第135話 正月 (9)

 ――一月三日 朝 幸子の家の居間


「澄子さん、申し訳ございませんでした!」


 テーブルに擦り付けるかのように頭を下げる駿。


「お母さん、違うの、私が駿くんに無理を聞いてもらったの、駿くんは悪くないの」


 焦りながら澄子にすがった幸子。


「いえ、自分が毅然とした態度を取るべきでした。幸子さんは悪くありません。本当に申し訳ございません!」

「うーん……」


 澄子は困ったような態度をとっている。


 昨夜、駿と幸子は布団を並べ、手をつなぎながら眠りについた。

 今朝、澄子がそれを目撃し、駿に指摘したところ、現在のような状況になったのだ。


「高橋くん、頭を上げてちょうだい。幸子も座って」


 頭を上げる駿。

 幸子も、駿の隣に座った。


「幸子。あなたは、私の信用をひとつ失ったわ」

「えっ……」

「高橋くんの部屋にある布団、あれは高橋くんが持ってきたの?」

「いいえ……私です……」

「そうよね。お母さんが下にいたとはいえ、親の目を盗んで、深夜に男の子の部屋に行ったということよね?」


 澄子の言葉に焦る駿。


「澄子さん、申し訳ございません。それを許した自分の責任です。ですので――」

「今、幸子と話をしてるから。ごめんね、高橋くん」


 駿は、澄子の笑みに引き下がらざる得なかった。


「どうなの、幸子?」

「はい……お母さんの言う通りです……」


 うなだれる幸子。


「深夜にあなた位の年頃の女の子が、ひとりで男の子の部屋に行くっていうことがどういうことか分かってる?」

「…………」

「幸子と高橋くんが、何かそういうことをしているって、勘ぐられてもおかしくないわね?」

「そ、そんなこと……!」

「そんなことない?」


 幸子は、反論する言葉が出てこない。


「いえ……勘ぐられても、おかしくありません……」

「今、お母さんが冷静でいられるのは、相手が高橋くんだからなの。高橋くんは、責任の重さをちゃんと理解してるから」

「最初、駿くんにもダメだって言われました……それに……」

「さっちゃん!」


 駿の声に、口をつぐむ幸子。


「うん……大体わかったわ。幸子」

「はい……」

「あなたは、自分のすべての行動に責任を持ちなさい」

「…………」

「幸子は、もう子どもじゃないわ。お母さんが教えられることは少ない……男の子とお付き合いすることに反対はしないし、その先のことだってお母さんはダメとは言わない……でもね、その行動と結果のすべてに、幸子は自分で責任をもたなければいけないの」

「責任……」

「幸子は、そんな責任をもって行動した?」


 幸子は、首を左右に振った。


「うん、だからお母さん、幸子のことが心配になっちゃうの……」

「軽率でした……お母さん、心配かけて……ごめんなさい……」

「ううん、お母さんもうるさく言ってゴメンね……おいで、さっちゃん」

「うん……!」


 澄子の元へ飛んでいき、抱きしめ合う幸子。

 ふたりとも笑顔だ。


「澄子さん」

「さっきはごめんなさいね、邪険な態度をとってしまって」

「いえ、幸子さんへの深い愛情を感じました」

「また、そんな気を使って、もう」


 優しく微笑む澄子。


「澄子さん、ひとつだけ言ってもいいでしょうか」

「うん、話を聞くわ」

「昨夜、幸子さんが部屋に来たのは、オレを励ますためだったんです……」

「高橋くんを?」

「はい……幸子さん、オレが悩んでいることに気が付いてくれて、オレの悩みを受け止めてくれたんです……」

「そうだったの……」

「オレ、恥ずかしながら泣いちゃって……でも、こんな情けないオレと心を重ね合わせるために、オレの手を握ってくれたんです……」


 駿は、澄子の元にいる幸子と微笑みあった。


「幸子さんの暖かい手と暖かい言葉で、オレ、救われました」

「さっちゃん、高橋くんを支えるんだって、言ってたもんね」

「うん! 今までずっと手を差し伸べてくれてたんだもん。今度は私の番だよ!」


 幸子の頭を嬉しそうに撫でる澄子。

 駿は、意を決したように顔を上げた。


「澄子さん、もうひとつ、ご報告したいことがあります」

「何かしら?」

「オレ、病院で治療を受けることにしました」

「そう……」

「オレ、アソコが勃たないダメ男で……そんな自分が恥ずかしくて、情けなくて……弱虫なオレは、ずっと現実から逃げ回っていました……でも、昨日の夜、幸子さんが言ってくれたんです。オレのそばにいたいのは、オレがオレだからだって……」

