後に澄子の協力を得て、ハート型の大きなチョコレートを作ったのだ。


 今日、駿はアルバイトが休みなのだが、住んでいるアパートがお年寄りばかりなので、周辺の雪かきをするために、幸子の家には行かないことになっていた。それならばと、急遽チョコを渡すために、駿の部屋へ押しかけることにしたのだ。


 キキィー プシュー


 終点の駅前でバスを降りる幸子。


 今日の幸子は、以前駿に言われた『冬の妖精』を自分なりにイメージして、コーデしていた。

 白いトレーナーに、淡いブラウンのタータンチェックのフレアスカート、アウターはアイボリーのショートコートを羽織っている。もちろん、左手の小指には、駿からもらったピンキーリングを、唇にはリップを塗っていた。

 また、今日は『チョコ第一』ということで、転ばないようにブラウンの長靴を履いている。


「気をつけて持っていかなきゃ……」


 北口バスターミナルでバスを降りた幸子は、そのまま南口へと抜けていき、駿の部屋を目指した。

 転びそうな凍結路や、泥が跳ねそうな道は避け、多少遠回りでも、できるだけきれいな道を選び進んでいく。

 足元に十分気をつけながら、ゆっくり進む幸子。


(うん、滑らない! ちょっとかっこ悪いけど、長靴履いてきて正解! このまま足元に気をつけながら行こう!)


 しかし、幸子は足元には気を付けていたが、周りをよく見ていなかった。


 南口は繁華街もあり、多くの人が行き交っている。

 そして、進行方向の右手に路地があった。


 幸子は気が付かなかった。

 その路地から大きな人影が迫ってきていることに。


 ◇ ◇ ◇


 ――駿の部屋


 駿は、朝からアパートとその周辺の雪かきを行い、今は一段落ついたので、部屋で休憩中だ。


(必要最低限の場所の雪かきは終わったし、あとはその他の場所だな……どうでもいいけど、腰が痛ぇ……)


 渋い顔をしながら、腰をポンポンと叩く駿。


 ぴんぽーん


 部屋の呼び鈴が鳴った。


(ん? セールスか何かか……? こんな日にご苦労なこった……)


 痛む腰を上げて、玄関を開ける。


 ガチャガチャ ガチャリ


「はーい……え、さっちゃん⁉」


 駿が玄関を開けると、うつむき、震えている幸子が立っていた。


「どうしたの、そんな泥だらけになって!」


 駿の部屋へ来る途中に、出会い頭に大柄な人とぶつかってしまい、雪解けで泥水が溜まっているところに、転んでしまったのだ。大柄の人は必死に謝っていたが、前をきちんと見ていなかった自身にも責任があることを幸子は自覚しており、謝罪以上のことは求めなかった。

