仕置と解体
那須資胤は伊達を叩く為に名取まで北上し伊達の帰る浜通りの道を塞ぎ伊達軍に襲い掛かる事に、その思惑を察知し危機的な状況に押し込まれる事を理解した伊達輝宗も歴戦の武将であり伊達家の領地拡大にひた向きに走って来た者である、その輝宗は南に相馬家、更に援軍として自分の実の兄上である岩城親隆が参戦した事に驚愕していた、本来は伊達家を継ぐ兄が敵となった事で尋常では無い事態が、危機が訪れたと悟り、急ぎ最上に援軍要請行った。
岩城親隆は伊達輝宗の実の兄であり伊達家の家を大きくする為に人質として政略の為に他家に養子となり不遇の辛酸を舐める苦労をして来た、その苦労がやっと実り始めた時に隣の相馬領に戦を仕掛けた事に腹を立て援軍として相馬に参戦したのである。
輝宗に攻められている相馬家当主相馬義胤の正室は
相馬と那須資胤に挟撃されると危機と感じ相馬への攻撃を諦め最上が来るであろう道を退路に選び米沢方面へと撤退戦を選択する事に、
「これより鋒矢の陣にて殿を叩く、石火矢、矢をふんだんに使い、殿を壊滅させる、敵陣を通り抜けたらそのまま本体を追いかける、振り落とされるな、駆け抜けよ、では隊列を組め、突撃致す!!」
500名一隊の鋒矢を作り突撃させた資胤、その破壊力はすさまじく、連続して5隊、6隊と更に7隊、8隊と容赦なく突撃していく那須軍、3000いた殿は資胤軍が通り過ぎだ時には無残な屍の山となっていた、資胤は今回の戦が最後になるであろう事、そしてこの東北側、奥州内での大名同士が戦う戦を最後とする為に容赦ない戦にしなければならないと考えた。
ほぼ壊滅した殿に、今度は
資胤は山中に逃げる者、降伏する者には目もくれず、本体を攻撃する為に追いかける、このままでは全滅すると伊達が終わると考えた輝宗は伊達郡手前の宇多川と広瀬川が合流する蓮田の小高い丘に陣を構築する事に、撤退している中村街道は宇田川に沿った河川の道であり両側は山であり斜面の為山裾の幅は100~200mの中に川が流れており、道幅も狭く、大軍での移動には適していない道である、追いかける那須軍も細長くなり数列でしか進めない。
伊達輝宗は中村街道がやや広くなり追いかけてくる那須軍を迎え撃つ場所として蓮田の地点を選んだ、攻撃する側に取って最適の場所と言えよう。
狭い出口に向かって突撃して来る那須の軍勢にやや広くなった蓮田で激しい戦闘が開始された、狭い出口から出て来る那須の騎馬隊、その騎馬に5人10人と長柄足軽が襲って来る、当然狭い場所での乱打戦に那須の騎馬隊も損耗して行く、騎馬は目の前に沢山の人がいる場合、馬自体が前に進む事に躊躇してしまう、混雑した中では馬も自由に動けず、騎手が操っても後ろにも前にも進めなくなってしまう。
騎馬は動けてこそ活躍できる、混乱した乱打戦となり騎馬隊にも被害が出始める中、資胤は後方の騎馬隊に一斉に石火矢を乱打戦の中に撃つように命令した、馬にも被害は出るであろうが石火矢に成れている騎馬隊の者達は鎖帷子を身に付けており石火矢による負傷は軽微と考え、敵の長柄足軽が爆発に驚き攻撃力を弱める為に一斉に石火矢を命じた。
数百発もの石火矢の炸裂により動きが止まる敵の攻撃、石火矢に気を取られ隙間を搔い潜り動ける場に移動する騎馬隊、進めば進むほど広い場所へ移動し、今度はそこより動ける騎馬隊から援護の矢が次々と撃ち込まれ被害が拡大する伊達郡、その乱打戦に新たな大軍が、最上の軍勢1万が駆けつける事に。
その後方には最上を追撃していた会津蘆名軍資宗の軍勢1万も近づいていた、相馬中村城の兵6000も資胤に追いつき乱打戦の中に怒涛の激流となって伊達軍に躊躇せず突撃する、騎馬隊は矢の援護を千本を超える矢が間断なく飛び交う中に、最上軍も伊達を助ける為に流れ込んで来た、近づく最上に石火矢を撃ち込み炸裂しては数名が弾ける、石火矢を知らぬ最上の軍勢、鉄砲もそうであるが音による恐怖という物は戦意を奪い恐怖へと変わる、音とは武器である。
幅250mの中に浅い河川が流れ、長さ1200mの楕円の広場に伊達軍5500、最上軍1万、そこへ相馬軍6000と那須軍1万の所へ蘆名軍12000が街道の出口を塞ぐ形で入って来た、蘆名軍には那須高林から飯富率いる槍騎馬隊2000という強力な武器が含まれている。
