第174話 ホワイトデー - 運命の日 (7)

 心の深淵で、すべてを諦めた一年前の『昔の幸子』から、意思決定権を取り戻した[今の幸子]。

 幸子は、諦めずに未来へ向けて前に進むことを選んだ。


 しかし、辛いことを味わってきた『昔の幸子』は、二度とあんな思いをしたくないと、幸子の心そのものを壊そうする。

 『昔の幸子』は、塞がれていた心の傷を無理矢理こじ開け、奥底に封じ込んできた<声>を呼び覚ましたのだ。


 どんなに時が経っても、決して消えない辛い過去。

 それは、幸子に凄まじいフラッシュバックを浴びせ、駿や亜由美たちの尽力で[今の幸子]を取り戻そうとしていた幸子の心を、完膚なきまでに破壊しようとしていた。


 ――三月十四日 ホワイトデー 放課後の校舎裏


 幸子は大粒の涙をこぼしながら、小さな声でつぶやいた。


「駿くん……助けて……」

「さっちゃん!」


 よろける幸子を駿が受け止める。


「駿! さっちゃん、大丈夫なの⁉」


 校舎の二階の窓からキララが叫んだ。

 その声に呼応して、顔を出す亜由美。


「駿! さっちゃんのその状態って……」


 幸子の息は荒い。

 亜由美に向かって頷く駿。


「以前よく起こしてたあの時と同じ状態だ! ただ、意識はあるっぽい!」


 肩を抱いて、自分の方へ幸子の身体を寄せた駿。

 幸子は顔面蒼白だ。


「うっ……ううぅ……うごぇっ!」


 バチャバチャバチャバチャバチャ


 駿の胸元に嘔吐してしまう幸子。


「駿!」


 バチャバチャ バチャバチャバチャ


「大丈夫だ! 亜由美、大丈夫だ!」


 駿は、幸子の口元の吐瀉物とよだれをハンカチで拭いている。

 全身を震わせている幸子。


「……。…………。……」


 そして駿は、幸子が何かをボソボソとつぶやいていることに気付いた。

 幸子の口元に耳を近付けた駿。


「違う……ボツボツ女じゃない……やめて……違う……友達も……違う……疫病神じゃ……違う……やめて……」


(さっちゃん……)


 駿の脳裏にこれまでの幸子との思い出が次々と蘇っていく。


 幸子との出会い、夏祭りでの赦し、カラオケでの決断、現実からの逃避、文化祭のステージ、クリスマスイブ、初詣とお正月、そしてバレンタインデー。

 そこに澄子やキララ、幸子をイジメていた林、幸子を裏切った亜利沙の言葉が織り混ざっていく。



 駿は、ひとつの答えに辿り着いた。



「亜由美! わかったぞ!」


 二階の窓に向かって叫ぶ駿。


「何が⁉」

「さっちゃんが抱えているものだ!」

「えっ? そばかすのことじゃないの⁉」

「そこじゃない! さっちゃんが抱えているのは心の中だ! 心の中に『巣食っているヤツ』がいる! そいつがすべての原因だ!」


 駿は、腕の中にいる幸子へ向かって語り掛けた。


「さっちゃん、ゴメン……触れられたくないところを亜由美たちに話す……許してくれ……」


 駿を見る幸子の目が『大丈夫だよ』と言ってくれた気がした。

 駿は、幸子の頭を腕でそっと抱える。


「亜由美! さっちゃん、小学生の頃、顔のそばかすのことでイジメられてたんだ!」

「えっ⁉」

「中学の時には、友達だと思っていた子に酷い暴言を吐かれて、裏切られたんだ!」


 亜利沙とのことを、幸子の母親・澄子から聞いていた駿。


「オレたちが出会った頃、さっちゃんの心は壊れてたんだよ!」

「心が⁉」


 亜由美は驚く。


「さっちゃん、今みたいによく苦しそうにしてた時があっただろ!」


 頷いた亜由美。


「あの時、さっちゃんは、辛かった過去がフラッシュバックしてたんだと思う!」

「だから……」

「そばかすのコンプレックスや、オレたちをどこかで信じ切れないのは、さっちゃんが弱いからじゃない! 辛い過去や思い出が、無理矢理さっちゃんに劣等感を植え付けていたからだ!」

「じゃあ、さっちゃんは……」


 頷く駿。


「誰にも相談できず、たったひとりで、自分の心の中に巣食う『過去の自分』とずっと戦い続けてたんだ!」


 亜由美だけでなく、その場にいる全員が驚く。


「心の奥底に染み付いた『過去の自分』は、自分のそばかすを見る度に劣等感を生み出し続ける! ずっと戦って、ずっと抗って、でも、どんなに戦ったって過去は拭えない! 心の中を覆っていく劣等感に翻弄されて、戦い疲れて、逃げるしかなくて! だから、さっちゃんは考えたはずだ! 亜由美たちのところに逃げ込もうって! 助けてもらおうって! でも……! でも、亜由美たちのところに逃げることはできなかったんだ!」

