第130話 正月 (4)

 ――元旦 午後九時


 駿、亜由美、幸子の三人は、初詣からの帰り道、幸子の厚意で家へ立ち寄ることになり、その後、駿だけが幸子の家へ泊まることになった。


 そして、家が厳しく帰宅することになった亜由美を、駿と幸子が見送りにバス停まで一緒に来ている。

 すっかり夜の帳が下り、住宅地を抜けた先のバス通りは真っ暗だ。

 正月特有の何の物音もしない静かで冷たい空気の中、三人はバスを待っていた。


「亜由美、オレ、家まで送るよ」

「あ、大丈夫! お父さんがバス停まで迎えに来てくれるから。ありがとね!」

「そっか、なら安心だな」


 ホッとする駿。


「駿、さっちゃんとの距離をグッと縮めるチャンスよ! ここは夜這いのひとつでも……」

「亜由美……さっちゃん、目の前にいるんだけど……」

「心の準備が必要でしょ! 聞こえるように言ってるの!」


 駿は、大きなため息をついて、頭を抱えた。


「あ、亜由美さん……駿くんはそんなことしないかと……」


 ガッ


 幸子の両肩を掴む亜由美。

 目が血走っている。


「いい、さっちゃん! してもらうの! してもらいなさい!」

「えー……」


 パコンッ


「いてっ」


 駿は亜由美の頭にチョップした。


「オマエは何を言ってんだ……普通は『駿に気をつけなさい』だろ……」

「でも、ほら! 何かイベントがあった方が!」

「そんなイベントはいらん。大体、澄子さんに見つかったら殺されるわ」

「そこは駿のタラシのテクで、さっちゃんのお母さんも……ね!」

「アホか。『ね!』じゃねぇよ」

「これだから草食系のチキチキチキンは……」

「オマエ、マジで泣かすぞ」


 言い合いをするふたりを見て、笑いを堪えている幸子。


「ぷっ……あははははは!」


 幸子は、我慢できなかった。


「ホントにおふたりとも仲がいいですよね」

「相手してあげないと、駿、泣いちゃうからさ」

「おい」

「あははは、亜由美さん、またウチへ遊びに来てくださいね」


 午前中の神社での出来事が、亜由美の頭をよぎる。


「う、うん!」

「またトランプして、駿くん、やっつけましょう!」

「うん……」

「それから、それから……」


 突然、幸子を抱きしめた亜由美。


「あ、亜由美さん⁉」

「さっちゃんは、何でそんなに優しいの……?」

「えっ……」


 亜由美は、涙声だった。


「私のこと、罵倒していいんだよ。ぶったっていいんだよ……」

「亜由美さん、それはもう……」


 幸子を力強く抱きしめる亜由美。


「それはですね……それ以上の優しさを亜由美さんからいただいているからです」


 幸子も亜由美を強く抱きしめた。


「亜由美は、優しすぎる位、優しいからな」


 駿と幸子は、顔を見合わせて微笑み合う。


 スーハー スーハー スーハー


「あ、あれ? 亜由美さん……?」

「さ、さっちゃんの匂い……たまらん……」


 幸子の匂いを堪能していた亜由美。


「亜由美さん!」

「でへへへ、つい……」

「スケベオヤジ化にも磨きがかかってきたな、亜由美は……」

「まったくもう……」


 駿と幸子は苦笑する。

 やがて、通りの向こうからバスが近づいてきた。


「ほら、亜由美、来たぞ」

「うん、ふたりともありがとう! ……ねぇ、駿」

「ん?」


 駿に抱きつく亜由美。


「駿……ありがとう……」

「心が苦しくなったら、時間気にせず連絡くれ。いつでも亜由美のところに飛んでいくから。わかったか?」

「ホントに……? ホントに来てくれる……?」


 亜由美の抱き締める力が強くなる。

 駿との絆を確めるかのように。


「当たり前だ。亜由美はすぐに我慢しちまうから……遠慮なんてするな、いいな?」

「うん……」


 ゆっくりと身体を離す亜由美の頭を撫でた駿。

 幸子は、それを笑みを浮かべながらも、羨ましそうに見ている。


 キィィ プシュー ビー ガラガラガラ


『整理券をお取りください 整理券をお取りください 整理券を……』


 名残惜しそうに、バスに乗り込んだ亜由美。

 車窓からふたりに向かって手を振っている。

 ふたりも亜由美に手を振り続けた。


