永禄の変


 ── 御所治安那須騎馬隊 ──




4月初旬に油屋の船と那須家の船にて小田原経由で堺に到着し、那須の御所を守る騎馬隊150名が京都御所に下旬に到着した、既に小田家でも交代の要員が到着しており、離任する兵達と交代する兵、600人が一時的ではあるが滞在する事になった。



正太郎は資胤が上京した際に公家衆と行われた歌会に参加した十兵衛と正太郎配下の騎馬隊山内一豊を長として30騎を今後の為に参加させていた、但し、十兵衛と一豊率いる騎馬隊は交代要員と一緒に帰還する予定であり、京都という所に慣れさす為に派遣した。




小田家を率いる責任者は正太郎が知っている真壁であった、常陸国に響き渡る猛将、鬼の真壁久幹ひさもとの武器は金砕棒という長さ3mの真赤に塗られた棒に鉄の鋲が多数撃ち込まれた棍棒である、この棒で殴られた者は頭をカチ割られ即死する、腹を殴られば内臓が破裂し、のたうち回って死ぬという、鬼に金棒という武器を持った鬼真壁であった。



那須側の責任者は正太郎の配下福原資広の父親である那須七騎の福原資孝であり騎馬隊を率いる優れた武将である。



5月初めに那須、小田の離任する責任者と着任する責任者にて、これまでの警備内容などを確認し、申し合わせを行い、引継ぎの日時などを打ち合わせた、結果、初めて着任する兵達がほとんどであり、御所周辺の地理も不案内であり、退任する兵と交代する兵で5月末まで共に警備を行い、周辺の知識を習熟させてから離任する事となった。



京の町とは、碁盤のマス目に道が出来ており、羅城門が御所と呼ばれる平安宮(町)の正門、その門より奥に直線で約3500mの所に朱雀門その門内側が内裏となる、内裏は帝を初め奥方の住居などがあり御所の心臓部となる。



全体の大きさは、幅約4400m×奥行き約5100mのやや長方形の形が大まかな平安宮御所と言える、時には大内裏という名で呼ばれ、この大きい長方形の町を巡回し警備する。



羅城門から朱雀門までの範囲が那須小田家が警備する場所となる、朱雀門の内側の内裏側を御所の衛兵である舎人300名が警備する範囲となる、本来は御所全体が範囲であるが、戦国期では多くの兵を雇うだけの費用が賄えず兵数が縮小されていた。



御所を守る衛兵とは別に、都を守るという意味は、朝廷を支えお守りする役目は幕府が行う事であり、日ノ本の都を守るのは当然幕府の役目となる。



その幕府は自らを支える力も無く、後ろ盾になる大名に頼るだけであった、幕府が持っている力は権威であり、権力には陰りが見えていた、その足利義輝将軍を金銭的に支えていたのが三好家である、支える以上、幕府の中枢に入り込もうとする三好家、将軍を莫大な費用で支える見返りに三好家の意見を取り入れ、三好家に地位を与えなければならなかった、要は傀儡である。



その一方でその傀儡という事を受け入れる事が出来ない義輝は、費用を出してもらいながら公然と各地の大名に、三好討伐の将軍宣下を発していた。



義輝と三好家の関係に信頼と言う文字は無い、ただ利権と権力と各自に取って都合の良い部分で協力又は、衝突を繰り返していた。



三好家の当主であった三好長慶が昨年1564年7月4日に亡くなり、三好を支えていた者達による主導権を争いが起きる、松永秀久と三好三人衆、三好長逸・三好政康・岩成友通による内紛が生じた事により、三好家が弱体する、将軍義輝は、今こそ三好を討つ時であると、好機到来であるとし、より一層討伐の将軍宣下を連発した。



将軍宣下の特徴は、将軍を支えるのが大名の役目であり、それが当然の事である、将軍を蔑ろにする三好を討つのが大名の役目であり、将軍を守るのが当然である以上、将軍宣下を有難く受け取り、将軍から宣下を受けられる事に感謝し、三好を討伐するのだと言う、完全な上から目線の宣下であり、実に迷惑な代物でしかない。



この足利将軍義輝と、次の次の将軍義昭も同様に将軍と言う権力は持っているがそれを支える力が無く自分に逆らう者は、逆賊であるとし、各地の大名に意に従わない者へ、手紙で討つ様にと、書きまくった将軍である、お手紙将軍とも言われている。




── 永禄の変 ──




傀儡将軍を擁立する三好氏は、将軍としての直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった、永禄8年1565年4月30日、三好重存しげまさが上洛し、5月1日に義輝に謁見、その際、義輝は重存に『義』の偏諱と左京大夫の官位を与え、重存は義重と名乗った。



その後、5月18日までは京では平穏な状況が続いた、公家の山科言継や勧修寺晴右の日記などを見ても、ただ事実が淡々と記載されているのみである、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、同日に義輝が危険を感じて二条御所を出たものの、近臣らに説得されて戻った、と記されている。




5月19日、義重は三好三人衆や久通とともに、清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い、突如として二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟要求ありと訴え、取次ぎを求めて御所に侵入した永禄の変が起きる、 二条御所の完成間近を狙った攻撃であり、 開戦は午前8時頃であったという。



