第168話 ホワイトデー - 運命の日 (1)
――三月十四日 ホワイトデー 朝
――駿の部屋
寝ぼけまなこの駿がベッドに座っている。
「あー……何とか作り終えたんだったな……腕痛ぇ……」
眠たそうに頭をポリポリとかきながら、部屋を見渡す駿。
部屋の中を甘い匂いが漂っている。
キッチンには、使用後の金属のボウルやホイッパー、クッキーの型が積まれていた。キッチンのゴミ箱の中には、薄力粉の袋やバターの箱、クッキングシートなどが捨てられている。
部屋の小さなテーブルには、たくさんの洋封筒と便箋が散らばっていた。部屋のゴミ箱には、書き損じたのであろう、丸められた便箋が大量に捨てられている。
そして、駿は大きな白い紙袋に目を向けた。
駿が昨日作った手作りのクッキーは、ラッピングされた透明の袋に収まっており、紙袋の中にはその袋がたくさん入っている。
洋封筒も何通か収まっていた。
「みんな、受け取ってくれるといいけどな……」
駿は、ひとり静かに微笑んだ。
ドサッ
ベッドへ横になる駿。
(あれから一年……色んなことがあったよな……)
駿は、幸子との出会いから今までを思い返した。
最初は、か弱い真面目な女の子を、保護欲のままに友達として迎え入れただけだった。それは、可愛い妹を守る兄のような気持ちが強く、そこに恋愛感情は無かった。
しかし、幸子の弱さは、自分の弱さと重なり、駿にとって幸子は目の離せない存在になっていく。
深い心の傷やコンプレックスを抱え、時にそれらに飲み込まれ、時に駿や仲間たちに助けてもらいながら、ひとりの優しく可愛らしい女の子として少しずつ成長していくその姿は、不能を改善できずにいた駿にとって誰よりも輝いて見えた。
そんな幸子に、駿はどんどん惹かれていく。
その一方で、駿は魅力的な女の子たちに囲まれていた。
自由奔放でちょっと強がり、そして素直じゃないジュリア。
明るい笑顔が誰よりも可愛い、元気を分け与えてくれるココア。
沈着冷静、優しさと強さの両方を心に持つ知的なキララ。
まっすぐな心を持った一番付き合いの長い美しき幼馴染、亜由美。
思わず守りたくなる優しきぽっちゃりお姉さん、倫子。
自分の気持ちをストレートにぶつけてくる破天荒な美女、光。
そんな魅力的な女の子たちが、自分に好意を持ってくれていることは、駿自身も分かっていた。
そんな自分を「とんだ勘違い野郎だ」と、笑い飛ばすことはもうできない。放置すれば、それだけ幸子を傷付けることになるからだ。
好意を持ってくれている女の子たちにも失礼であり、傷付けることにつながりかねない。
そんな状況の中、幸子はありったけの勇気で、自分にバレンタインチョコを贈ってくれた。
自分を卑下する傾向のある幸子が、どれだけの覚悟で自分に想いを告げたのか、それを考えると胸が苦しくなった。
(いつまでも不能を気にして、バレンタインデーがあったとは言え、先にさっちゃんに想いを告げさせるなんて……情けなさすぎる……オレが不能だと知っても、優しく抱きしめてくれたじゃないか……)
駿は、自分の不甲斐なさに情けなくなった。
(だから次は、自分が覚悟をもってホワイトデーに望まなければ……)
ベッドから起き上がる駿。
(オレはさっちゃんが好きだ……その気持ちに偽りはない……今日、それをはっきりさせるんだ! さっちゃんにオレの想いをぶつけるんだ!)
