第156話 バレンタインデー (4)

 病気が理由でバレンタインデーにチョコを駿に贈れなかった幸子。

 それでも手作りのチョコを作り、駿に贈ることを決意。


 そして日を改め、チョコを携えて駿の部屋へ向かったのだが、途中で人とぶつかって転倒。雪解けでドロドロの水たまりに突っ込み、泥だらけになってしまう。

 そんな幸子を優しく部屋に受け入れた駿だったが、幸子の作ったチョコが入った純白のギフトバッグは、泥にまみれていた。


 『幸子のバレンタインデー』は、終わってしまったのだ。


 ――駿の部屋


 幸子の視線が、床に置かれていたギフトバッグに向かう。

 純白だったギフトバックは、泥で汚れ、誰が見ても汚らしかった。

 そのまま視線を落とし、悔しそうな表情を浮かべる幸子。


「さっちゃん」

「はい……」

「さっちゃんは、オレへ贈るために、チョコを持ってきてくれたんだよね?」

「はい……」

「じゃあ、オレ、さっちゃんから直接もらいたいな!」


 明るく振る舞った駿。


「でも、泥水に落としてしまって……あんな汚いもの、駿くんには……」


 幸子はギュッと目をつぶり、あまりの悔しさに歯を食いしばる。

 しかし、駿は言った。


「どこに汚いものがあるの? どれ?」

「えっ?」


 目を開け、ギフトバッグを見た幸子。

 そこには、泥が乾き、土がこびりついたシミだらけのギフトバッグしかない。


「その泥まみれの紙袋です……」

「ん? この白いギフトバッグのこと?」


 ギフトバッグは泥水が染み込み、白いところなどどこにもない有様だ。


「いえ、あの、その汚い紙袋……」

「汚い紙袋なんてどこにあるの?」


 キョロキョロと、何かを探すような仕草をする駿。


「駿くん……」

「オレ、さっちゃんから直接チョコ欲しいな!」


 駿がギフトバッグを持ち上げると、乾いた泥が土となってポロポロと床に落ちた。

 それを受け取る幸子。

 そして、自分に向かって優しく微笑んでいる駿が目の前にいた。


 『幸子のバレンタインデー』は、まだ終わっていなかったのだ。


 幸子は、駿の暖かい気遣いに涙が止まらず、顔を上げることができなかった。

 小さく嗚咽を漏らしながら、身体を震わせる幸子。


「さっちゃんのタイミングでいいからね、慌てないでいいよ」


 幸子は泣きながら、汚れたギフトバッグを大事そうに抱えていた。

 涙をポロポロこぼしながら、顔を上げる幸子。


「駿ぐん!」


 駿は、笑顔で迎える。

 震える両手で汚れたギフトバッグを駿に差し出した幸子。


「わだじのぎもぢです! うげどっでぐだざい!」


 泣きじゃくりながら、自分の精一杯の勇気で思いの丈を叫んだ。

 駿は笑顔のまま、そんな幸子の手を両手で包むようにして優しく握った。


「さっちゃんの気持ち、確かに受け取りました。ありがとう、さっちゃん」


 涙をこぼしながら、嬉しそうな笑顔を浮かべる幸子。

 駿はギフトバッグを受け取り、幸子にハンカチを渡した。


「ほら、またウサギさんになっちゃうぞ」


 渡されたハンカチで涙を拭う幸子。


「だって……だって……駿くん、優しすぎるよ……」

「下心ありありだけどね」


 駿は、ウッシッシと笑った。


「さっちゃん、開けていいかい?」

「グスン……はい……壊れてなければいいのですが……」


 不安気な表情になる幸子。

 駿は、ギフトバッグの中に入っていたピンク色の包装に赤いリボンで可愛くラッピングされた箱を取り出した。泥水がバッグに中にも入ってしまったのか、包装紙とリボンには、汚れたシミがついてしまっている。

 そんなシミをまったく気にしないかのように、ウキウキでリボンを解き、ラッピングを開いた。


(お願い……壊れていませんように……)