義輝は三好軍が二条御所に侵入したのち、劣勢であることを悟り、死を覚悟、近臣らに酒を与えて、最後の酒宴を行い、皆で別れの酒を酌み交わし、その後、義輝と近臣は三好軍に立ち向かい、突撃し切り込み近臣たちは皆討ち死、午後11時頃に義輝もついに力尽き、三好の兵に討たれた、享年30満29歳没であった。



義輝の辞世の句『五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで』



義輝の最期に関しては諸説ある、フロイスの『日本史』では、義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された、と記されている。



当初5月1日に義輝に謁見したとあり、義輝は重存に『義』の偏諱と左京大夫の官位を与えられますが、その事に注目して欲しい、この義重が将軍の元に謁見した理由が別にあるのだ。



将軍義輝は自分が住んでいる二条御所で近い内に三好と戦う事を前提とした御所の要塞化を図っていた、堀を廻らし、城として要塞化の普請を行っており完成目前であった。



この城と戦う相手は三好である、その為の要塞化である事は誰の目にも明らかであり、完成直前に三好重存が訪れた、三好にしてみれば、将軍の城が完成する前に戦う方が被害も少なく勝利出来ると考え、将軍を葬り、新しい将軍を擁立すれば良いだけである、ここに三好側が永禄の変を起こした理由が見え隠れしている。



5月18日深夜に十兵衛の元に帝をお守りしている鞍馬天狗より火急の知らせが来る、明日未明より三好の軍勢1万が将軍義輝の居城二条御所を襲う為に進軍中である、京都平安宮への被害が及ばない様に各門を閉門し、羅城門の防衛を厳重に行い御所を守ってほしいと告げられた。



十兵衛は急ぎ福原資孝と小田家重臣真壁に伝え、厳重に警備を行った。



三好軍は統率が取れており、将軍の二条御所以外へは攻撃を行わず、将軍と幕臣が亡くなった事を確認すると一路撤退した。



将軍が殺されたという事件は日ノ本中に大きな衝撃を与えた、朝廷の目の前で、それも朝廷を守る将軍が殺されたという事で大騒ぎとなったのである。



この永禄の変が起きる事を山内一豊は事前に聞いており、本当に起こった事に驚くが正太郎より変が起った際はある一人の幕臣を連れ出し那須に連れて来る様に指示を受けていた、その者とは前年の那須資胤が将軍義輝に謁見した際に資胤疑いの疑義を掛けた摂津晴門に対し、その様な事は無いと擁護した和田惟政これまさであり、和田は謹慎処分されており、この時二条御所には和田惟政はおらず被害を免れていた。



和田は長年幕府を支えるべく京周辺の大名へ外交官として働いており、周辺大名では誰もが知っている幕臣であった、和田氏は甲賀五十三家において特に有力な二十一家の山南七家とも称される家柄で、油日神社と深く関係していた、初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕えていた。



史実ではこの変の後、興福寺に軟禁されていた、義輝の弟覚慶(足利義昭)を救い出すのだが、この物語では、その救い出す事には関わっていない。



永禄の変での混乱も三好軍が撤退した事により、山内一豊は交代の兵員と共に帰還する事にした、山内一豊騎馬隊30名は堺停泊中の那須家の船で帰還となる、その船には庇護した和田惟政も乗船していた。





── 軍師玲子の思案 ──




那須家が佐竹を破りまだ一年も経ずに、玲子の知らない歴史、史実とは違う事が徐々に表に現れている事に戸惑っていた、確かに史実では、小田家との軍事同盟も、合戦で勝ち領地を得る事、当主が上京する事も、北条家とも極秘の同盟を結ぶ事も、史実とは違う事が起きている。




しかし、一方で歴史通りに全体は動いており、永禄の変も起きてしまった。



一見何事も無く那須に取っては良い方向に向かっている様ではあるが、目に見えない大きい事が起きるのでは無いか、史実では起きていない出来事が、那須に起きるのでは無いかと、もう一度自分の知る史実を詳しく見直すために県立図書館に通っていた。



調べて行く内に一つの気になる事が判明した、玲子が以前調べた武田家でのお家騒動が起きた時に永禄81565年1月に謀反の首謀者として処刑されいる事になっていた、飯富虎昌、側近・長坂源五郎・曽根周防守がこの4月の時点で生きているという事であった。



それが再度調べて行く内に、亡くなった日、謀反者として処分された日が10月15日になっていた、いつの間にか知っていた事実が変更されていたのである。

(現在の歴史研究家が調べ日にちが確定したのである)



玲子の中では佐竹がもう一度戦を仕掛けて来る、史実でも宇都宮家と合力して攻めて来る、その事については、充分頭に入っており打つ手もある程度練っていた。



それとは違うもっと大きい雌雄を決する戦いが起きると確信した、時期はまだ読めないが、確実にその時が来ると玲子は一人確信したのである、この事はまだ夫である洋一には伝えるべきではない、伝える事で時期を早めてしまうであろうと玲子の心が、軍師だからこそ今は伝えてはならないと那須の家紋を見つめ、その時に備えようと思案していた。





なんか最後に登場した軍師玲子に、かっちょいいと、何故か感動しました。

玲子がいる事で安心感が違いますね。

次章「春うらら」になります。

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