海賊衆の心意気


海賊衆と聞くとイメージ的に悪者という感じですが、兵士であり漁師でもあり、海運を支える者達です、陸路では関所を通行する時に税を払って安全に通行します、霞ヶ浦や琵琶湖、瀬戸内と言った海運が栄えている所では商人の船などが安全に目的地に到着出来る様にその海を治めている海賊衆に税を支払うのです。




海軍士官学校が開校した事により隠居していた、国人領主の菅谷政貞の父、菅谷勝貞が仕官学校の話が持ち上がり同年代の隠居していた者達を引き連れ、眠っていた海賊衆の心に、ここは俺達の出番が来た、俺達の方が船の事を知っているとの自負から、勝貞を初め隠居衆が徒党を組み直訴した結果、仕官学校の学長に勝貞、教える教員に隠居衆が任命されたのが4月の初めの事である。




5月1日夜佐竹との戦が始まるという事で勝貞と隠居衆には合戦への参加許可が出ず、不貞腐れ霞ヶ浦菅谷城で飲んだグレテいた。



「屋形様も遠慮せずに我らを頼れば良いのに、折角我らが現役復帰したのだから、海賊衆の力をなんだと思うおるのかのう」



「そうよ、儂が御屋形様の教育をこっぴどく行ったもんだから、まだ恨んでおるのかのう」



「親分よ、あれは酷かったからのう、御屋形様が中々泳ぎを覚えんからって浦のど真ん中で船から蹴り落した時は嫡子を殺して家乗っ取る気なのかと思ったわ、わっはははは」



「馬鹿言うでねえーあそこは浅瀬の背が立つ所よ、だから蹴り飛ばしたのよ、御屋形様は知らぬもんだから、蹴り飛ばされた時は水中で、殺さねえーでくれーと叫んでバタバタしてたが、背が立つから立ってみいと、言ったら立ち上がったでねえーか、あれがあったから泳げる様になったんだ、あっはははは」



「他人が聞いたら俺が極悪人みていだ、あっははは」



「まあー海賊衆も気が荒れーい奴が多い、御屋形様を蹴り飛ばす位の人じゃねえーと親分は張れねえな」  



「そんくらいで丁度いい、そんだそんだ」



「彦太郎様にはまだそんな危ねえー事してねえーべ、あんだけ親分に懐いている嫡子だし」



「彦太郎様を蹴飛ばすなんて事は儂でも出来んわ、あれは4才頃じゃった一緒に毎日の様に浦の浜で遊んでいた時よ、彦太郎様がな、彦には二人の父がおると言うのよ、二人と言うから誰ですかと聞いたら、父の氏治様と爺の勝貞じゃと、言うから、儂はその場で泣いたぞ、嬉しくて嬉しくて、泣いたら今度は彦様が儂の首に手を回して、大好きじゃと言ってくれたよの、あれから儂は仏になったのよ、絶対に彦様を守るって誓ったのよ、それに本当に聡明で息子の政貞とは大違いよ」



「そんな事があったのけえー、流石親分だ、彦様も戦に出ねえーで小田の城におるから安心だな、しかし、このむさ苦しい爺達がここで燻っているのもなんだかなあーって話だ、学校の生徒も戦が終わるまでここで待機だしな、まあ仕方ねえーか」



「泳ぎの調練くらいしても罰があたらんでは無いか? 那須から来た半分の5人は金槌だと言っていたぞ、船の事より先に泳げる様にしねえーと落ちたら死ぬぞ、小田のもんなら死んでも言い訳出来るが、他家の那須の人が死んだら大変だぞ」



「よし、船より先に泳ぎだ、泳げねえー奴を目の前の浜で明日から調練するべ、今夜これでお開きじゃ」



同じ頃芦野軍別動隊陣地でも竹中半兵衛は芦野、伊王野、千本の領主他忠義と明日の戦について軍議を行っていた。



「敵兵の白河軍の方が軍勢が多いにも関わらず、遅々として戦場に現れません、一里先に布陣したと聞きましたが進軍せずに日が落ちてしまいました、皆様如何思われますか?」



「確かに半兵衛殿が言われる通りであるが、聞いた所、白河家の当主は臆病で中々決断せずこれまでにも佐竹にいい様にやられていたと聞きました、そこで白河家では最近何かにつけ、政も戦評定も副将の小峰と言う庶流の者が取っている様です、明日からはその者が指揮を取り戦を行うかと見ております」