武田太郎は甲斐の国に、飯富は三条のお方と再婚し、高林にあった騎馬隊養成の太郎館があった場を譲り受け、那須家の槍騎馬隊の長として蛇行突撃をそれぞれが出来る様に調練に励み今では3000名を超える槍騎馬隊が出来上がっていた。
── 瓦解と降伏 ──
大聖寺城では二条関白と羽柴秀吉が織田信長に京の様子と管領家との和睦の元になる和議の条件について話し合われていた。
「今申した通り、此度の和睦は勅命であり、どんな事をしても結ばねばならぬ、上杉殿もそれを理解しこれよりは織田家と共に政に手助けすると申している、この羽柴秀吉が上手に纏めたゆえ、京に戻るが良い!」
「では我らが戻れば京にいる北条、小田、那須の軍勢は京を離れ戻ると言うのか? それは間違いないのであろうか?」
「それは麻呂が約束致そう、勅命に逆らい和議を壊す程愚かな者達ではあるまい、それとその三家は其方の織田信孝殿の代わりに御所を御守りしておる、京の民達も今は平穏にしておる、織田殿が戻れば役目を終え戻るであろう!!」
自分の息子が役目を放棄した事で恥を掻いた信長、京を抑えられた以上、ここで無理強いするは得策では無いと判断し管領と和議の条件を承諾し和睦する事になった。
一通り話し合いを終えた後、秀吉を部屋に呼びつけ、数発ぶん殴り一言。
「よう纏めた、褒めてつかわす、此度柴田との件はこれにて許す、次回は無いと思え!!」
「ははっはー、有難きお言葉、この秀吉、この命、殿のおん為に使って参ります!!!」
管領家と和睦した事で被害はそれなりにあったが、管領が政を手伝うと言う言質は信長を喜ばせた、これからは敵として厄介な管領家をゆっくり手なずけて行けば良いと、大きな障害が無くなったと自分本位に捉えた、ただ許せないのは息子の信孝であった、息子ゆえ示しが付かない火焙りの刑で見せしめにと思う程激怒する信長であった。
織田信長と和睦を結んだ上杉謙信、能登を獲り実質大勝利で終わった事で戦勝の祝杯を春日山城で行う事になった、上杉家重臣一同と北条家、小田家、那須家の面々も歓待される事に。
「此度の勝利は実に大きい事であった、管領家として国中にその武勇が広まるであろう、最後に能登の地を得た事は実に喜ばしい、加賀と能登の地は朝廷も上杉の地と認めた、織田も認め撤退したのだ、我が上杉家の石高は大幅に増えた事になる、これよりは大交易の時代になって行く、儂がおるから心配はいらぬ、此度は北条家、那須家、そして京を見事抑えた小田家にこの謙信頭を下げ感謝致す、今宵は存分に祝杯をして頂きたい!!!」
「御実城様此度大勝利誠におめでとうございます、我ら三家もこの上なく喜んでおります、そして那須資晴殿も津軽安東家への援軍もあり大変ではありましたが僅か数日で南部を追い返すなどご活躍お見事でありましたな、明年は某の妹と婚儀であります、鶴姫も美しく育ち、嫁ぐのを心待ちにしております、この氏政も此度喜びが二重にも三重にも重なり安心して戻れます!!」
「お~明年であったか、資晴殿、それは喜ばしい事じゃ、沢山の祝いの品を持って駆け付けますぞ、何しろ儂は烏帽子親である、あっははははー!!!」
「御実城様それなら、某も資晴殿と正式に義兄弟になりますぞ、これはこれはあっはははー!! でありますな」
(何があっははははーなのかと、人を出汁にして勝手に盛り上がっている祝勝会であった)
「これより突撃致す、続け、薙ぎ払え!!」
15000はいる敵軍勢の塊に蛇行突撃する飯富騎馬隊、槍騎馬隊500騎と弓騎馬隊100騎からなる組を複数作り突撃を開始した、最上、伊達の陣形も整っていない中での乱打戦となり飯富騎馬隊の動きは水を得た魚の様に縦横無尽に障害物が無いのではという程自由に動き回り、騎馬隊が通った後は累々の屍の道が出来上がっていた。
陣を構えて防御しても防ぐ事が中々出来ない蛇行突撃、軍勢が固まっているだけの状態ではもはや抗う術は無かった、その攻撃力は止める事は無理である判断した最上義光と伊達輝宗は降伏の旗を掲げた、降伏するより他に道は無かった、逃げ場が無い以上全滅を待つだけであり回避するには早めに降伏するしか無かった。