 幸子は、小さく祈る。

 小さなテーブルの上で、箱を開けた駿。

 緩衝シートで厳重にガードされている。

 駿は、チョコの上に乗った緩衝シートを取り除いた。


「あっ……」


 緩衝シートに包まれた大きなハートのチョコレートは、割れてしまっていた。


 思わず手が伸びる幸子。

 割れてしまったチョコレートをくっつけた。

 元に戻らないのは分かっている。それでも、動かずにはいられなかったのだ。

 幸子が手を離すと、ハートのチョコレートは、また割れてしまう。


「オチがついちゃいましたね……ははは」


 力なく笑った幸子。


「私、何やってもダメなんです……大事な時なのに……ちゃんとしなきゃいけないのに……こうやって失敗しちゃうんです……笑っちゃいますよね……」


 幸子は、困ったような、諦めたような、そんな寂しい笑顔を駿に向ける。


 チョコの入った箱を手に立ち上がった駿。


「さっちゃん。このチョコ、くっつけてあげるよ」

「そんなことできるんですか……?」

「おいで、さっちゃん」


 キッチンに向かう駿を、幸子が追いかけていく。


 駿は、鍋で水を加熱し始めた。

 その鍋に、金属のボウルを浮かべる。


「こんなもんかな……」


 ボウルの中にチョコレートを入れた駿。


「湯煎……?」

「うん、湯煎にかけると、ほら」


 ゆっくりと溶けていくチョコレートを、ヘラでかき混ぜていく。


「ほら、さっちゃん、くっついたよ」


 ふたつに割れたチョコレートは、溶け合ってひとつになった。


「ハート型じゃなくなっちゃったけどね」


 たははっと笑う駿。


「でも、ふたつをひとつに戻すことはできましたね!」


 幸子も笑っている。

 駿は、チョコレートをかき混ぜ続ける。


「さっちゃん」

「はい」

「オレたち、これから先、きっとケンカしたり、仲違いすることもあると思うんだ」

「…………」


 駿の言葉に理解を示しながらも、寂しげな表情になった幸子。


「それはきっと、さっきのチョコレートみたいな状態なんだと思う」

「はい……」

「くっつけようとしても、くっつかなかったよね」

「…………」

「でもさ、見方を変えれば、こうやってまたひとつになることができる」

「はい」

「さっちゃん、この間知ったよね。オレたちは、心を重ね合わせることができるって」

「はい、とても心地良かったです……」

「うん、そうだったよね。ああやって、心を重ね合わせることができれば、きっと、その先にある気持ちだって溶け合わせることができると思うんだ」

「このチョコレートのように……」


 駿は、微笑みながら頷く。


「人の気持ちって、分かるようで分からないものだから中々難しいとは思うんだけど、ケンカしても必ず仲直りして、もっと気持ちを溶け合わせるきっかけにしていく……」

「甘いだけではない関係ですね」

「うん。甘いも、辛いも、オレたちなら糧にしていける……さっちゃんとはそんな関係になりたいって、そう思ってる」


 微笑み合ったふたり。


「さっちゃん、一緒にホットチョコレートを飲まないかい?」

「私も頂いちゃっていいんですか……?」

「あれ~、一緒に飲んでくれるサービスは無いんですかぁ……?」


 幸子の顔を覗き込む駿。


「あります!」


 幸子は、満面の笑みを浮かべた。


「OK! じゃあ、牛乳とマドラー、あとマグカップは……一個しかないから、これはさっちゃん、っと」


 準備を進めていく駿。


「駿くんは、コップあるんですか……? 私、紙コップとかでも……」

「ダメダメ! さっちゃんは、このマグカップ! で、オレは……どうすっかな……あっ!」


 駿は、ユニットバスの洗面所においてある歯磨き用のコップを思い出した。


「あのコップならOKだろ」


 おもむろにユニットバスのドアを開ける駿。


 ガチャッ


「あっ……」


 幸子は、焦った。

 ユニットバスの中で下着を干していたのだ。


「んあ?」


 シャワーカーテンの棒にぶら下がっているブラジャーが目に入る駿。

 そして、ドアを開けた風圧で舞ったのであろう、ひらひらっと落ちてきた布切れをキャッチ。


「!」


 それは幸子のショーツだった。

 慌ててシャワーカーテンの棒に干し直す駿。


 バタンッ


「さ、さ、さ、さっちゃん!」

「は、はい!」

「先に言わなきゃダメでしょ!」


 駿は、顔を真っ赤にしていた。


「ご、ごめんなさい……変なものお見せして……」

