布陣


小田原成敗が本格的に動き出し各大名は関白本軍より先に指示された別動隊が街道筋の支城と小田原包囲の為に進軍を開始した、主な武将は以下の通りである。


関白軍本軍・豊臣秀吉、豊臣秀次、前田利家、織田信孝、石田三成、加藤清正、福島正則、池田輝政、浅野長政他多数。


別動隊・細川忠興、小早川隆景、吉川広家、大友義統、立花宗茂、高山右近、筒井定次、京極高次他多数。


水軍・九鬼嘉隆、毛利水軍、加藤嘉明、長宗我部元親。


関白軍の軍勢は史実と違い関東勢以北の東国勢は参戦していない事になる。



1588年6月より本格的な小田原成敗が始まった事により北条方も籠城戦に向け三河より小田原までの街道道筋の支城にいる兵を引き上げ一大拠点となる小田原城内に移動させ各配所に付かせる事に、三家の戦いで此れまでに支城に援軍を残し防戦させる方法より箕輪城の戦いで得た経験を生かし一旦は敵側に接収させ後に取り返す算段がある場合はその方法の方が被害も少なく力を集結させる事で一気に爆発させ攻撃に移せる方法を此度も籠城戦で取る事にしていた。


無理に支城に兵を残しても無駄死にとなり敵側に利するだけである、又、北条家では街道筋の村々には春の田植えを放棄させ避難させていた、秋の刈入れで関白側に取られるだけであり北条家では充分な兵糧は備えており後ろには那須家と小田家という力強い味方がいる事で兵站供給にも不安は無かった。


小田原城は20年以上の歳月をかけ城下町そのものを城壁で包み込み巨大な城塞都市の城となっていた、避難して来る百姓及び城下の町人等の数は15万人となり籠城する兵達も10万に達していた、10万の兵には那須家、小田家からも援軍として各1万の兵達が参戦していた。




── 布陣 ──




関白軍の別動隊が街道筋を抑え相模湾から見て西側一帯を封鎖した事で陸上側の包囲は完成した、海上もその動きに合わせて九鬼水軍の鉄甲船12隻を浮き砲台として配置し、その内側には毛利水軍の船が多数配置された事で海側も包囲された事になる。


北条側で持っている大型艦船を主力とする二つの突撃艦隊は横須賀に姿を消しており無傷の状態で海上での決戦を待つ事になる、関白側も北条家及び三家側には大きな艦船を持っている事は承知しているものの鉄甲船であれば充分に戦えると判断しており北条家の艦船が小田原周辺の相模湾に不在と知りどこかに避難し逃げたと考えていた。


これで陸側と海上も封鎖された事により関白本軍が8月に入り布陣入りとなる、これで関白側は総勢20万という大軍が布陣した事になる、封鎖をした事は戦の始まりに過ぎず単に準備が整ったとの意味でありこれより如何に小田原を攻略するのかが秀吉と官兵衛の知恵の使い処となる。



「官兵衛よ! 無事に小田原を封鎖出来た褒めて遣わす、これより攻略となるがそちの見立ては如何じゃ、儂にも思う処があるがまず官兵衛の策を聞きたい!!」



「はっ、殿下! 敵側の北条家は我らが包囲する事は事前に察知しており亀となり身を甲羅に潜めております、敵側の思惑はこちらの様子を伺い夜襲などによる士気の低下を狙っているものと思われます、先ずは我らも包囲し終わった所であります、夜襲を警戒し敵の動きを念入りに調べ上げ策を練りまする」



「ふむ、しかしそれでは手緩いぞ官兵衛! 今暫く様子を見る事は良いがそれでは待っているだけである、三成の報告によると城の城郭は二重三重と固く崩すには痛手を伴うとあった、しかし小田原の周辺を改めて見分したところ城を見下ろせる場所がありそこより威圧する事が出来ると話しておったぞ!! 先程の官兵衛からこの件を説明せぬとはお主の手落ちであろう! ・・しかしまあー良い始まったばかりじゃ、三成が言うた場所を確認した上で判断するとする、此度はじっくりと構え敵側の心を削る戦いである、敵の心を懇ろに削り心服させようでは無いか! のう官兵衛!! では儂は女子達が待っているゆえ又後でじゃ!!」