 ビー ガラガラガラッ バタン


 ブオオォォ……


 遠ざかっていくバス。


「いっちゃいましたね……」

「ちょっと寂しいな……」

「やっぱり、駿くんと亜由美さん、仲良しですよね……」

「そうだな、亜由美とは付き合いも長いしな」

「なんか……すごくステキな関係だと思います……」


 羨ましそうな幸子。


「あっ! さっちゃん、焼いてくれてる⁉」

「えっ! ち、ちが――」

「思い起こせば、夏祭りの時もオレにヤキモチを……」

「焼いてません!」

「いやぁ~、うれしいなぁ~」

「焼いてませんってば! もう!」


 正月で交通量も少ないバス通り。

 誰もいない夜のバス停に、楽しげなふたりの声が響いていた。


 ◇ ◇ ◇


 カチャリ カチャリ ガチャッ


「お母さん、ただいまー」

「只今、戻りました」

「ふたりともお帰りなさい……あら、何を買ってきたの?」


 駿の手には、大きなコンビニの袋があった。


「あ、下着とか歯磨きセットとか……あと、飲み物とつまめるものを」

「あらあら、幸子とおしゃべりを楽しむのかしら? いいわね」

「お母さんもいっしょ!」

「えっ、私も?」

「一緒にトランプやりませんか? 今日、三人で盛り上がったんですよ」

「ねぇ、お母さんもやろうよ」

「じゃあ……お言葉に甘えて、仲間に入れてもらおうかしら!」

「いぇ~い!」


 ハイタッチする駿と幸子。


「私、トランプ持ってくる!」

「お母さんは、コップとかお菓子入れるボウルを用意するわね」

「澄子さん、手伝います」


 三人それぞれが準備をして、居間に集まった。


 シャッ シャッ シャッ シャッ


 トランプを切っている駿。


「じゃあ、まずはババ抜きでもやりますか」

「さんせ~!」

「あら、何だか懐かしいわね。やりましょ!」


 山田家の夜は更けていく……


 ◇ ◇ ◇


「はい、さっちゃん」

「うん……」


 時間は、午前〇時を回っている。

 駿は、幸子にカードを取るように差し出しているが、その幸子は、うつらうつらしていた。


「ふふふっ。さっちゃん、もう眠いんでしょ?」


 幸子に尋ねる駿。


「ううん……眠くないよ……」

「さっちゃん、今夜はもう寝たら?」


 澄子も、幸子に寝るように促した。


「大丈夫……もっと駿くんと遊ぶ……駿くんと……」


 すでに半分寝ているような状態だ。


「さっちゃん、また明日遊ぼうよ。今日は寝よ、ね」


 駿の言葉に、小さくコクンと頷いた幸子。

 幸子は立ち上がったものの、フラフラしている。


「ほら、さっちゃん……よっと」


 足元からすくい上げるようにして幸子をお姫様抱っこした駿。


「あら、さっちゃん、いいわね」


 幸子は寝ぼけまなこで、微笑みながら頷く。

 自分がどういう状態なのか、よく分からないのだろう。

 それでも、目の前に駿の顔があることに、幸子は心から安堵しているようだ。


 駿は、二階の幸子の部屋のベッドに、そっと下ろした。


「……すごい……駿くんが目の前にいる……目の前に……」


 そっと幸子の頭を撫でる駿。

 幸子は、ゆっくりと眠りに落ちていった。


「さっちゃん、おやすみ、良い夢を……」


 パチン キィ…… パタン


 一階の居間に戻る駿。


「幸子さん、ベッドに下ろしたら、すぐに寝ちゃいました」

「高橋(駿)くんにお姫様抱っこしてもらったんだもの、今頃良い夢を見ているわ」

「そうなら嬉しいですね」


 ふたりはお互いに笑いあった。

 居間のテーブルを挟んで、向かい合って座っている駿と澄子。


「ねぇ、高橋くん、幸子とはお付き合いしているのかしら?」

「えっ⁉」


 澄子のストレートな問いに、駿は驚いた。


「い、いえ。そういう関係にはありません……」

「あら、幸子のことは嫌い?」

「そんなことはありません!」

「そう、良かったわ! 私、高橋くんなら安心して幸子をお任せできるもの」


 澄子は嬉しそうだ。

 しかし、そんな澄子を前にうなだれてしまう駿。


「でも、オレは……幸子さんとお付き合いする資格は……」

「あら、どうして?」

「澄子さんもご存知の通り……自分は……不能ですので……」