「なぜ⁉ 私たちじゃダメなの⁉」


 駿は首を横に振る。


「どんなに逃げたって、どこまでも過去は追い掛けてくる! 逃れられないんだ! 亜由美たちも頼れず、誰にも頼れない中、染み付いた過去から溢れ出る劣等感にさっちゃんの心はもう限界だった! だから、自分に絶望したさっちゃんは選択したんだ! 一年前と同じように『諦める』ことを!」

「さっちゃん……」


 大粒の涙をこぼす亜由美。


「そして、さっちゃんは決断した! 友達も! 歌も! オレたちとの思い出も! 何もかも全部! すべて諦めることを! さっちゃんは自分の未来すらも諦めたんだ! ひとりぼっちで生きていくしかないって! さっちゃんが選べる選択肢は他にもう無かったんだ! もうすべてを諦めるしかなかったんだよ!」


 キララたちは、ただただ言葉を失うしかなかった。


 窓から身を乗り出した亜由美が涙ながらに叫んだ。


「お願い、駿! さっちゃんを助けて!」


 駿は、亜由美に力強く頷く。


「今もさっちゃんは必死で過去と戦っている! さっき彼女はオレに言った! 『助けて』と!」


 亜由美に顔を向けて、ニカッと笑った駿。


「オレがそう言われて、放っておくと思うか⁉」


 涙をこぼしながらも満面の笑みを浮かべる亜由美。


「駿! 頼んだからね!」


 駿は、亜由美に笑顔を返した。


 そして、幸子の両肩に手をおいて、幸子の目を見つめる。

 何の感情もなく、力無い表情で呆然と駿を見つめる瞳は鈍色をしており、瞳の奥の光も弱々しい。

 幸子の心は、崩壊する寸前だった。


 それでも、駿は幸子に叫んだ。


「いいか、さっちゃん! さっちゃんの心の中に巣食う『過去のさっちゃん』が、いくらさっちゃんを否定したって、オレがさっちゃんのすべてを肯定してやる!」


 うつろな幸子に、駿はあえて笑顔で臨んでいる。


 幸子の頭の中では、<声>がより一層強く響き始めた。


 <ボツボツ女!>


「さっちゃんが気にしてるそばかす、オレ、本当に可愛いって思ってる!」


 <気持ち悪ぃんだよ!>


「そう思ってなければ、オレからさっちゃんと一緒にいようとしないよね!」


 <山田菌!>


「そんなさっちゃんを蔑むヤツがいたら、オレがただじゃおかない!」


 <ちょっと勘違いし過ぎじゃないの!>


「オレだけじゃない、みんなさっちゃんが大好きだ! みんながついてる!」


 <その気持ち悪い顔で友達とか彼氏ができると思ってんの!>


「みんな、本物の友達だ! さっちゃんを傷付けることは絶対にしない!」


 幸子の瞳に、少しずつ光が戻ってくる。


 <アンタ、何にもできないよね。使えなさ過ぎ!>


「音楽研究部にとっても、さっちゃんは不可欠な存在だよ! 歌姫さん!」


 <アンタ、疫病神か何かじゃないの!>


「ライブの成功も、全部さっちゃんのおかげだよ! 幸運の女神様だね!」


 <これでアンタとは縁切りだから!>


「そんな……そんなさっちゃんと……別れることなんて……別れることなんて……オレ、できないよ……!」


 駿は微笑みを絶やさなかったが、瞳から涙がこぼれる。

 そして、幸子にしか聞こえない震える声で囁き続けた。


 <アンタ一生処女だよ、絶対!>


「オレ、さっちゃんとセックスすること、諦めてないよ……」


 <アンタ見て勃つ男いないでしょ!>


「必ず不能を克服してみせるからさ……オレの童貞もらってよ……」


 幸子の瞳からも涙がこぼれ、かすかに笑みが浮かんだ。

 しかし、<声>は加速度的に大きくなり、そして猛烈に歪んでいく。


 <その気持ち悪い顔で彼氏ができると思ってんの⁉>


「さっちゃん、オレ、もうただの友達じゃイヤなんだ……」


 <彼氏ができると思ってんの⁉>


「オレ、さっちゃんとふたりで、楽しく笑ってすごしたいんだ……」


 <彼氏なんかできるわけないだろ!>


「オレ、さっちゃんといつまでも手をつないでいたいんだ……」


 <彼氏なんてできるわけがねぇだろうが!>


 駿の両手が優しく幸子の頬を包む。


「さっちゃん……大好きだよ……」


 駿は、精一杯の笑顔を浮かべ、そして幸子の額にキスをした。


 額から唇を離し、幸子を見つめると、幸子の瞳には光が灯っている。

 そして、柔らかな微笑みを浮かべていた。

 <声>が、駿のキスですべて止まったのだ。


「駿くん……」

「さっちゃん……」

