第157話 バレンタインデー (5)
――母親・澄子が運転する車での車中
助手席に座っている幸子が口を開く。
「お母さん、迎えに来てもらっちゃって、ゴメンね……」
「ううん、転んだって聞いたけど、怪我とかなくて良かったわ」
「洋服も汚しちゃって……」
後部座席には、泥で汚れた衣類の入った紙袋が置かれていた。
「全部クリーニング出しちゃうから大丈夫よ」
「ごめんなさい……」
うなだれる幸子。
「そんなこと気にしないの! それより……随分ステキなジャージじゃない?」
「えっ……これ学校指定のジャージだよ?」
「だーれのーかなー? うふふふ」
澄子は、からかうように笑った。
顔が真っ赤になる幸子。
「災い転じて福となす、ってね」
「お、お母さん……!」
「うふふふっ。それで、チョコは高橋(駿)くんに渡せた?」
「うん……」
「どうだった?」
「うん、受け取ってもらえたよ……」
「喜んでもらえた?」
「うん……」
「良かったじゃない! 勇気出した甲斐があったわね!」
澄子は、今回の結果に大喜びした。
しかし、幸子の表情はどこか浮かない。
「さっちゃん、何かあったの……? 高橋くんとケンカしちゃった?」
「ううん、仲良しだよ」
「何だか元気が無いみたいだけど……どうしたの?」
悔しいような、苦しいような、そんな表情を浮かべる幸子。
「お母さん……」
「うん、何でも言って頂戴」
澄子は笑顔で答えたが、幸子は押し黙ってしまった。
エンジン音が響く車内。
「私でいいのかな……」
「ん? それはどういう意味かしら?」
「駿くんね、チョコ、すごく喜んでくれたの……」
「うん、さっちゃん、一生懸命作ったもんね」
「私の気持ちも受け止めてくれた……」
「うん、うん、良かったじゃない」
「ホワイトデーに……自分の気持ちを伝えるからって……」
「えーっ! 最高の答えじゃないの! ホワイトデーが待ち遠しいわね!」
しかし、喜ぶ澄子とは真逆に、うつむいてしまう幸子。
「でも、私じゃダメだと思う……」
「えっ……それはどういう意味……?」
「駿くん、カッコ良くて、頼もしくて、優しくて……」
「そんな高橋くんが恋人になるかもしれないのよ?」
「でも、駿くんの隣にふさわしいのは、亜由美さんやキララさんたちだと思う……」
「え……だ、だって、幸子、頑張ってチョコ作ったじゃない。気持ちも伝えたんでしょ? 受け止めてくれたんでしょ? ホワイトデーに自分の気持ちを伝えたいって、高橋くん、そう言ってたんでしょ? それなのになんで、そんな……」
幸子の言葉にショックを隠しきれない澄子。
幸子は、うつむいたままだ。
パチッ カッチッ カッチッ カッチッ カッチッ
ハザードを点けて、車を路肩に止める澄子。
「少しお母さんとお話ししようか……」
カッチッ カッチッ カッチッ カッチッ カッチッ
車の中は、エンジンのアイドリング音と、ハザードの点滅音だけが聞こえる。
「ねぇ、幸子。お母さんね、お正月に高橋くんが来た時、幸子のことをふたりだけでお話ししたの」
「…………」
「高橋くん、今の幸子と同じようなこと言ってた」
「え……」
「自分には、幸子とお付き合いする資格はないって」
「…………」
「不能の自分なんかじゃ幸子を悲しませることになるって」
「…………」
「高橋くん、泣いてたわ……」
「駿くんが……」
「でも、高橋くんは幸子と心を重ね合わせて、治療を受ける決心をしたわよね? 実際、病院にもちゃんと行ってるし……それはどうしてだと思う?」
「…………」
「幸子と恋人同士になりたいからじゃないの?」
「私じゃ……」
「高橋くん、言ってたよね。幸子と身体を重ね合わせたいって」
「…………」
「心を重ね合わせることができたんだもの。身体だって、きっと重ね合わせることができる。高橋くんにとってその相手は、幸子、あなたしかいないんじゃない?」
「でも……駿くんだって身体が治れば……きっと目が覚める……」
「目が覚める?」
「わざわざ私じゃなくても、もっと魅力的な女の子がたくさんいるもの……」
「!」
自分の娘のあまりに自虐的な言葉に、強烈な衝撃を受けた澄子。
「好き好んで、こんな気持ち悪い女を彼女にしたいとは思わないよ……」
「それは、高橋くんがそういう風に考えると、そう思ってるの……?」
「駿くんだって男の子だよ……駿くんが目を覚ます時が、私が夢から覚めなきゃいけない時だと思う……」
バンッ
澄子は、ハンドルを思い切り叩いた。
ビクッとする幸子。
「幸子! あなた、本気で言ってるの⁉」
澄子は、幸子に向かって絶叫した。
「あなた、自分で何言ってるか分かってる⁉」
澄子の叫びに、うなだれる幸子。
「あなたと高橋くんとが培ったこれまでの大切な時間が、すべて夢だというの⁉ 高橋くんのあなたへの想いが、すべて偽物だというの⁉」
「うぅ……」