「それだけが男女のお付き合いじゃないわよね?」


 駿は、両手で顔を覆ってしまう。


「もちろんです……でも、それは必ず幸子さんを苦しめることに……」

「そんなこと……」

「身体を重ねることだけが男女の付き合いではない……それは正常な男性が言うのならば分かります……でも、オレは正常な男性ではありません……」

「幸子なら、きっと治るまで待ってくれるわ」

「はい……だからこそ、付き合ってほしいなんて言えないです……」

「どうして……?」

「幸子さんなら、待ってくれると思います……でも、治るのかどうかわからない……一生このままかもしれない……その間、ずっと待たせて……ずっと辛い思いさせて……幸子さんにそんな思いさせるくらいなら……」


 駿を心配そうに見つめる澄子。


「オレ、毎日必死なんです……」

「必死?」

「こんな弱い男だってところ、幸子さんに見せたくなくて……必死でカッコつけて……必死で強がって……幸子さんに見限られたくなくて……」


 一歩を踏み出せないのは、幸子だけでなく、駿もまったく同じだった。

 駿は、自身の不能が男としてのプライドを失ったと考えてしまっており、達彦以外に相談できる相手もおらず、深く苦悩していた。また、そんな自分の弱さが露呈することを恐れ、心のどこかで怯えながら幸子たちと接していたのだ。


 駿の異常なまでの優しさ。それは、そんな怯えの裏返しでもあったのだ。

 駿本人に自覚は無いが、駿の心はかなり疲弊しており、ちょっとしたことがきっかけで、かんたんに折れるような状態だった。


 駿の隣に座る澄子。


「高橋くんは幸子の身体のこと、知ってるよね?」


 駿は、ゆっくり頷いた。


「高橋くんが来てくれたあの日、高橋くんが帰った後にね、幸子と膝を突き合わせてお話ししたの」

「あの日……」

「うん、あの日……あのね、幸子、ものすごく喜んでたの。私の身体のことを知っても、高橋くんが可愛いって言ってくれたって」


 あの日のことを思い出す駿。


「幸子ね、涙流して喜んでたのよ」


 澄子は、顔を覆っていた駿の手をそっと取り、優しく握った。


「幸子、こうも言ってたわ。高橋くんが私を支えてくれる。だから、私も高橋くんを支えるんだって」


 駿の両手を、自分の両手で包み込むように握る澄子。


「いいじゃない、かっこ悪くたって。いいじゃない、情けなく泣き喚いたって。幸子は、きっと高橋くんを優しく抱きしめてくれると思う」


 駿の手を優しく握る澄子の手に、駿の涙が落ちていく。


「だって、高橋くんは、そうやって幸子を抱きしめてくれたじゃない」

「う……うぅ……」


 駿は、嗚咽を必死に堪えていた。


「幸子の身体のことを知って、高橋くんは幸子を気持ち悪いって思った? 嫌いになった?」


 首を左右に振る駿。


「オ、オレ……幸子さんが……さっちゃんが好きです……!」


 駿は涙をこぼしながら、思いの丈を澄子に打ち明けた。

 そんな駿に、澄子は優しく微笑む。


「きっと幸子も同じ。高橋くんが抱えているものを知っても、幸子が高橋くんを好きな気持ちは変わらない」

「うぅ……うぅぅ……」

「苦しみや悩みをさらけ出しあって、支え合って、絆を深めて、辛い時は抱きしめ合う……私はそんな関係、ステキだと思うな」

「澄子さん……オレ……オレ……」


 涙を流す駿を、自分の胸に抱き寄せる澄子。


「私は応援するわ、ふたりのこと。幸子に言えないことがあったら、私にいくらでもこぼして。辛いことがあったら、こうやって抱きしめてあげるから」


 澄子に抱かれた駿は、澄子の胸に顔を埋めながら背中に手を回すと、小さな嗚咽を漏らしながら、涙を流し続けた。澄子は、そんな駿を優しく抱きしめる。


「辛かったね……でも、幸子も私もいますからね……」


 澄子の言葉に、心の澱が涙と共に流れていく駿。


(自分に母親がいたら、こんな感じなのだろうか?)


 そんなことを思いながら、澄子の暖かな母性に身体が包まれる感覚に陥る。

 駿は、今まで感じたことなかった安心感に身を委ね、ただ涙を流し続けた。


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