関ケ原・・・9
半兵衛の右手が左右に振られ100本の石火矢が天空に向かって放たれ炸裂した、攻撃する為の石火矢ではなく炸裂音を響かせる合図の石火矢が関ヶ原の戦場に鳴り響いた。
炸裂音が合図となり関白側も三成が那須側に向け砲撃を開始した、三成が砲撃して来る弾は鉄球でありあたれば即死する威力であり盾程度では防ぐ事は出来ない、大きい鉄球を砲撃出来る国崩しという巨砲と二回りほど小さい小筒50門からなる三成砲撃部隊が危険と判断し那須側の最初の標的となった。
「おいおい!! あの大きい砲が狙っている標的が我らの本陣に変更して来たぞ! 見よあの大木が折れているぞ! 半兵衛ここにいて大丈夫か?」
「ご安心下され、これより我が方の砲200門が敵側の砲撃して来る部隊へ集中的に新しい弾であります榴弾を降らせます、
那須では戦時に伝令役として黒色の母衣衆を利用しており呼び名をカラスと付けていた、戦国時代は無線など当然なく各部隊への指示はこの
カラスと呼ばれた黒母衣が半兵衛より一枚の紙を渡され砲撃部隊に届ける様にと指示を受け急ぎ騎乗した。
「見ていて下され、以前お聞きした砲撃部隊の攻撃する的に集中して拠点撃破する軍師玲子様より授かったやり方にて今指示を出しました、間もなくあっという間に瓦解するでありましょう!!」
「では先程の紙に十ノ一と記したのか?」
「はい、簡単な指示でありながら200門が一斉に狙える指示であります、砲撃の使い方を此度学ぶ事が出来ました!」
玲子より那須には沢山の大筒があるからとそれの戦場で使用する際に役立つ攻撃方法を教えらておりそれを今回実戦で三成が最初の標的となったのである。
玲子が教えた攻撃方法は敵が支配する地域を縦10、横10のマス目にした地図を作りそこに番号を振り指示した場所に一斉に個別撃破する方法である、飛び道具である大筒は戦場が広い場合の砲撃は無駄な攻撃が多くなり野戦で戦う場合標的を判りやすく狙う方法が効果的と教えられていた。
この縦10×横10で全体が100のマス目となり縦が200
「ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン!ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン!ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン! ドン ヒュ~~ ドカン!ドン ヒュ~~ ドカン!」
砲撃の発射音が聞こえた数秒後に爆発音が戦場から轟いた、それを見ていた本陣後ろにある高櫓から伝声管を通じて見張り役より声が伝わった!
「敵陣十ノ一にて砲撃が次々と命中している模様です、多数砲撃の煙が立ち昇っております!!」
「半兵衛無事に標的に砲撃が始まったようじゃ、それにしても便利であるなこの伝声管という奴は!!」
「流石洋一様であります、銅の筒にて声を響かせているだけでありますが、洋一様の世界でも高い建物から声を伝えるのに使用されている技術だという事で初めて用いましたが見張りがいちいち伝令を走らせずにはっきりと聞こえます、これは便利であります!」
現代では無線通信にて見張りから連絡を受けているが一昔前に戦艦の艦橋から各指令を伝える為に銅管で造られた伝声管を利用して命令と報告に使用された技術を資晴に伝え、本陣後ろに設置した高櫓から物見からの報告を受けていた、その報告役はアインとウインの息子達が担っていた、父親と同じく鷹の目を持つ息子達に初陣として参加していた。
※ 余談だが昭和世代の50代以上の方の中で証券会社や為替などで注文する際に一秒を争う世界で働いた方なら知っているが、この伝声管と同じ様な仕組みでエアーシュウターという装置がビル内に巡らされ空気の力で注文伝票をカプセルに入れて1Fから6Fに6Fから8Fに8Fから1Fに送るなどそんな装置があった時代もある、今では考えられない懐かしい話と言える。
200門の大筒から次々と三成がいる砲撃部隊に榴弾が撃ち込まれた、200発の榴弾で一度に4万もの鉛玉が縦が200
「三成はどこじゃ? 生きておるのか?・・・誰も動いて・・・あっ!! 三成の兜じゃ、国崩しの上で倒れている・・・動いている者もいる、急ぎ予備兵を送り手当致せ! 殺してはならぬ!! 三成を救え!」
榴弾は現代の戦争でも主流の砲弾と言える半径50m以内で炸裂した場合の身体的なダメージは致命傷となるケースも多く殺傷能力も炸裂した場所より近ければ近い程上昇する、しかし榴弾の恐ろしさは殺傷能力より戦闘する兵士への心理的ダメージの方がより高く与えるストレスは精神を破壊する恐ろしさだと言われている、近くで破裂する炸裂音は兵士の心を破壊し傷を被らなくても戦場で戦える状態では無くなり心が折られ精神が破壊されしまう、三成の砲撃部隊は僅か数分の内に1200発程の榴弾、鉛玉の数では24万発もの弾が5000人の兵士に襲い掛かった事になる、この時代では考えられない状況と言えた。
関白側の西側では既に那須家に攻め入る為に横に厚みのある横陣が築かれこれから徐々に攻め入るこれからという時に後方で砲撃を行っていた三成の砲撃部隊が瞬く間に壊滅したのである、横陣で隊列を組む兵士達は壊滅した砲撃部隊を見て一斉に動きを止め静まり返る事に、指揮する指揮官達も呆然と後方の様子を黙って見ているしかなかった。
「十ノ一敵砲撃地は静まり返っております、人が動く気配ありません!!」
高櫓の物見から伝声管を通じて報告が入る!!