「助けてくれて、ありがとう……」

「もう大丈夫かな……?」

「うん……もう<声>は聞こえない……」

「そっか、良かった……本当に良かった……」

「駿くん……」

「ん……?」

「駿くん……」

「さっちゃん?」

「駿……くん…………」


 幸子の意識は、途切れた。


 ◇ ◇ ◇


《これで満足?》


 身体が透けて、ぼんやりと光っている『幸子』が、幸子に話しかけた。

 幸子は、首を左右に振る。


「まだまだ満足じゃないわ」


《強欲は、身の破滅を招くわよ》


「そういう意味じゃない」


 『幸子』は首を捻った。理解ができないようだ。


「まずは、ここをどうにかしないと……」


 幸子が周りを見渡すと、真っ暗闇だった空間のあちらこちらで小さな光が灯り、空間を薄く照らしていた。

 しかし、空間そのものにも歪みが生じてしまっているようだ。


《あれだけ過去のトラウマをほじくり出したのに……》


「駿くんの言葉が、それをすべて相殺してくれたわね」


 ニッコリ笑う幸子。


《ふん、どうせ、そのうち別れることになる。夢はいつか覚めるのよ!》


「そうかもね……」


《反論しないの……?》


「だって、夢じゃないもの。すべてが自分の都合の良いようにはいかないわ」


《じゃあ、なぜ……》


「さっき満足してないって言ったでしょ。それは、今に満足していないってこと」


《?》


「駿くんとの物語は、これから始まるの。今、ここで満足してしまったら、物語は進まないわ」


《その物語に待っているのは、不確かな未来よ》


「不確かだから未来なの。確かな未来なんて、どこにも無い」


《悲惨な未来が待っているかもね》


「そうかもしれない……でもね、過去は変えられなくても、未来は変えることができるわ」


《そんな不確かなモノに何の価値があるのか……『私』には理解できない……》


「なぜ理解できないか分かる?」


《…………》


 何も答えない『幸子』。


「それは『あなた』が【過去】だから」


《過去……》


「私は【今】、そして【未来】なの」


《…………》


「【過去】は、今が積み重なっていったもの……そして【未来】は、今から切り開いていくものなのよ」


 『幸子』は寂しげに笑う。


《こんな辛い【過去】は不要ってわけね……》


 しかし、幸子の反応は違った。

 首を横に振ったのである。


「幸子は、これから長い時間をかけて【人生】という名の物語を紡いでいくの」


《明るい【未来】が紡げればいいわね。『私』のような辛い【過去】はいらないでしょ》


「物語に紡げるのは【過去】だけ。【未来】は、思い描くことはできても、物語には紡げないの」


《【過去】だけ……》


「【未来】を切り開いて、【今】を生き、そして【過去】を【人生】という名の物語として紡ぐ……一度物語として紡いだ【過去】は変えられない……」


《じゃあ、幸子は辛い【過去】を背負ったままじゃない!》


「駿くんや亜由美さんたちがいるでしょ。泣き叫ぶ幸子を、きっと優しく抱き締めてくれる……」


《友達なんて……誰も信用できない……》


「駿くんのことが大好きな亜由美さんが、涙ながらに言ってたわよね。駿くんの愛を受け止めて、って……これでもまだ信用できない?」


《…………》


 何も言えず、うつむいてしまう『幸子』。


《もう一度……信じてもいいのかな……》


 幸子は笑顔で頷いた。


「さぁ、手を重ねて……」


 お互いに向かい合い、両手の手のひらを向け合って、重ね合わせる幸子と『幸子』。


「辛い過去を抱えたまま、幸子は未来へ進まなければいけない……でも、今、心に寄り添ってくれる本当の友達がいる。だから……きっとステキな未来が待ってる」


《『私』は……ここにいてもいいのかな……》


 優しく微笑んだ幸子は、自分の指と『幸子』の指を絡め合わせていく。


「『あなた』がいなければ、幸子は幸子で無くなってしまうわ。だから――」


 光輝いていくふたりの身体。



「――私は『あなた』を受け入れるわ」



 そして、ゆっくりと唇を重ね合わせた。


 やがて、ふたりは抱き締め合い、ひとつの大きな光の塊となって、空間を隅々まで照らしていく。


 それは、壊れかけた幸子の心に、新しい【希望】が生まれた瞬間だった。


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