 しかし、ホワイトや淡い色でコーデされた衣服は泥にまみれてしまい、何よりチョコの入っている白いギフトバッグも泥水に落としてしまったのだ。


 スカートとショートコートからは、濁った水が滴っている。

 幸子は、寒さで濡れた身体を震わせていた。


「とにかく入って! 濡れたままじゃ、風邪引いちゃうよ!」


 駿に手を引かれ、部屋に入る幸子。

 玄関にタオルを引き、その上に幸子を立たせた。

 ユニットバスの浴槽にお湯を溜めつつ、暖めた濡れタオルで泥しぶきが飛んだ幸子の顔や髪を拭う駿。


「もうちょっとだけ待ってね、さっちゃん!」


 駿は、慌ただしくバスタオルや新しいタオル、学校指定のジャージ、ソックスなどを用意して、ユニットバスに置いた。


「さっちゃん、ちょっと狭いかもしれないけど、お湯に浸かって身体温めて、ね」


 力なく頷いた幸子。


「汚れちゃったコートとかは、扉の外に置いておいて。部屋の方で乾かしておくから」


 ユニットバスのドアを開け、幸子の手を引いて中へ誘導する駿。


「お湯熱めにしてあるけど、肩までちゃんと浸かってね。オレ、部屋の方にいるから。ごゆっくり」


 パタン パタン


 ユニットバスのドアを閉め、部屋とキッチンをつなぐドアも閉めた。


「部屋の温度も少しだけ上げておくか……」


 ピッ ピッ ピッ


 エアコンの温度を上げた駿。


 パタン……


 ユニットバスのドアを閉める音がした。


 コンコン


 念のため、キッチンへ続くドアをノックする。


 キィ……


 駿は、そっとドアを開けた。

 そこには、泥水で汚れ、濡れたショートコート、トレーナー、フレアスカート、ソックスが置かれていた。

 ユニットバスの方に声をかける駿。


「さっちゃん、これ乾かしておくね」


 駿は、汚れた服を手にする。


「駿くん……」


 ユニットバスの中から、自分を呼ぶ幸子の声が聞こえた。


「ん? どうしたの?」

「ご迷惑をおかけして、ごめんなさい……」

「全然迷惑じゃないよ。気にしないで」


 ちゃぷ ちゃぽん


 お湯の音がする。


「ひとりだけで来ちゃダメって言われてたけど……」

「きっと何か理由があるんでしょ?」


 ちゃぷん ちゃぽん


「どうしても……どうしても駿くんに……チョコを渡したかったの……」

「チョコ?」


 駿は、キッチンの上に置いておいた、泥だらけのギフトバッグに目をやった。


「どうしても……し、駿くんに……うぅ……」


 ばしゃばしゃばしゃばしゃ


 悔しさに心が耐えられず、嗚咽が漏れそうだった幸子は、これ以上駿に心配をかけたくなく、何度もお湯で顔を拭った。


「そうだったんだね。さっちゃん、ありがとう!」


 自分のために、幸子がバレンタインチョコを持ってきてくれた。

 その事実に、駿は本当に嬉しく、心の底から喜びが湧き上がる。


「オレ、さっちゃんのその気持ち、ホントに嬉しいよ! だから……だから、さっちゃん、泣かないで」


 ちゃぽん ちゃぷ


「今はゆっくり身体を温めて、心を落ち着かせてね」

「はい……」


 幸子の小さな返事を聞いて、駿は幸子の汚れた服と、そして汚れたギフトバッグを持って、部屋へ戻った。


 ――しばらくして


 カチャリ


「お風呂ありがとうございました……」


 部屋に入ってくる幸子。


「さ、さっちゃん……破壊力が……」

「え?」


 幸子は、駿の学校指定のジャージを着ているのだが、体格がまったく違うため、上下共にゆるゆるのぶっかぶかである。


「ぶかぶか過ぎて……超カワイイです……」

「!」


 顔が赤くなった幸子。


「さっちゃん……」

「は、はい」

「あとで、ワイシャツ着てもらっていい……?」


 駿は、欲望に忠実なお願いをする。


「あ、あの、ど、どうしてもって、駿くんが言うなら……」

「マジ⁉」


 欲望に忠実な笑顔を浮かべた駿。


「た、ただ……あの……」


 幸子は顔を真っ赤にして、困惑しているような仕草を見せる。


「し、下着も濡れちゃってまして……今、付、付けてないんです……」

「へ?」

「な、なので、ワイシャツだと、い、色々、透けちゃう、かも……」

「!」


 顔が瞬時に真っ赤になった駿。


「あ! で、でも、私ので駿くんに喜んでいただけるなら……」

「喜びません! さっきのはウソです! 忘れてください!」


 駿は、手をブンブン振りながら、大慌てである。


「あ……そうですよね……ぺったんこですし……そばかすだらけですし……進んで見たくはないですよね……」


 うなだれた幸子。


「い、いや! ぶっちゃけ、すげぇ見たいけど……じゃない! そういうことじゃなくて……」

「じゃあ、私、着ますね」

「いやいやいやいや、待ちなさいって、さっちゃん!」


 幸子をよく見ると、笑いを堪えている。

 じとー、っと幸子を見た駿。


「さっちゃーん……」

「ふふふっ、慌てる駿くんが可愛くて」

「まったくもう……」


 小さくため息をつく駿。

 そんな駿を見て、幸子はくすくす笑っている。


 そして、小さなテーブルを挟んで、駿の向かいに座った。


「それで何があったの? 泥だらけだったから、びっくりしたよ」


 幸子は、うなだれてしまう。


「はい……こちら来る時、転ばないように足元ばかり気にしてたら、角で出会い頭に大きな人とぶつかってしまって……運の悪いことに、排水溝が詰まって雪解けでドロドロの大きな水たまりのところに頭から突っ込んじゃったんです……」

「だから、びしょびしょだったんだ……」


 部屋の中に干された幸子の服に目をやった駿。


「服が汚れるのは、この際構わなかったのですが……」


 幸子の視線が、床に置かれていたギフトバッグに向かう。

 純白だったギフトバックは、泥で汚れ、誰が見ても汚らしかった。

 そのまま視線を落とし、悔しそうな表情を浮かべる幸子。


 『幸子のバレンタインデー』は、終わってしまったのだ。


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