「いや、オレ的にはすげぇラッキー……って、何言わせるの!」

「ぷっ! あはははははは!」

「コラッ、笑ってる場合か!」


 何だかんだと、仲良く笑い合うふたりであった。


 ◇ ◇ ◇


 駿の部屋の中に、チョコレートの甘い香りが漂っている。


「はぁ~……さっちゃんのチョコ、美味しかった……」


 歯磨き用のコップをテーブルに置いた駿。


「ホントですか⁉ すごく嬉しいです!」


 幸子は大喜びしている。


「じゃあ、これ片付けちゃいますね」


 自分が使ったマグカップと、駿の使った歯磨き用のコップを手にした幸子。


「いいよ、いいよ、さっちゃん。オレが後で片付けるから」

「これくらいは、私にさせてください」


 幸子は、駿にニッコリ笑って、そのままキッチンに向かった。

 キッチンから洗い物をする音が聞こえる。


「じゃあ、オレはその合間に……っと」


 スマートフォンを操作する駿。


 幸子が戻ってきた。


「さっちゃん、ありがとね」

「お風呂まで用意していただいたんですから、これくらいは」

「あとね、今、澄子さんに連絡したら、車で迎えに来てくれるって」

「お母さんにも迷惑かけちゃったなぁ……」

「世話が焼けて、逆に嬉しいかもよ」

「ふふふっ、お母さんならホントにそう言いかねないです」


 笑い合うふたり。


「駿くん……」

「ん?」

「ふたりきりの時間も、もうすぐ終わっちゃいますね……」

「そういうこと言われちゃうと、意識しちゃうんだけど……」


 駿は苦笑いした。


「というか、自分の部屋で可愛い女の子とふたりきりなんて、オレ初めてだよ……」

「そうやって、まだ私のことを可愛いって、言ってくれるんですね……」

「オレの本音だよ」


 幸子がふと駿を見ると、顔を赤くして頭をかいている。


「駿くん、さっき『下心ありあり』なんておっしゃってましたけど……」

「あー……それもオレの本音です。気持ちは変わってないってこと」


 たははっと笑った駿。


「その下心……ずっと持っててくださいね……」

「それは……」

「私だって……そういうことに興味ありますよ……」

「さっちゃん……」


 幸子は、にっこり笑う。


 どうしようもない劣情が、駿の心を支配していった。

 理性を総動員させて、それを必死で抑え込む。


「ゴメン、さっちゃん……お願いがあるんだ……」

「はい、何でもおっしゃってください」


 思わずうつむいた駿。


「抱きしめて、いいかい……?」


 幸子からの返事はない。

 幸子が立ち上がったのは、気配で感じた。


(あー……欲望に負けちまった……さっちゃん、さすがに呆れてるだろうな……)


 恐る恐る幸子に目を向ける駿。

 そこには、優しい微笑みを浮かべて、駿に両手を広げる幸子が立っていた。


「私で良ければ……」


 駿も立ち上がり、優しく包み込むように幸子を抱きしめる。


「さっちゃん……ありがとう……」

「駿くんが、私を求めてくれるなんて……こんなに嬉しいことはありません……」

「さっちゃん……」

「はい……」

「今度は、オレが勇気を出す番だ……オレの気持ち、ホワイトデーに伝えたい……」

「はい……」

「もう少しだけ待っていてくれるかい……?」

「もちろんです……ずっと……ずっと、お待ちしています……」


 お互いの抱きしめる力が強まっていった。


「まるで夢のようです……とても……とても心地いいです……」

「オレもだよ、さっちゃん……」


 部屋の中は、ふたりだけの世界。

 身体と身体の隙間を少しでも無くすかのように、ふたりは強く抱きしめ合った。


 < * * * * * * * >


 心の奥底に疼きを感じる幸子。


(またあの感覚……やっぱり恋心なのかな……不思議な感覚……)


 ポコン


 駿のスマートフォンにLIMEのメッセージが届いた。


「澄子さん、もうすぐ着くって」


 駿から身体を離す幸子。


「駿くん……」

「うん、どしたの?」

「私を……こんな私を抱きしめてくれて、ありがとう……」


 駿は、どこか寂しげな幸子を、もう一度抱き寄せた。


「何度だって、抱きしめるよ……さっちゃん……」

「駿くん……」


 ぴんぽーん


 呼び鈴が鳴る。


 身体を離したふたりは、優しく微笑みあった。


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