第25話 夏祭り (2)

 駿と一緒にやってきた夏祭り。

 駿が離れたすきに、一組の男女が幸子の元へやってくる。


 忘れようとした過去、忘れたかった記憶。

 鮮明に蘇っていく小学生時代の悪夢。


(彼は、あの頃、私をイジメていた……)


「林くん……?」


 幸子の前に女性と立っていたのは、小学生の頃、執拗に罵声を浴びせ、幸子をイジメていたはやし将吾しょうごだった。

 林が、引きつったような笑顔を浮かべながら幸子に近づいてくる。


「ひ、久しぶりだね」


 血の気が引いた幸子。


「…………」


 言葉が出ず、身体が震え、胃の中のものがこみ上げてくる。


「さっちゃん、お待たせ! ……あれ? 知り合い?」


 駿がラムネを二本持って帰ってきた。

 林が幸子に手を伸ばそうとする。

 林が自分に掴みかかってくる、幸子にはそう見えた。


「あああああっ!」


 幸子は急に大声を上げて、ベンチから立ち上がり、そのまま本殿の方へと走っていく。


 ガシャン ガシャン


 駿の手からラムネが落ちた。


「さっちゃん⁉」


 驚く駿。


「てめぇ、彼女に何した!」


 駿は、林に向かって叫んだ。

 そんな駿の目に、走り去っていく幸子の姿が映る。


(このままじゃ見失う……!)