「どんな駿くんもステキです!」


 頬を赤らめて、笑顔で話す幸子。

 澄子は、そんな幸子の頭を優しく撫でていた。


「さっちゃん、ありがとう……だから、オレ、自分がダメ男であることを受け入れます」


 澄子の元を離れ、駿の隣に座る幸子。

 そして、駿の手をそっと握った。


「えへへへ……勇気注入です」


 微笑み合う駿と幸子。


「幸子さんからも勇気をいただけているので、治療を頑張りたいと思います!」


 駿は、どこか吹っ切れたような表情をしていた。

 そんな駿に歩み寄る澄子。

 澄子は、駿を自分の胸に抱きしめた。


「男の子にとって辛い決断……よく決断したね……」

「幸子さんがいてくれたからです……」


 駿の背中を被さるように、笑顔で抱きしめる幸子。


「駿くん、気負いしないでいきましょう!」

「さっちゃん……」

「あら、私は?」

「澄子さん……」

「ん?」

「すみません……オレを……オレを……助けてもらえませんか……すみません……」


 駿は、澄子の胸の中でうつむいてしまった。

 そんな駿を強く抱きしめる澄子。


「当たり前じゃないの、何でも言ってちょうだい……」


 幸子も、駿を後ろから強く抱きしめた。


「駿くん、遠慮したらヤダよ……私も、お母さんも、いつだって胸を貸すから……弱音吐くことも、泣くことも、恥ずかしいことじゃないよ……」


 澄子の胸元が、駿の涙で濡れていく。


「澄子さん……さっちゃん……ありがとう……本当にありがとう……」


 自身の不能に深く苦悩していた駿。

 駿は幸子と出会った頃、無意識ながらも幸子の姿に自分を投影していた。幸子の心の弱さが、自分の心の弱さに重なって見えたのだ。

 しかし、駿の優しさや亜由美たちと触れ合っていく中で、幸子は大きく成長し、明るく可愛らしい女の子に生まれ変わっていった。

 その一方で、駿は自身の不能を改善することができず、何も変えられない自分に苛立ちを覚えていた。どれだけ幸子たちのために頑張り、どれだけ彼女たちから好意を向けられても、自身の不能が凄まじい劣等感として駿を支配し続けているため、苦悩から解放されることはなかったのだ。


『さっちゃんは一歩を踏み出したのに、自分は踏み出せない』


 駿は、心の奥底にある幸子たちから置いていかれるような焦燥感をどうしても拭うことができず、静かにゆっくりと心は疲弊していった。


 しかし、この日をきっかけに、心に緊張を強いながら自分を誤魔化し続けてきた駿にも、自分の弱さや劣等感を受け止めてくれる澄子と幸子によって、ようやく心に平穏が訪れ始めた。澄子はすべてを優しく包み込むような母性で駿を癒やし、幸子は自身を犠牲にしてでも尽くそうとする愛情で駿を勇気付けた。


『自分が不能であることを知っても、ふたりは暖かく抱きしめてくれる』


 その結果、絵美里の裏切りに起因した不能という自身の弱さを『隠そう』とするある種のマイナス思考が、澄子と幸子の支えにより、自身の弱さを『克服しよう』と努力するプラス思考へと変わったのだ。この思考の変化は、心への影響、そして身体への影響も大きかった。

 駿が不能という現実を受け入れ、治療の決断を下せたのも、その影響だった。


 この後、しばらく通院を続けることになる駿ではあったが、カウンセリングや医師からのアドバイスを実行することにより、徐々に改善が見えてくるようになるのである。

 この決断は、駿にとって、とても大きな一歩となるのだった。


「高橋くん、幸子、座ってくれる?」


 駿と幸子は、テーブルを挟んで澄子の向かいに座った。


「あのね、私からひとつ提案があるの」

「お母さん、提案って何?」


 澄子は、駿の方へ身体を向き直す。


「高橋くん、これから週末だけでも、ウチへご飯食べに来ない?」

「えっ?」

「金曜の夜、アルバイトが終わったらウチに来て、暖かいご飯食べて、お風呂に浸かって……週末くつろいでいってもらえれば……」

「い、いや、それは……」

「私ね、高橋くんが苦しんでいることって、精神的なものが原因じゃないかなって思うの。だから、ウチで時々心の洗濯しない? 週末にリセットすれば、次の週も頑張れるでしょ?」

「ありがとうございます。でも、そこまで甘えるわけには……」

「うん、だから高橋くんには手伝ってほしいの」

「手伝う?」

「買い物とか、掃除とか……何もしないのは、高橋くんも嫌でしょ?」

「しかし……」

「絶対に来なきゃダメってことはないからね。高橋くんのプライベートを大切にして」


 悩む駿に、幸子が微笑みかけた。


「駿くん、勉強教えてくれませんか? 期末テスト、数学の点数が悪かったので……」

「さっちゃん……」

「幸子もこう言ってるし、どうかしら? 遠慮なんていらないからね」


 澄子も駿に微笑みかけてくれている。

 駿は、うつむき気味に答えた。


「お言葉に甘えて……いいでしょうか?」


 笑顔で頷く澄子。


「高橋くん、私言ったでしょ? 甘えてって」

「やったー!」


 幸子も大喜びした。

 照れくさそうに笑顔を浮かべる駿。


「でも、さっちゃん。色々気をつけないとね」

「なにを?」

「ほら、たまにさっちゃん、お風呂上がりに下着姿でウロウロしてるでしょ?」

「お、お母さん!」


 幸子の顔が真っ赤になった。


「『暑いー』なんて言って、キッチンでアイス食べたりして」

「さっちゃん、気をつけなくていいよ。油断してるさっちゃん、オレ見てみたいなぁ~」


 ニヒヒッと笑う駿。


「駿くんまで! もう、何言ってるんですか!」


 居間に三人の幸せそうな笑い声が響いた。


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