第86話 歪んだ悪意 - Tuning (1)

 幸子を階段から突き落とした珠子(委員長)。

 幸子からの条件をのみ、退学や警察沙汰は免れ、停学十日間の懲戒処分を受ける。


 しかし、珠子の心は、幸子たちへの憤怒と憎悪に満ちたままだった。

 そして、停学期間が終わり、登校。

 そこでも珠子は、幸子たちへの憎しみを隠すことをしなかった。


 ――放課後の帰り道


 秋も終わりに近付き、冷たい風が吹いている。

 田園風景の中、無言で並んで歩いている珠子と由紀乃を、夕陽がオレンジ色に染めていた。


 無表情な珠子に、いつもはニコニコしている由紀乃が真顔で話し掛ける。


「ねぇ、珠子。ちょっと話があるの。少しだけ付き合ってくれる?」


 『珠子』という呼び方に、一瞬違和感を感じた珠子。

 由紀乃は、普段『委員長』と呼んでいる。


「いいわよ……」


 違和感を払拭して、由紀乃の後を歩いていった。


 ◇ ◇ ◇


 しばらく歩き、辿り着いたのは、誰もいない夕方の公園だった。

 由紀乃は歩みを止め、振り返る。


「ねぇ、珠子」

「なに……?」

「私、全部知ってるの」

「!」


 驚きの表情になる珠子。

 クラスメイトたちは停学のことは知らず、普通に接してくれていた。だから、知っている人はいないと考えていたのだ。


「珠子。今日、山田(幸子)さんたちのこと、すごい目で睨みつけてたよね」

「…………」

「黙ってたら分からない。睨みつけてたよね」

「…………」


 珠子は、由紀乃から目をそらした。


 パンッ


 珠子の左頬に鋭い痛みが走る。由紀乃が珠子の左頬を張ったのだ。


「痛っ! なにすん――」


 パンッ ズザーッ


 珠子が言い終わるより先に、由紀乃が珠子の右頬を張った。

 そのまま地面に倒れ込む珠子。


「な、な……」


 由紀乃は、混乱する珠子の胸ぐらを掴んだ。


 ドカッ


 珠子を無理矢理立たせ、叩きつけるようにベンチに座らせる。

 由紀乃は、その正面に立った。


「珠子、私から目をそらさないで。目をそらしたら、引っ叩くよ」

「な、何を言って――」


 思わず目をそらす珠子。


 パンッ


 由紀乃が左頬を張った。


「目をそらすなって言ったよね」


 見下すような目で珠子を見る由紀乃。

 珠子は、いつもの心優しい由紀乃から豹変した姿と、その目に恐怖した。


「もう一度聞くわね。睨みつけてたよね」


 震えながら何度も頷く珠子。


「なぜ? なぜ睨んだりするの?」


 珠子はうつむいた。


 パンッ


「私を見ろ。質問に答えろ」

「た、高橋(駿)くんをだ、騙して、私から奪ったから……」


 目に涙を浮かべる珠子。


「高橋くんを騙した?」


 珠子の目が憤怒と憎悪の色に染まっていく。


「そ、そうなの! 由紀乃、聞いて! アイツらは身体を使って、高橋くんをたぶらかしてるの! だから、高橋くんを救い出さないと……!」


 同意を得られると思っているのか、珠子の顔には笑みが浮かんでいた。


「だから、山田さんを……」

「そうよ! 由紀乃だって、ゴキブリが出たら退治するでしょ! 同じことなのよ! アイツがいなければ、高橋くんだってきっと目を覚まして、私の元へ戻ってくるわ!」


 由紀乃から見ても、珠子のその思考は異常だった。


「高橋くんとあの子たちが、そんな関係だとは思えない」

「えっ?」

「高橋くんは、彼女たちを本当に大切にしているもの」

「だから、それは騙されて――」

「それに、どちらかというと、高橋くんが山田さんにアプローチしているように見えるわ。クラスのみんなもそう言って――」

「ウソだ! 絶対にそんなことはない! あんなブスに高橋くんが……!」


 由紀乃の言葉に被せるように、珠子が叫んだ。


「じゃあ、仮に山田さんが高橋くんの元から去ったとしようか」

「それが正しい姿だわ!」

「それで高橋くんが珠子の元に『戻る』っていうのはどういうことなの?」

「だって! 高橋くんの幸せは、私のところにあるから!」


 珠子は、恍惚とした表情を浮かべた。


「ん? それって『戻る』とは違うよね」

「え、なにが?」

「そもそも、高橋くんが珠子のところにいたことがあるの? あなた彼女だったの?」

「そ、それは……」


 言葉に詰まる珠子。


「だったら、山田さんがいなくなったって、高橋くんが珠子のところに『戻る』ことはないよね?」


 当たり前の話に、珠子の視線が落ちた。


 パンッ


「目をそらすなって」


 叩かれた頬を押さえて、怯える珠子。


「それに、高橋くんの周りには魅力的な女の子がたくさんいるわ。キララもそう、ジュリアもそう、ココアもそう……」

「ア、アイツらは、身体を使って高橋くんをたぶらかしているんだ!」


 珠子は由紀乃を睨みつけた。


「アイツらは、金で身体を売るような女だ! 誰にだって股を開く女だ! 高橋くんもそれに騙されたんだ!」


 大きくため息をつく由紀乃。


「誰とでも金で寝るような貞操観念の低い女だったら、噂が広がっても困らないよね。金ヅルが増えるんだもの。違う?」

「…………」


 珠子は、何かを言おうとするが、言葉が出ない。