「凄まじいのう!! 一ヵ所の的にあれだけの砲を撃つのは初めてであるが・・・いやはや・・である!!」
「まだまだであります、これからが本番であります!」
那須側の砲撃部隊は50門の大筒が一隊となり全部で4隊から編成されている、半兵衛はその四つの部隊に個別に次の指示を書いた紙をカラスに渡した、半兵衛の意図する砲撃指令は、次は四ヵ所のマス目に砲撃する事であった、紙に書かれた場所は、壱ノ四、壱ノ五、壱ノ六、壱ノ七となっており戸惑って進軍出来ない関白軍の最前列中央の四つのマス目であった、榴弾が襲う範囲は縦200間×横600間という事になる。
次から次と指示を出す半兵衛ではあるが今日の戦は最初の
夜明けより砲撃が開始されて30分程の間で三成の砲撃部隊は壊滅し、今度は横陣最前列中央に位置している盾兵と長柄足軽の部隊が標的となり榴弾が襲い掛かった、中央部の兵達からの阿鼻叫喚の悲鳴が鳴り響くも周りにいる幾万もの兵士達には恐ろしい光景を見ているしか無かった、救援に向かえば己に死が待っていると誰の目にもはっきりと理解出来る地獄絵図であった。
関白軍は厚みのある横陣を展開しており小西行長、加藤義明、宇喜多秀秋が率いる8万の軍勢と手前に前田利家・福島正則が2万が配置されており、合計10万からなる攻撃部隊として力を集中させ勝利を決定させる作戦であった、この横陣にいる兵数だけで既に那須軍より2万以上多くの兵数がいる事になる、その攻撃部隊となる最前線の中心エリアに榴弾が注がれたのである。
瞬く間に中心エリアで死傷者多数となり10万の軍勢が後方に下がり始めた、中央付近にいる前線の指揮官達も騎乗にて我先にと後方に逃げ始めた、その事により混乱が広がり始める、関白軍の足軽には農民から徴兵された農兵とも言える百姓も多くおり真先に被害を受け命を失う立場である事は充分に理解している、逃げるべきかどうするべきかと言う状況では逃げるという判断が優先される、当然の事である、それに対して那須軍は石高に対して戦国時の大名が持つ兵数はそれ程多くない、むしろ石高換算で兵数を計算すれば少なく見積もって10万~12万程度の兵数を用意出来る計算になるが、8万の那須軍である。
那須軍の兵数が少ない理由はほぼ全部の兵士が侍の立場である常備兵から成り立っているという点である、その昔洋一より農繁期でも関係なく戦える常備軍が必要であり戦時に農民を頼り徴兵する場合は自国の地で戦う領地を守る時に限定した方が良いとされ、10年以上の年月をかけて屈強な兵を育てて来た理由が那須軍8万である、平時でも部隊事に調練を行い大隊、中隊、小隊という編成を組んでは騎馬で戦える調練を繰り返し繰り返し行っているのが那須軍である。
那須資晴の中ではとうの昔にこの関ヶ原合戦という日が来る事を知っており主な武将達もその事は伝えていた事で調練に身が入り最高潮の状態で迎えたと言って良い。
関白側の前線では榴弾での砲撃で混乱が広がり初め指揮を執る武将達は勝手に戻る下級指揮官と狼狽し戦場から逃げ出す自軍の兵士を槍で突き殺し始めた、この戦国時代の農民足軽の命は家畜以下であり使い捨てという常識が一般的であった、勝手に戦場を離れる行為は軍律違反であり指揮官の決済で処分が行える現代の戦場でもそれは同じ事が度々起きて居ると言える。
「豊久!! 我らは陣形を後ろに移動し全体を大きく広げよ、あの砲撃の的になってはならぬ、まともな奴らは儂らと同じ様に一旦後方に下げて来る、500間程全体を急ぎ下がらせよ、それと鉄砲隊には弾込を命じておけ!」
「判りました!!」
島津はこの混乱は最初の内だけで収拾が付くだろうと判断していた、いきなりあのような榴弾を見て動揺が広がっているがそれも一刻だけの事だと、戦場では予期せぬことが起きれば肝を冷やし恐れ慄く者も出るが冷静に判断し動く事で命を長らう事が出来る事を知る者達も沢山いる、今は臆病な者達が騒いでいるだけである、標的となったマスの中で盾を背にじっと地面に伏している者もいる、どうすれば良いかを知っている者もいるという事である。
那須の砲撃を見て最初に安全策を取る島津ではあるがそれと同時にいつでも攻撃に移れる姿勢も忘れていなかった、島津の敵は隣の立花・・と言えた。
島津が自軍に指示を出す中、半兵衛は砲撃隊に次の指令を与え標的のマス目を徐々に変更するよう新たな指示と那須軍騎馬隊に何時でも突撃出来るように一大隊六千人の部隊で那須資晴本陣の前に十二大隊による鋒矢の陣を整列させた、十二神将による騎馬部隊の陣列であり七万二千騎の那須家騎馬隊を砲撃とは別に整え何時でも出陣出来るように頃合いを見計らっていた。
関白側でも榴弾の攻撃を受けていないマス目には多くの兵がおり小西行長、加藤義明、宇喜多秀秋などは大声を張り上げ次の攻撃に備える様にと怒気を上げ指示していた、砲撃が一段落すれば那須が向かって来る事を予想出来ていた、同じく騎馬隊と長柄足軽からなる攻撃の主力の大部隊を率いる立花宗茂も那須側が次に時間を置かずに攻めて来るであろう事を予想し攻撃の態勢を取りながら標的に成らない様に後方に退いていた。
この時点での関白側の死傷者は三成の砲撃部隊を入れて約八千という所であり充分に戦力は残って居る。
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