第136話 正月 (10)
――一月三日 昼前
部屋の中で帰り支度をしている駿。
コンコン
「はい」
「澄子です。入ってもいいかしら?」
「はい、大丈夫です」
カチャッ
澄子は部屋に入り、駿の近くに座った。
「澄子さん、色々お気遣いいただいて、本当にありがとうございました」
澄子に頭を下げる駿。
「ゆっくりできたかしら?」
「はい! こんなにゆったりした気持ちになったの、初めてかもしれません」
「うふふっ、良かったわ」
澄子は嬉しそうに笑い、そして、真顔で駿に話し掛けた。
「高橋くん」
「はい」
「幸子のこと、よろしくお願いしますね」
「はい、もちろんです」
笑顔で答える駿。
「昨晩のふたりのこと、ホントはそんなに心配してないの」
「えっ?」
「さっきも言ったけど、高橋くんは責任の重さを理解してるでしょ?」
駿は、少し悩んだような様子を見せた。
「正しく理解できてるかどうかは、正直分かりません……でも、その責任はお互いに持つ必要があると思っています。そうでないと、その場では良くても、必ず幸子さんを悲しませることになります……」
「ふふふっ、そうやって相手を思いやるとても優しい高橋くん、私は好きよ」
そう言って微笑む澄子に、駿は顔を赤くする。
「でも、友達付き合いの経験の浅い幸子は、まだ自分が子どもだと思っている節があって、ちょっと危なっかしくて……」
「確かに、時折そういう面が見え隠れしますね……」
「だから、信用のおける高橋くんに幸子をお願いしたいの……勝手なこと言って、ごめんなさいね」
申し訳なさそうな表情を浮かべた澄子。
「いえ、澄子さんにそこまで言っていただけるのは、オレも嬉しいです」
駿は、嬉しそうに微笑む。
「幸子には、私が経験できなかったことを、たくさん経験してほしいの……」
寂しげな笑みを浮かべた澄子。
「澄子さん……」
「ちょっと重い話しちゃうけど……高橋くん、聞いてくれる……?」
「もちろんです」
澄子は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私、
「そうだったんですか……」
「中学を卒業して……すぐに働きに出て……お見合いで知り合った夫と結婚して……ようやく私にも人並みの幸せが……って思った矢先、結婚直後に、事故で夫を亡くして……どこまで不幸にならなきゃいけないのかって、絶望したわ……でも、奇跡的に私のお腹に生命が宿った……それが幸子……」
「それからは、ずっとおひとりで……」
頷く澄子。
「私みたいな人生を送ってほしくなくて『幸子』って名前にしたの……」
澄子は、寂しそうな顔をしながら、駿を見つめた。
「私、恋愛経験と言えるような恋愛はしていないし……男女の関係も……正直言うとね、ほとんど経験ないの……お腹に生命が宿ったのは、本当に奇跡だったの……だから、幸子には高橋くんみたいな優しい男の子とステキな恋愛をして……親が言っちゃいけないかもしれないけど……恋愛小説のようなステキなその先のことを経験して、恋を楽しんでほしいの……」
「澄子さん……」
「私が経験できなかった女性としての幸せを幸子に……その相手が、高橋くんだったら、私は嬉しいわ」
「澄子さん、お約束します」
「うん」
「幸子さんを泣かすようなことは、絶対にいたしません」
澄子は、目に涙を溜めて微笑む。
「ありがとね。幸子をお願いね」
声を震わせる澄子。
「はい!」
笑顔で力強く頷いた駿。
この時、駿は思った。
さっちゃんは、自分とお母さん(澄子)が支える。
自分は、さっちゃんと澄子さんが支えてくれる。
――じゃあ、澄子さんは?
ずっと歯を食いしばって頑張ってきた澄子さんは誰が支えるんだ?