幸子に自分の想いをきちんと伝えたい。
駿は決意を新たにした。
◇ ◇ ◇
――幸子の自宅
「お母さん、おはよう……」
パジャマ姿でキッチンに顔を出した幸子。
「さっちゃん、おはよう。ご飯できてるから、顔洗ってらっしゃい」
「うん……」
母親・澄子に促されて、洗面所へ向かう。
キュッ ジャー
三月半ば、まだまだ冷たい水と洗顔フォームで顔を洗い、目を覚ます。
キュッ キュッ
水を止め、タオルで顔を拭いた幸子は、目の前の鏡に映る自分の顔を見た。
全体が濃いそばかすで覆われた自分の顔が映っている。
幸子は、鏡から目をそらし、パジャマの胸元を広げ、覗いてみた。
パジャマが影になっていることもあるが、胸は先端を除いて、そばかすで真っ黒だ。
分かってはいても、その現実に目を背けたくなる幸子。
ゆっくり顔を上げると、そこには変わらぬ、そばかすだらけの自分の顔が鏡に写っていた。
「うわあああぁぁぁ!」
バンッ ドタッ
幸子は叫び声を上げながら、自分の顔が映った鏡を思い切り殴りつけた。そして、その反動でふらふらっと、尻もちをついてしまう。
ガチャッ
「さっちゃん!」
幸子の叫び声と、鏡を殴りつけた音に気付いた澄子が、洗面所に駆け付けた。
「大丈夫、さっちゃん!」
はぁ、はぁ、と浅く短い呼吸をしながら、何度も頷く幸子。
ホワイトデーが近づくにつれ、幸子はどんどんおかしくなっていった。
幸い<声>がぶり返したりするようなことはなかったものの、駿から想いを告げられる喜ばしいはずのホワイトデーは、大きなプレッシャーになり、幸子の心のキャパシティを完全に超えてしまっている状態だ。
そして、それは澄子も気がついていた。
「さっちゃん、今日は学校休もうか……」
不安そうな表情で澄子を見つめる幸子。
「高橋(駿)くんには、お母さんからちゃんと説明しておくから、ね?」
しかし、幸子は首を横に振った。
「だって、さっちゃん……夜中に何度もトイレ行って、何度も吐いてたでしょ? 今は、心を休めるべきなんじゃない……?」
「大丈夫だよ、お母さん……大丈夫……」
澄子を安心させようと、必死で笑顔を見せる幸子。
自分の想いを受け取ったくれた駿を、裏切るようなことはしなくないのだ。
ここで逃げ出したら、一年前からまったく成長していないことになってしまう。そんな情けない姿を、駿にはどうしても見せたくない。
しかし、そんな思いがありながらも、駿の想いに応えられるかは、精神状態が不安定な幸子自身、分からなかった。
こんな気持ち悪い自分にいつも優しくしてくれる駿。
幸子が駿に恋心を抱くようになるのに、時間はかからなかった。
それは決して手の届かない、成就することのない恋のはずだった。
いつしか駿は、こんな自分に優しさだけでなく、好意を向け始めてくれた。
しかし、嬉しいはずのそんな出来事も、自分の顔や身体を見ると、思ってしまう。
(駿くんは好き……でも、私じゃダメだ……駿くんには、もっとふさわしい女の子が……)
心の奥底から滲み出てくる劣等感。
それでも、これまでのように駿と会えば、自分の中で何かが変わるかもしれない。そんな小さな希望を心に、幸子は登校することを決めたのだ。
澄子は、そんな幸子の心の内を理解した。
「うん、わかった……じゃあ、行っておいで」
「うん……!」
「今日のこと、お母さんからは何も言わないし、何も聞かないわね」
「…………」
幸子の頭を優しく撫でる澄子。
「朝ごはん、少しでもいいから、食べていきなさい」
「うん……」
幸子は、澄子と一緒にキッチンへ戻っていった。
――そして
制服姿の幸子が玄関で靴を履いている。
「はい、お弁当」
澄子から弁当を受け取った幸子。
「ありがとう」
弁当をカバンにしまい、玄関を開ける。
ガチャリ
「行ってきます」
「車に気を付けてね」
お互いに手を振り合いながら、玄関がゆっくり閉まっていく。
バタンッ
玄関にひとり残された澄子。
澄子は、ゆっくりと胸の前で手を組んだ。
「私……神様なんて信じてなかった……」
手を組む力が強くなっていく。
「でも、神様、いらっしゃるならお願いします……娘に……幸子に勇気を与えてください……!」
その場で膝から崩れ落ちる澄子。
「幸子が正しい選択をしますように……神様、お願いします……!」
娘を思う母親の切なる祈りは、はたして天に届くのか。
◇ ◇ ◇
学校へ向かって、うつむき加減で歩いていく幸子。
今朝の花壇の水やりは、幸子ひとりだけの予定。
事前に、今日は行けないと駿から言われていたのだ。
(駿くん……私、どうしたらいいの……)
期待と不安が入り混じった複雑な心境のまま、幸子はゆっくりと学校へ向かっていった。
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