「高橋くんが噂を払拭したとき、ココアは泣きながらお礼を言っていたわ。あの明るいココアが泣いてたのよ? 身体だけの関係でそんな状況になるかしら?」

「そ、それは……」

「それに中澤(亜由美)だっているわよね。あの子は美人だし、真っすぐでいい子だわ」


 返す言葉が出てこない。


「ねぇ、珠子と高橋くんは、これまで特別仲が良かったわけでもないわよね。それでも高橋くんが珠子の元に『戻る』っていう根拠は何? 根拠はあるの?」

「…………」


 何も言えない珠子。


「根拠があるのか聞いてるの。答えなさい」


 珠子の心の中で、何かにヒビが入った。

 珠子の目から涙がこぼれ、由紀乃から視線がそれる。


 パンッ


「根拠はあるの? 答えろ!」


 嗚咽を止められない珠子。


「うあぁぁぁ……あああぁぁ……」


 珠子は、泣きながら首を横に振った。

 その直後、ハッとする珠子。


「そ、それでも、高橋くんは私を助けてくれたもん! 救ってくれたもん!」


 珠子は、涙でぐちゃぐちゃの顔で由紀乃に訴えた。


「助けてくれた?」


 頷く珠子は、嬉しそうな表情になる。


「た、退学になるところを、高橋くんが救ってくれて……」


 頭を抱えた由紀乃。


「珠子! それは山田さんの意向なの! 高橋くんは関係ないの!」

「そんなわけない!」

「私は全部聞いたの! あなたを救ってくれたのは、あなたが階段から突き落とした山田さんなの! 高橋くんは関係ない! ウソだと思うなら、校長先生に聞いてみろ!」


 珠子は、唖然とした。


 珠子の心のヒビが大きくなっていく。

 すべては思い込み。

 嫉妬にかられ、周りが何も見えなくなっていた。

 自分の想いを正当化するために、自分で自分に都合の良いウソをついていた。

 自分で作り出した虚構の幻影が、心の中で崩れていく。


 いつしか日は暮れ、空には星が見え始めていた。

 公園の街灯に明かりが灯る。


 由紀乃は、珠子の両肩を持った。


「珠子! 自分で何をやったのか思い出して!」


 全身がガクガクと震えている珠子。


「あなたは山田さんを殺そうとしたのよ!」


 珠子の手に、幸子の背中を押した時の感触が蘇る。


「山田さんに大きな怪我が無かったのは奇跡なの!」


 階段の踊り場で横たわり、動かなくなった幸子の姿を思い出す珠子。



「あなたは、人殺しになるところだったのよ!」



 親友である由紀乃から、自分に向けて発せられた「人殺し」という言葉に、珠子の心の中に巣食っていた虚構の幻影が、砕け散った。


「う……うわあぁぁあぁああ……うわああぁあぁぁぁ……」


 大声を上げて号泣した珠子。

 そんな珠子の身体を、何度も大きく揺らす由紀乃。


「ねぇ! あなたは人を殺すところだったのよ! このバカ!」


 バチンッ バチンッ バチンッ


 由紀乃も涙を流しながら、珠子の頬や頭を何度も何度も叩き続けた。


 バチンッ バチンッ バチンッ


「うわぁぁん! うわああぁぁぁん!」


 親に叱られる小さな子どものように泣きじゃくる珠子。


「珠子のバカ!」


 珠子をぎゅっと抱きしめる由紀乃。

 誰もいない薄暗い公園に、ふたりの嗚咽する声が響いていた。


 ◇ ◇ ◇


 空には、すっかり夜の帳がおり、きれいな月が浮かんでいる。

 誰もいない夜の公園のベンチに、珠子と由紀乃は佇んでいた。


 珠子は、両手で頭を抱えている。


「由紀乃……私はどうすればいいの……」


 無言の由紀乃。

 遠くで電車の走る音が微かに聞こえる。


「珠子、あなたは自分自身のやったことに向き合う勇気はある?」

「それは……」

「ただひたすらに罵倒されるかもしれない……暴力を振るわれるかもしれない……そもそも、あなたの話を聞いてくれないかもしれない……それでもいいなら――」


 由紀乃は、一呼吸置いて言った。


「――山田さんに、話ができないか掛け合ってあげる」


 由紀乃の言葉に、息を飲む珠子。

 珠子は、覚悟を決めたかのように、ゆっくり頷いた。


「わかったわ……」


 由紀乃は、スマートフォンを取り出し、操作をしている。


 そして――


 ポコン


「山田さんから返事をもらったわ」

「…………」

「OKよ」

「!」

「ただし、話ができるのは三十分だけ」

「三十分……」

「次の日曜日の正午、場所は私の家になったわ。いい?」


 珠子は、ゆっくりと頷いた。


 スマートフォンをしまった由紀乃は、そっと珠子の肩を抱く。


「今日はもう帰ろう……」

「うん……」


 ベンチから立ち上がり、夜の公園を歩くふたり。

 珠子は足元がおぼつかず、由紀乃につかまりながらヨロヨロと歩いている。

 自分で作り出した心の中の幻影に惑わされ続けてきた珠子は、どこに進めば良いのか分からない。

 ヨロヨロと歩くその姿は、迷走して疲弊し切った珠子の心、そのものだった。

 由紀乃はそんな姿を見て、しっかり支えるように珠子と腕を組み、二度と迷わせまいと、強く心に誓った。


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