「成程辻褄が合いますね、念の為敵側が攻撃しやすい様に此方の足軽半数と騎馬100騎程後方に下げて敵が此方の兵数が少ないと見せかけ誘いましょう、鞍馬の忍び、はいるか、鞍馬の者を呼んで欲しい」



「はっ、お呼びでしょうか?」



「うむ、明日未明に白河陣営に訪れ、佐竹の忍びと称して敵の当主白河様にお伝えしたい事がありますと言って訪れるのだ、佐竹の忍び言えば話を聞いてくれよう、そこで当主に会えたら、こう申すのじゃ、芦野軍の足軽半数が昨夜の内に逃げました、白河様の軍勢の多さに半数が逃げましたと伝えるのじゃ、さすれば明日こそは戦を仕掛けて来よう、佐竹の忍びと称して話して来るのじゃ」



「簡単な事で御座います、お任せ下さい」



「これで予定どおり攻めて来るでしょう、攻めて来たら打ち合わせ通りに動いて下され」



「うむ、承知した、流石は親族の婿殿じゃ、良い手である」



「お褒め頂き、ありがとうございます」  




5月1日は結局どの戦場でも敵側からの攻撃が無かった、正太郎の騎馬隊も白河の関を抑えそのまま南下し白河軍に攻め入る予定であったが白河軍が陣形を組み進軍する物と思いきや停止してしまい、関を抑えず山林に伏し隠れるしか無かった。



5月2日深夜に正太郎の元から放った飛風、颯、子申が十兵衛、半兵衛、当主資胤に正太郎からの火急の要件が報告された、小田家と対峙している佐竹結城軍も布陣を敷くも攻撃を行わず、芦野別動隊、那須本軍も同じく敵からの攻撃無し、時間を稼いでいると、このまま那須に攻撃がされない場合、小田軍が危ない、私の別動隊は一部を残し、小田に援軍として向かう、敵側に戦闘を誘引し早く合戦を開始すべし、という内容が伝わった。



この報告を聞き、十兵衛は御所警備より帰還合流した150名を残し、2日の戦闘が始まった際に予定通りの行動を取る様に差配し、残り250名の騎馬隊を急ぎ南下させ小田軍に向かう事にした。




芦野軍も3日朝朝餉を早く取り白河軍に戦を仕掛ける事にした。



朝方7時鞍馬の忍びが役目を終えて半兵衛の元に報告を行った。



「無事に先程敵副将の小峰と申す者に、佐竹の忍びと申して、那須側の足軽半数が逃亡したと伝え信じて頂けました、ただその際に、不思議な事を申されていました、その方の報告ありがたく頂戴する、しかし我ら佐竹殿から攻撃の合図があるまで布陣だけ行い4~5日時間を稼いで欲しいと頼まれている、その方の預かり知らぬ事であろうが、那須の軍勢が少数となるは吉報である、と申しておりました」




報告を聞き、やはり若様が危惧された状況となっている、佐竹に伏兵あり、その伏兵を待ち、到着次第小田を殲滅し全軍で那須に襲いかかる算段であろう、この戦場を決着させ、小田に向かわねば危険であると判断した半兵衛であった。




── 海賊衆の心意気 ──




5月2日朝8時頃銚子側の漁師より菅谷勝貞に報告が入る、上総千葉家の家紋を背負った軍勢が土浦に向かって進軍しているその数2500程の大勢であるとの内容であった、菅谷城の前の浜で那須の者に泳ぎの調練を開始して間もなくの事であった。




報告を聞き、急ぎ菅谷城に戻る勝貞、狼煙を3本挙げよ、急ぎ上げるのじゃ、城に残っている者を至急広間に集めよと指示を出した、集まった隠居衆及び近在の海賊親方が集まり勝貞が告げた。



