豊穣祭り・・・1


「殿、若殿~100貫が戻りました、大津に戻り荷馬車を100台以上寄越して欲しいと連絡が届きました、満載に買い込んだそうです」



「でかした、さすが100貫である、一体何を買って来たのか気になるのう、儂まで心が躍るぞ、あ奴しかおらんと思った、伴殿が一緒なのできっと大丈夫であろう、500石船満載とは相当な量であるな、楽しみだ」



500石船とはその名前の通りお米500石が積める容量のある船という事である、一石が2.5俵なので1250俵も積めるという船である、一俵の重さが60キロである、75000キロも積めるという大きい船である、当時これより大きい船は1000石船と言う倍の船があったが、船が大きいだけあって寄港できる港は限られていました。



500石船満載に買い込んだ鞍馬100貫、一体何を買って幾ら使ったのかに興味が沸く正太郎達であった。



大津浜では500石船から運ばれた酒等を荷馬車に乗せ、次から次へ烏山に向けて列を成していた、半兵衛によって道の整備に砂利を敷設し押圧を行い押し固めた道の整備が進み、多少の凹凸があっても板バネの効果は絶大で荷物に与える衝撃を押さえ、車輪の回転もスムーズに行い無理なく移動が行え、途中二ヵ所の休憩所を設けていた、城まで80キロの距離、途中の大子では馬の交換も行える様に多数の馬が控えている、今では一日で充分片道を移動出来るのである。



大子の宿場町は近くの山から金が産出した事により那須では最重要地として町が大きく発展していた、宿場町としても多くの宿屋が誕生し、城下町に近い状況となり、金山で働く者が既に200名おり、今後二交代制を組み金山従事者を全体で600名態勢、周辺警備の騎馬隊など150名が常駐する計画である。



海からの産物も大子を通る為、駅舎も整備された、折角なのでここで大子について紹介しよう。




日本には何々三景とか、三大何々と言った、観光地を代表する名所によく使われる言葉ですが、この大子の近くに『日本三大名瀑』の滝があります、日本を代表する滝、その名を『袋田の滝』と言います。



『華厳の滝、那智の滝、袋田の滝』この三つが日本三大名瀑と呼ばれています、特に真冬は滝から流れる水が凍っているので神秘的です、是非訪れてみて下さい(ネット検索お勧め)、滝に行く途中には沢山のお土産屋がありますので楽しい所です。




余談ですが、華厳の滝は栃木県日光にあるのですが、その日光に湯滝、竜頭ノ滝という凄い滝もあります、そこから少し足を延ばせば、吹割の滝という日本のナイアガラと言われている滝もあります。



鞍馬が堺で買い付けた大量の品、主な物だけで、澄酒2斗樽200、濁酒2斗樽400、ごま油50樽、砂糖1200貫、味噌30樽、火薬200貫、金平糖一斗缶5個、カステラが入った桐の箱10箱、生糸、絹織物、葡萄酒30本、ガラスの器30個、着物生地200反、他化粧道具類50点他細々としたものと他に20名の職人やらであった。



大津から二日後に戻った100貫と何故かげっそりとした女将の伴が広間に。



100貫の報告では鉄砲を油屋に50丁渡した所大変に驚かれ、今では鉄砲の値が倍以上値上がりしており今直ぐに売らずに、時期を見て売るとの事です、買付けた品は全て油屋が支払い、後に鉄砲を売った時に差し引きするので一切銭の支払いが無いと言う事であった。



「なんと50丁で船満載の品が買えたのか、その様に鉄砲とは高い物であったのか、まだ倉庫に沢山あるぞ」




悪だくみを・・・考えようとしていた正太郎。



「ところで伴殿は大丈夫であるか? 無理せずに休むが良い、初めての船旅である、儂が我儘を言って堺にまで行かせてしまった、済まぬ事をした、梅、介抱を頼む、報告は後で聞くので休んで欲しい」  



ほぼ話も出来ずに床に着く伴殿であった。



「100貫よ、その方はなんとも無いのか?」



「はい、某は全くなんともありません、伴殿は帰りの方が波が荒く難儀しておりました、城に帰るにも荷車に寝かせて来ました、堺では油屋殿が医師を手配し見てもらっております、医師の話では船に弱い者と強い者がおる様で、こればかりは船に何度も乗り身体が慣れる他無いとの事でした、それと内緒の話ですが、ひよっとしたらお腹にやや子が宿っているかも知れない様です、まだ日数が足らず、本人も自覚が無く、はっきりとは言えないとの事でした」