官兵衛にも三成が説明したとされるやや小高い山がある事を知っており此れまでに知らべる為に幾人かの者達を放つも一人も帰らず手練れの忍びを放つも同じく戻って来なかった、むしろあの地は警戒する地でありそこより威圧する策は無理であろうと判断しており秀吉には伝えていなかった、この地こそ史実における石垣山城と呼ばれた石垣山一夜城と評される城である、秀吉が籠城する者達に威圧を与え屈服させる為に造らせた城であり城から見える木々を残しその後ろ側に城を作らせ最後に樹木を取り払い一夜で城を完成させたと驚かせた石垣山一夜城である。


石垣一夜城の位置は小田原の西側街道筋にある標高260m程あり城から約1.2キロ離れた地である、那須資晴も当然その事は洋一からレクチャーを受けておりその地を逆手に北条家には石造りの砲台陣地構築を2年前から作らせていた、砲台陣地内には鋳物製大筒と青銅木砲を多数設置しており関白側を攻撃する際の主要な場所としての役割を担う事になっていた。


史実では石垣山に城を築かれ小田原城を見下ろし威圧する関白に対し一切抵抗出来ずに降伏の道を歩む北条家、秀吉の戦における采配の才は武力と言う形より心理戦での勝利と言える、調略により無傷な敵将を下し配下とすれば無傷な兵達はそのまま自軍の力となり前線に送り出せる、下った武将は他の誰よりも功を上げようと必死となり秀吉の力を増大させて行く、その石垣山は既に北条家の砲台陣地が構築されていた。


関白軍が小田原着陣する移動の道筋で目に見えぬ処で一悶着が起きていた、秀吉を迎える為に三成がその道中を見分する際に富士川の河原者達の若頭である富士川一番と揉める事に。




── 富士川太郎 ──




静岡側と富士市との間に流れる富士川、人の往来を川の渡し役として駄賃を頂き生業としている長の富士川一番と配下達その中に間もなく長となる若頭の富士川太郎、秀吉が来るという事で下賤の河原者は姿を消す様にと命じられた事で一悶着が起きた。



「一番様我らはこれよりどうなりますか? 姿を消せと言われてはどうやって生きて行けば良いでしょうか?」



「・・・相手は関白というお偉い様である逆らえばどうなるか目に見えておる、ここは悔しいが戦が治まるまで何処かに身を隠すしかあるまい!! のう太郎よ!?」



「今一番苦しいのは義父である一番の父じゃ! 皆もその事を判っていると思う、しかし相手が誰であろうと理不尽な命を受け入れればこの先我ら河原者はこの世から消えていく事になる、儂にはそれが判る、そこでじゃ儂に考えがある儂と共に戦う覚悟がある儂と一緒に来い、河原者の意地を見せてやる!」



「その考えとはなんじゃ太郎殿?」



「我ら河原者であの傲慢なる関白と戦うのじゃ、河原者を下賤と呼び命じる関白に我らの力を侮る者どもに仕返しをするのじゃ! 最初は仕方なく我らは山側の流域に隠れようぞ! その後にあ奴らが作る橋を夜陰に隠れて打ち壊すのじゃ! あ奴らは戦であるから北条家の仕業と考えるであろう、壊されれば又橋を作るであろうがそれも打ち壊すのじゃ!!」