『助けてください』
さっちゃんが学校から逃げ出して、部屋に閉じこもったあの時。
スマートフォンから聞こえた澄子さんの涙声。
あれは、さっちゃんを救ってほしいという懇願だった。
でも、本当は違うのではないか。
あの『助けてください』は、澄子さん自身の心の叫びなのではないか。
あの時の声が頭の中で何度もリピートする。
「澄子さん」
「はい」
「オレからもひとつ」
「うん、何かしら」
駿は、澄子を自分の胸に抱き寄せた。
「た、高橋くん!」
「生意気なことして、申し訳ございません……でも、見ていられないです……」
「な、なにが?」
「誰にも相談できず、幸子さんのために必死で頑張って、辛い顔ひとつ見せない……今まで、ずっと、ずっと、ずっとひとりで……」
笑顔で答える澄子。
「大丈夫よ。私は大人だもの」
駿は、身体を離し、両手で澄子の両肩を掴んだ。
そして、澄子の目を見つめる。
昨夜、幸子から言われた言葉を思い出す駿。
「大丈夫じゃないです。ずっと頑張り続けて……色んなもの、たくさん背負い込んで……澄子さん、いつか壊れてしまいますよ……」
一瞬の静寂。
「でも、私は母親だから……」
うつむいてしまった澄子。
「大人が、親が、弱音吐いたらダメだって、誰が決めたんですか?」
「えっ……」
「オレ、そいつぶん殴ってやりますよ」
「…………」
澄子は言葉が出てこない。
「澄子さんが幸子さんに弱いところを見せたくないのは理解できます」
「幸子には見せられない……」
「じゃあ、オレに見せてください!」
うつむいたままの澄子。
「さっき、オレに自分のこと話してくれましたよね。本当は、もっと吐き出したいことがあるんじゃないんですか? どんなことだっていいです。オレ、いくらでも話聞きます。よく頑張ったねって、大変だったねって、澄子さんを抱きしめます」
澄子の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「澄子さん、オレにもそうしてくれたじゃないですか。オレが不能だと知っても、気持ち悪がったりしないで、オレを抱きしめてくれたじゃないですか」
手を口元にあて、顔を上げられない澄子。
「オレみたいなガキ相手じゃプライドが許さないかもしれないですけど、このままいって、いつか澄子さんの心が折れたり体調を崩したりしたら、一番悲しむのは誰ですか? 一番責任を感じてしまうのは誰ですか?」
「あぅ……うぅ……さ、幸子……」
澄子は、嗚咽混じりに答えた。
「オレ、そんな澄子さんと幸子さんを見たくないです……オレじゃ役不足ですか?」
首を左右に振る澄子。
駿は、そんな澄子を優しく抱き寄せた。
「こんなガキが、生意気なことして申し訳ありません……でも、少しでも澄子さんの心が軽くなれば……」
震える手で駿の背中に手を回した澄子は、ゆっくりと駿の胸に顔をうずめる。
「ごめんなさいね……娘のボーイフレンドにすがっちゃって……母親失格だわ……」
顔は、駿の胸にうずめたままだ。
「澄子さんが母親失格だったら、この世に母親はいませんよ。幸子さんだって、同じ気持ちだと思います。澄子さんは、世界一の母親です」
駿の言葉に、澄子の抱きしめる力が強くなる。
「ずっと……ずっと誰かからそんな言葉を聞きたかった……ありがとう、高橋くん……」
「次の週末は、オレの不能の愚痴を聞いていただきますので」
澄子の頭を優しく撫でながら笑う駿。
「何だか三人で傷の舐め合いをしてるみたいね……」
澄子は、駿の胸の中で、駿に向かって苦笑いした。
「いいじゃないですか。傷だって、お互いに舐め合えば治るのも早いですよ」
「そうね、高橋くんの言う通りだわ……高橋くん、ありがとう」
身体を離す澄子。
「何だか恥ずかしいわ……いい年して、娘のボーイフレンドにすがって泣いちゃって……」
「オレも同じです。澄子さんと幸子さんにすがって泣いちゃいましたから」
ふたりは、顔を見合わせて、お互い恥ずかしげに笑った。
「帰り支度していたようだけど、もう帰るのかしら?」
「はい、実は洗濯物を溜めてまして……どうにかしないと、カビが生えそうなので……」
駿は、たははっと頭をかく。
「うん、分かったわ。じゃあ、お土産があるから準備するわね」