「あなたは今、『私は高橋くんを信用できません』って、そう言ってるのよ! 分かってるの⁉」
「う……うぅ……あぁぁぅぅ……」
幸子は、両手で目を覆い、小さく嗚咽を漏らした。
「わ、私……駿くんが好き……彼女になれるなら、し、死んでもいい……でも……でも、駿くんに後悔してほしくない! なんでこんな女を選んじゃったんだって、後悔してほしくない!」
「幸子……」
「駿くんから求められて嬉しいのに……心の中は不安がいっぱいでどうしようもなくて……もう頭の中がぐちゃぐちゃだよ……どうしたらいいのか分からないよ……お母さん、私はどうすればいいの……」
目を覆い隠した手の隙間から、涙が溢れ流れる。
幸子の心は限界を迎えようとしていた。
自分の想いを受け止めてくれて、あれだけ明確な好意を駿から向けられても、幸子の心の奥底にある『モノ』を抑えることはできなかったのだ。
自分から想いを伝えられても、相手から好意を向けられると、ものすごく嬉しいのに、同時に凄まじい不安感が襲ってくる。
その原因は『劣等感』にあった。
想いを伝えるのは自分で、自分のコントロール下であるため、劣等感をある程度抑え込むことができる。
しかし、好意を向けてくるのは駿であり、他人であるため、当然自分のコントロール外の存在である。
結果、駿の好意を『劣等感』というフィルターを通して飲み込もうとするため、ただでさえ相手を思いやる利他的な傾向の強い幸子は、その好意を飲み込みきれず、どう処理したら良いのか分からず、それが凄まじい不安感を生じさせているのだ。
そして、その劣等感を生み出しているのは、幸子の『辛い過去』である。
『過去』から逃れたかった。
でも、逃げ切れなかった。
『過去』を拭いたかった。
でも、拭い去れなかった。
駿たちとの触れ合いの中で『辛い過去』は、心の奥底に追いやったはずだった。
しかし、それは『辛い過去』が消えたわけではない。その心の奥底で『辛い過去』は、今でも『劣等感』を滲み出し続けているのだ。
幸子の心に、そんな『辛い過去』を受け入れる余裕は無く、『辛い過去』はまるでがん細胞のように心の奥底に黒く染み付いてしまっていた。
<声>が聞こえなくなっても、駿がいくら可愛いと言ってくれても、自分の顔や身体を見る度に、嫌でも染み付いた『辛い過去』から『劣等感』が次々に滲み出てくるのだ。
それは、ある種の猛烈なストレスである。
その猛烈なストレスに、幸子の心は悲鳴を上げていた。
これまでの駿との付き合いを考えれば、駿から好意を向けられればただ単純に喜び、恋人になることを目指せばいいのだが、身体中のそばかすと『辛い過去』が『劣等感』を呼び覚まし、それを許さないのだ。
駿から自分を求められ、強く抱き締め合っても、それが変わることはなかった。
「幸子。お母さん、厳しい言い方をするわね」
身体を震わせながら涙を流す幸子に、澄子は語りかけた。
「これは、お母さんではどうしようもないし、お母さんが幸子に『こうしなさい』と言うことはできないの」
幸子は、ゆっくりと顔を上げ、澄子を見つめる。
「あなた自身が決めなさい」
幸子の両肩を持った澄子。
「いい、幸子。ホワイトデーまで時間は少ないけど、よく考えなさい。そして、あなた自身が決めなさい」
うなずく幸子。
「それから、ふたつだけ、お母さんからの最後のアドバイス」
幸子は、澄子を涙に濡れた目で見つめた。
「幸子がここでどんな判断をするのか……幸子の人生において、最大のターニングポイントになるわ。ここでの判断は、きっと幸子の今後の人生を大きく左右することになる」
軽く身震いする幸子。
「あなたの人生よ。そして、その人生に『もしもこうだったら』は無いわ。時間は巻き戻せないの。覚えておきなさい」
幸子は、不安そうな表情で頷いた。
「それから、高橋くんの想いを疑ったらダメよ」
「!」
澄子の言葉に驚いた幸子。
クリスマスにキララから言われた言葉と、まったく同じだったのだ。
「お母さんは、これ以上のことは言わない。あとは自分で考えなさい」
澄子は、今までに無いくらい厳しい視線を幸子に向けた。
「幸子自身が後悔しないようにね……」
「お母さん……」
厳しい表情を解き、優しく微笑みながら幸子の頭を撫でる澄子。
「おうちに帰ろうか」
「うん」
パチッ カッチッ カッチッ カッチッ
バザードを消し、ウインカーをつけて、車が走り出した。
澄子は祈る。
幸子が後悔だらけの人生を歩みませんように、と。
今、自分の判断で進むべき正しい道を見い出せなければ、ここから先の人生、幸子は下を向いて歩むことになる……澄子はそう思ったのだ。
だから、あえて突き放した。
母親としてできるアドバイスはした。その上で、幸子がどんな判断を下すのか。
澄子の心は、幸子以上に不安でいっぱいだった。
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