「ちっ!」


 駿は林に舌打ちして、ベンチに置いたままの幸子の巾着を持ち、幸子を追い掛けた。


「さっちゃん!」


 参道の人混みの中を走る駿。

 途中、鼻緒の切れた幸子の下駄が転がっていた。

 駿はそれを拾い上げ、幸子が走っていった本殿の裏手へと向かう。

 参道の喧騒から離れ、本殿の裏手は薄暗く、人気も無い。


「さっちゃん、どこ! 返事して!」


 きょろきょろと幸子を探す駿。


 びちゃびちゃ びちゃびちゃびちゃ


 地面に液体をこぼしたような音がする。

 駿が音のした方を見ると、木の陰から幸子の浴衣が見えた。


「さっちゃん!」


 駿が駆け寄る。

 幸子は、木に片手をつきながら嘔吐していた。


「さっちゃん、大丈夫⁉」


 びちゃびちゃびちゃびちゃ びちゃびちゃびちゃ


 幸子の背中をさする駿。着ていたネルシャツを脱いで、幸子の肩にかけた。

 胃の中のものをあらかた戻してしまったからなのか、呼吸は荒いものの、少し落ち着きを見せる幸子。

 涙と鼻水とよだれで汚れた幸子の顔を、駿が自分のハンカチで優しく拭った。


「や、山田さん……」


 先程の男女、林とその連れの女がやってくる。

 幸子はビクリと大きく身体を揺らし、駿に震えながらしがみついた。

 そして、しがみつく幸子を後ろに隠すように立つ駿。


「何だ、てめぇら! 彼女に何した!」


 林の連れている紺色の浴衣を着た女が一歩前に出た。


「私、宇都宮うつのみや好香このかと申します。彼は林将吾。そこにいらっしゃる山田さんとお話を――」

「彼女怯えてんじゃねぇか! 話なんかねぇ! 失せろ!」


 声を荒げる駿。

 好香は、なぜか履いている下駄を脱ぎ、それを手に持つ。まるで下駄を武器にしようとしているようだ。


「彼女泣かすヤツは、相手が女でも容赦しねぇぜ」


 半歩前に出る駿。


「ふたり一緒に来るか? オレは構わねぇぞ」


 鋭い目つきで好香と林を睨みつけた駿。

 林の方は、どこかビクビクしている。

 好香が微笑んだ。


「アナタ、何か勘違いしてるわ」

「はぁ?」

「私が殴ろうとしているのはね……コイツよ!」


 ゴッ


 好香が林の顔面を下駄で殴りつける。


「!」


 驚いた駿。

 駿の後ろで震えていた幸子も、その異常な光景に呆気にとられている。


「ううぅ……」


 殴られた頬のあたりを押さえながら呻く林。


「いつまで突っ立ってんの!」


 林は、好香の怒号に慌てて地面に正座した。

 正座する林を裸足で蹴飛ばす好香。


「早く山田さんに謝りなさい!」


 林は、額を地面につけて土下座した。


「や、山田さん、わた、私は、あなたに、酷い、心を深く傷つける、イ、イジメをしました……本当に、本当に申し訳ございませんでした!」


 涙声の林。

 好香が駿の方を向く。


「あなた……」

「高橋と言います」

「高橋くんね」


 土下座する林に向き直した好香。


「ほら、高橋くんに、あなたが山田さんに何をしたのか、詳しく説明しなさい」


 好香に顔を向ける林。


「早く!」


 好香の怒号が飛ぶ。

 林は、改めて額を地面につける。


「私は、小学生の時、山田さんのか、顔の、そ、そばかすをひやかし、『気持ち悪い』、『ボツボツ女』と囃し立て、や、『山田菌が感染る』と、山田さんの人格を踏みにじる暴言を連日吐いていました……本当に申し訳ございません! 許してください! 許してください!」


 涙声で叫んだ林。

 蘇る記憶に、目をぎゅっと閉じ、駿にしがみつく力が強くなる幸子。


「山田さん……」


 好香が幸子に優しく語りかけた。

 目を開き、好香と目を合わせる幸子。


「山田さんの気持ち、私も分かるわ……私も同じなの……」


 前髪をかき上げた好香。好香の額には、横一線の大きな傷跡があった。


「子供の頃、大きな怪我して、こんな傷が残っちゃったの……私も小学生の頃、随分イジメられたわ……」


 うつむく好香。


「人の心は弱いわ……そうね、例えば……『ブス』、たった二文字の言葉で、人の心はかんたんに折れる。言った方は『イジメるつもりはなかった』『ふざけていただけ』『冗談だった』……みんなそう言うわ……」


 好香は顔を上げ、駿を見つめた。


「でもね……そんなたった二文字の言葉を言われた方は、自分の価値を見失ってしまうの……自分の価値を見失うってことは……自分の存在に……自分の命に意味を見出だせなくなるのと同じことなの……」


 息を呑む駿。


「イジメというと殴る蹴るの暴力を連想するけど、言葉の暴力は時に殴られるよりも深い、そして消えない傷を心に負わすわ……先程の様子を見ると、山田さんも……」


 幸子は、駿の後ろでうつむいてしまった。


「だからね、山田さん、高橋くん」


 土下座したままの林に目をやる好香。


「コイツ、好きにしていいわ。殴るなり、蹴るなりね」


 驚いた駿と幸子。


「なんだったら、殺してもいいわ。そうよね」


 林は、土下座したまま頷く。

 震えている林。


「ちょ、ちょっと待て!」


 慌てる駿の言葉を、好香が遮った。


「私は誰にも言わないから、安心してちょうだい」


 冷たい笑みを浮かべる好香。


「いや、そうじゃなくて、コイツはアンタの彼氏とかじゃねぇのか?」


 駿は、林を見下ろした。


「そうよ、将吾は私の彼氏よ。私は彼を好きだし、愛してるわ……こんな傷モノの女と付き合ってくれてるんだもの」

「じゃあ、何でそんな……」

「それとこれとは話が別。私は彼が山田さんにやったことが許せない!」


 言葉を強める好香が続ける。


「彼と付き合いはじめて二年位かしら……その間、私は彼に罰を与え、彼も真摯に反省したと思うわ。そして、今日、この時が裁きの時なの」


 幸子を真剣な眼差しで見つめた好香。


「判決を下すのは、山田さん、あなたよ」


 幸子は目を見開く。


「どんな判決を下すのも山田さん次第……ずるいかもしれないけど、決着をつけるにはこれしかないの」


 土下座する林に目を向けた幸子。

 小学生時代の悪夢が蘇る。


 <声>が聞こえるようになったのは、小学生時代の林からのイジメがきっかけだった。幸子への言葉の暴力が、頭の中でリフレインするようになり、いつしか何者でもない声で<声>が聞こえるようになったのだ。そしてそれは、中学生時代に受けた裏切りをきっかけに、さらに悪化の一途を辿るようになったのである。


 幸子はいつしか、土下座して、頭を下げたままの林を睨みつけていた。

 駿から手を放し、駿の横に裸足のまま立ち並ぶ幸子。


(さっちゃん……)


 駿は、幸子を心配そうに見つめていた。


 幸子が口を開く。


「私は……小学生の頃、彼にイジメられていました……その傷は、今でも心に深く残ったままです……」


 うつむく幸子。


「私は……私は、彼を――――」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る