「至れり尽くせりですね……澄子さん、本当にありがとうございます」
駿のお礼に笑顔で答え、部屋を出ていく澄子。
パタン
澄子が階段を降りていく音がする。
(さっちゃんにもお礼とさよなら言わないとな……)
コンコン
「はい」
「駿くん、今いい?」
「うん、大丈夫だよ」
カチャッ
部屋に入ってきた幸子は、駿の近くに座った。
「駿くん、くつろげました?」
「うん、さっちゃんにも色々助けてもらっちゃって……本当にありがとう」
笑顔で答える幸子。
「駿くん、お母さんのこと、ありがとう……全部聞こえちゃってた……」
「そっか、隣の部屋にいたんだもんね」
「うん、思いの外、壁が薄いみたいで……」
幸子は、苦笑いした。
「お母さん、ずっとひとりで頑張ってくれてて、私も心配してたんです……でも、私のために頑張ってくれてるから、何て言えばいいか分からなくて……」
「そっか……でもさ、これからはオレも週末にお邪魔させていただくし、お互いにみんなで辛いことや悩みをシェアしていこうよ」
「はい。私も、お母さんも、駿くんに寄りかかっちゃいますので、駿くんも遠慮なく私たちに寄りかかってくださいね」
「わかった、ありがとう、さっちゃん」
お互いに微笑み合うふたり。
「駿くんは、もうお帰りになるんですね……」
「うん、洗濯物を溜めたまんまなんだ」
たははっと笑った駿。
「寂しくなっちゃいますね……」
幸子は、本当に寂しそうだ。
「さっちゃん」
「はい」
「冬休み、まだ何日か残ってるよね」
「そうですね」
「お母さんと一緒にオレの部屋へ遊びに来なよ。いつでも大丈夫だから」
「えっ! いいんですか……?」
「もちろん! 良ければ、また泊まっていきな」
「やった! あとでお母さんと相談しますね!」
大喜びの幸子。
「じゃあ、さっちゃん、オレそろそろ行くね」
「はい……」
「さっちゃん、今年も一年よろしくお願いします」
駿は立ち上がって、幸子に頭を下げた。
「こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします」
同じように、立ち上がって頭を下げる幸子。
ふたりは一緒に部屋を出て、階段を降りていった。
「高橋くん、お土産、お土産!」
キッチンから澄子が紙袋を持って出てきた。
「これは……?」
「さっちゃんお手製のカレーをタッパに詰めておいたから」
ぱぁーっと表情が明るくなる駿。
「マジっすか⁉ すっごい嬉しいです!」
「し、駿くん、おおげさ……」
「おおげさじゃないって! 家でさっちゃんのカレーが食べられるんだぜ!」
幸子は、頬を赤らめた。
「また作りますんで、傷まないうちに食べちゃってくださいね」
「うん、ありがとう!」
靴を履いて、玄関に立つ駿。
「澄子さん、さっちゃん、ありがとうございました。それと、今後ともよろしくお願いいたします」
駿は、頭を深々と下げた。
「じゃあ週末、高橋くんが来るのを楽しみに待ってるわね」
「お母さん、私、バス停までお見送りに行ってくる」
「あ、さっちゃん、寒いからいいよ、ここで。それよりさっきのこと、お母さんに相談してみてね」
「はい!」
カチャン カチャン ガチャリ
「それでは、失礼いたします。さっちゃん、またね」
「高橋くん、気をつけてね」
「駿くん、LIME送りますね」
「ありがとうございます。さっちゃん、了解だよ! それでは」
頭を下げて、玄関の扉を閉める駿。
駿に笑顔で手を振るふたりの姿が、扉で遮られていく。
ガチャン
バス停に向かって、住宅地を歩いて行く駿。
まだ三ヶ日、街は静かだ。
(充実したお正月だったな……初めてだ、こんなお正月……)
そして、駿の心に去来する感情。
(オレにも帰る家が出来た……悩みを打ち明けて、抱きしめてくれる澄子さんとさっちゃんもいる……こんなに嬉しいことはない……)
バス停に着き、ベンチに座った。
交通量もまだ少なく、正月の雰囲気が漂っている。
(今年は良い一年になりそうだな……それから、近いうちにさっちゃんへオレの想いを……)
駿は空気の澄んだ空を眺めながら、幸子への想いを胸に、今年一年に思いを馳せた。
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