「お~それは面白い話であるのう、壊した木材は駄賃の代わりに売っても良いであろう? 」



「そうであるな、壊した木材は自由にすれば良い、この富士川の河原者である我らに敵対したのだ戦利品として役立て用ぞ、それで良いな父上!」



「判った、ではその様に致そう、しかし相手は武器を持つ侍である、様子を見て儂の指示があるまでは勝手に動いては成らんぞ! 河原者が橋を壊していると判明すれば皆殺しにされてしまう、関白側の軍勢はとんでもない数の侍達じゃ、絶対に露見してはならぬぞ!!」



「橋を壊すのは二度までじゃ、三度目は戦の様子を見て行う、儂が命じるまで三度目は壊しては成らぬ、皆の命を預かるので太郎に任せて欲しい、頼む皆の衆!!」



富士川太郎は徳川家康の嫡子であった信康である、母親であった築山御前が家康を亡き者にしようと信玄と図った暗殺事件、大岡弥四郎事件の犠牲となって嫡子の座を奪われ母と一緒に岡崎の城を追放された徳川信康である、その後信康は母とも別れ何時しか河原者となり富士川の長である一番に見出され娘婿となり今では富士川太郎として河原者の中心者の一人として地位を築いていた。


信康が河原者として生きている事を服部半蔵の調べで知る家康、息子がどのような形であれ生きている事に安堵し陰ながら支援をしていた家康、この事は北条家の当主に伝えており北条家側の領地となる富士川の河原者には特に税など求めず目こぼしをしていた。


河原者の多くは橋渡しという重労働であり天候に左右されるその日暮らしの者達である、その者達から税を搾取するなど出来ぬ話であった。


史実でも北条家は祖の早雲の教えにより民を虐げずに民が安心して暮せるようにとの教えを守り家に銭が無くても年貢は5公5民以上取らなかった家であり戦国時代の中で善政を敷く北条家であった。


今の三家では4公6民という善政を取りそれでも充分に国力を充実させるだけの財力が整っていた。


富士川太郎は岡崎の城で育ち気が荒く数々の問題を起こす問題児であったが城を追われ事で、身分として最下層の河原者となった事で全くの違う別人として成長していた、頼る者が無いという試練の中で嫌われ者である最下層の者達程情に厚く面倒見の良い雑草の集まりであり、雑草という特殊な環境の中で力を付けた太郎、太郎が二度の橋を壊す事と三度目の橋を壊す事の意味は全く別の意味があると考えていた、太郎ならではの武士として育った経験からの判断であった、この三度目の橋を打ち壊す事で関白軍は追いやられる事になる!!


関白が着陣してよりほぼ1ヶ月が経過するも両陣営に動きなく北条側からの夜襲も無かった、そこで関白より小高い山、石垣山に陣地構築を築けとの命が発せられた、命を発する前に官兵衛より二度ほど調査の為に配下を遣わしたが戻らなかった説明をしており北条側でも警戒している山であろう事は伝えたが秀吉は少数の者では無く100名程の兵を整え屈強の者達を派遣して調査する様に命じ官兵衛も受け入れる事にした。


程なく鉄砲隊を含めての武装を整えた者達が石垣山を目指すため物見が放たれる事に、石垣山は右側に相模湾現在の早川駅、直線で約2.2キロ、左側は入生田駅より直線で1.2キロの地点にあり両側の地点からなだらかに上り作られた標高260m程の山である、なだらかとは言え重武装の兵士には1キロ以上を上って行かねば頂上には辿りづけず決して楽な小高い山とは言えなかった、特に入生田側からの登坂は残り300mはやや急な斜面となり難儀な事と言えた。


夕刻になり10名程が無残な姿で戻った物見の配下、その姿は鉄砲傷と矢が刺さり重傷な者達であり戦闘が行われたと即座に判断した官兵衛、残りの者は動けぬ状態となりほぼ亡くなってしまったと説明を受け、山の上には見た事の無い石で固められた砦が出来ており多数の北条勢が籠り100名程度では近づく事も出来ずに逃げ帰るだけで精一杯であったとの報告であった。


ここに史実には無かった石垣山合戦が始まる事になる。


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