南部は油川の地を譲り領地に戻り、最上と伊達は降伏する事になり、一応の決着はついた事になる、那須資胤は降伏の条件として那須に臣従を求めた、近い内に当主が嫡子に継がれ時代が新しくなるこの時に息子資晴が行う政が二度とこのような他家の領地を狙い広げる愚かな行為に及ばぬように臣従を条件とした、条件に従わずはこれより最上と伊達の領内に攻め入ると資胤らしからぬ強要とも言える強硬な姿勢で臨んだ。
最上も伊達も、既に戦意を無くなしており、素直に従う他道は残されていなかった、両家は織田信長からの依頼に応えたばかりに否応なしに那須に臣従する事になった、両家は後日、那須に主だった重臣を従え約定を交わす事に、その約定の場には那須資晴が立ち会う事に。
戦を終えて那須に戻った資胤の元に蘆名で庇護を受けている結城白河家の稚児当主結城義顕についてどのように差配するか
今から100年から70年程前の結城白河家の権勢は東北の覇者として君臨していた応仁の乱の影響はそれほど濃くなく家の家格がこの地では通じていた、家の石高に関係なく家格が上の者が尊敬され下剋上という力の支配が確立される以前の結城白河家は上位の家であった、その家を支えていたのが小峰家であり結城家の親族であった、しかし、時代は変わり武力のある家が家格とは関係なくのし上がる中、懸命に結城白河を支えた家も小峰家であった。
その後、佐竹に侵攻され弱る結城白河家を支えたのも小峰であった、最後那須に臣従する形となったが10万石に復活された功績も小峰であった、主家の結城白河家は全ての面を小峰に任せており亡くなった当主も何も行わず、今の稚児当主に代替わりしただけであった、忍びの報告にも詳しい内容が書かれており、小峰は私利私欲には走っていなかった、ただ今の稚児当主と自分の孫を確かに入れ替えを行っていた事は事実であった。
小峰家のこれまでの功績と犯した罪を考えた時、小峰家を排除した場合、結城白河家は成り立たなくなるという結論であった、小峰家より多くの人材が家を支えており、その者達も真面目に主家を支えていた、実に難しい舵取りであった。
結城白河家が那須に臣従させた時に白河の関と接している芦野家が面倒を見る事になり、復興の手助けを行う目付となり、資金面も含め多くを援助していた、元々芦野家より大きい家であり歯車さえかみ合えば復興も速く今では自立している、しかし今後も芦野が大きい一役を買わねば此度のお家騒動は解決できないと考え英断する事に。
結城白河家は結城家の分家として生まれ、結城家は小山家より分家した家である、要は小山から結城に、結城から結城白河に別れた、そこで今の結城白河家には血筋として稚児当主である結城義顕に繋がっているが、当主に戻してもそれを支える家臣が少ない事、小峰氏を支持する者が大半という事実、政を行う上で小峰家の者達が必要な事などを考慮し予想外の決断を行った。
城代の小峰義親には罰として城代の任を解き隠居とし引退に、代わりに城代として竹中半兵衛を据え置き、半兵衛の元で結城義顕を育てる事に、それと小峰の家の者はそのまま政に以前と同じく従事させる事にした、それと追放されていた郷石見守、郷土佐守父子、柏木隼人、忍右京進の四名も復職された、竹中半兵衛は那須家の中で地位を確立しており、芦野家親族の百合と結婚しており、半兵衛は芦野家の親族と言う立場であり、元は国人領主であり、数々の武勇伝がある、日ノ本初の八卦の陣にて武田信玄を破った伝説の者として尊敬されている、結城白河家でも知らぬ者はいなかった。(半兵衛の弱点は正室の百合だという事は秘事されており問題ない人事と言える)
資胤の予想を超えた英断に芦野家は喜び、結城白河家は驚き、半兵衛はひっくり返っていた、父資胤の英断にニンマリの資晴、十兵衛は小山城の城代であり、半兵衛は白河小峰城城代になり、後は一豊をと考える資晴であった、一豊は陰の功労者であり常に資晴を黙って見守っていた律義者である。
やっと一連の戦いと反乱軍と決着ついたようですね、1575年はこれで終わりですよね? えっ、まだ何かあるの?
次章「飼殺し」になります。
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