「此度の佐竹との戦で隙を突いて上総の千葉が2500の兵で小田城に向かっているこれより急ぎ霞ヶ浦の海賊衆をこの菅谷城に集める様に急ぎ伝えるのじゃ、武器庫を開く、弓槍武具を自由に使え、急ぎ集めるのじゃ、小田城には老兵しかおらず嫡子彦太郎様が危ない、幸いこの城は小田城の手前である、ここで千葉を食い止める、皆の者今こそ我ら海賊衆の力を示す時ぞ、急ぎ人を集めるのじゃ、と指示を出す菅谷勝貞であった。




霞ヶ浦の隣は上総であり、現在の千葉県である、霞ヶ浦出口の外海南側は銚子、常陸との堺は利根川で、その利根川を北上すれば自然に土浦に着く、その途中に菅谷城がある。




銚子から菅谷城まで65キロ、銚子で確認してより、今は満潮に向かう時刻船足は追波であり船足も速く、報告は朝8時に知らせが来た、逆算すると、千葉の兵は朝6時前に進軍を開始ており銚子を過ぎている、菅谷城付近に午後の3時前後、夕刻前に小田城に攻め入ると読んだ菅谷勝貞であった。



年老いたとは言え菅谷軍を率いた老将であり、戦経験豊富である、その判断に迷いは無かった、菅谷勝貞は小田城に千葉の兵2500が攻めて来る事を伝え、残っている者で城固めを指示すると共に、小田氏治の元にも千葉の兵2500が小田城に向かっていると知らせた。



氏治は全兵力6000の布陣で対佐竹結城連合軍に備え鉄壁の布陣を敷き備えていた、前日に攻撃をして来ない佐竹に訝しむも翌日には合戦が始まるものと考えていた、そこへ小田城に千葉の軍勢2500が向かっているとの報に接し、急ぎ籠城に備える為に足軽1000名を城に戻す事にした、これにより佐竹結城軍8500に対して小田氏治の軍勢は5000となった。



小田氏治の計略は敵側の兵力を削り、3000の兵が戻れれば城を数日間は守れると読み、5000の兵で布陣を敷き直した。



勝貞は敵の目的は小田城の落城であり、小田軍の城を占拠し、降伏させる事だと理解し千葉の兵を一刻でも足止めする事にした、海賊衆は船での戦を主としており、主な武器は弓になる、火矢での攻撃で敵船の帆を燃やし、動きを止め敵兵を仕留める戦いである、陸戦での戦いは不得意となる、そこで千葉が通る菅谷城前の道に木材や枝を集めさせ油をかけ、火責めを行い同時に通行の邪魔をする事にした、千葉兵が来るまで残り6時間程となる。




新たに出現した上総の千葉氏とはどの様な大名家なのか。



関東八屋形の一つであり格式ある家である、しかしこの1566年の史実では当主の千葉親胤ちば ちかたね16才は父が急死した事により当主となるも、重臣であった原と意見が合わず、原胤清、胤貞父子に若い当主は幽閉され、家を乗っ取られてしまう、翌年には原親子の傀儡として千葉胤富ちばたねとみが当主となる。



その後、紆余曲折はあるが原胤清は亡くなり、息子の原胤貞、その息子の原胤栄たねひでが実権を握る、本来の石高は30万石あるが原父子によるお家乗っ取りに反発した国人領主もおり現況は15万石の石高である、原が小田家を攻略する事により、反発している国人領主達を引き寄せ更に佐竹と交わした小田側の領地3万石を得る約束のもと進軍を開始した。



常陸小田家に忍び寄る佐竹による奥の手が戦局を複雑にさせ、軍師玲子を含め誰も読めなかった一手が明らかになった、包囲網17000の兵に対して止めの2500名が佐竹側に追加された事になる、対する那須小田軍に追加出来る兵は正太郎の特別騎馬隊250名である、果たして行方はどうなるのか。





佐竹の奥の手、局面を変えましたね、流石佐竹義重です、外から駒を持って来ました、持って来た駒は一癖二癖ありそうな原親子というお家乗っ取りの親子でした、下剋上です。

次章「突撃騎馬隊」になります。

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