「なんとなんと、それはとんでもない事をお願いしてしまった、大事なければ良いが、そうだ公家殿だ、ここは錦小路殿に見て頂こう、済まぬがこの後、この話を公家殿に伝え、城に来る様に図ってくれ、なんでもなければ良いが、大変な事をしてしまった」




その後公家が診立てゆっくり眠れば大丈夫であろうとの診断であった、やや子についてはまだ不明であるとの事であった。




さて祭りがあと一週間後と迫った、豊穣祭りは、三日間行い、昨年好評だった相撲大会と和弓による的当て競技行う事にした、弓の的当ては予選的当てを2回クリアした者が参加出来る事にした、何しろ参加希望が1000名以上いる事は予想出たので予選を設けた、矢が三本与えられ50間先の的を当てた者が次の100間先の的を当てるという単純の形式にした。




50間先はなんとかなるが100182m先とは相当な距離であり直射では無理である、50間の的に一射で当て、残り二本の矢を使い、弓を上に向け一本目の矢でおよその検討を付け三本目で当てなければならない、相当な技量が無いと当てる事が出来ないのである。



祭り準備で烏山城前大広場に大きい櫓を組み、一番上には烏山大太鼓の太鼓衆が、上から二段目の演台には笛等の祭囃子隊(太鼓・小筒・笛・鉦)による和楽器の演ずる者達、一番下の演台には踊りの上手い領民達20名と地上の櫓周りにも踊りの上手い領民達40名が踊りその周りで見ている領民達も自由に二重三重と輪を作り踊りに参加出来る様に今年は工夫した。



三日間の最後は勿論領民達が萌える那須巫女達による豊穣の舞を披露する事になっている、巫女達はこの一年領内を巡り領民から愛される萌える存在となり巫女になりたい女子達が多く、特に商人の子、自分の子をアイドルにしたいと申込みが殺到した。



武田家から巫女が戻らないという事で手練れの巫女四名も那須に来たがその者達も呪印解除を行い、その四名には20名の巫女達と新しく入る巫女達の育成を担ってもらい、今年は領民から4名の巫女候補が新人教育を受けている、いずれ結婚し卒業していく巫女達の後継者を正太郎は作る事にしたのである。



祭りでは領民が津波の様に押し寄せ、露店の準備は相変わらずてんてこ舞いであった。



各村からも露店要員を募集した、銭の無い者、米の無い者が色々な準備に参加すれば一日10文が頂けるという通知を行い、子供達は正太郎が行う麦菓子、麦茶、甘酒と目玉の肉の串焼き準備と当日の販売要員に子供達から募集した。



今年は母上は炊出し等には参加せず、百合、梅と侍女長が仕切る事になった芋粥、海魚の干物焼き、きな粉餅、大学芋、澄酒、濁酒を用意した、去年と同じ、それぞれ1文で買え、米一合での交換も出来る様にした、又当日銭が無くて買えない者を見つける、見つけ隊を作りその者達にも食べれる様に工夫した。



問題は腱鞘炎と戦い焼いては焼きまくる飯之助、今年は大学芋も披露する為芋との格闘を行っていた、麦菓子8万枚作る様に指示され、大学芋は一口サイズ3個で一人前、それを2万個作るのだと言われ、完全に頭が停止した飯之助、麦菓子は日持ちするので用意出来るが、大学芋は前日から一気に作らねばならない、作る工程は簡単だが芋は最初固いので柔らかくなり油で火が通るまでは時間が必要なのだ、最後は砂糖を溶かした飴を混ぜるだけなのだが、芋は麦菓子とは違って手間を要するのだ。




── 武田館 ──




「太郎殿、館が完成したと正太郎様から文が来ました、それと飯富殿の配下でありました騎馬の者達に守られて間もなく館に来られるとの事です、館にてお待ち下さいと書かれています」



「なんと本当でありましたか、話には聞いておりましたが、奥が本当に嶺松院来るのですね、それに騎馬の者達までが来るとは・・・この太郎言葉がありません」



「某も全く言葉がありません、この飯富、どの様にこの御恩を返せば宜しいか、我が配下の騎馬の者達は私が育てた者達であり家族なのです、二度と会えぬと思っておりました、若様、太郎様、この御恩必ずお返しいたしましょうぞ」



太郎達は館が出来るまで板室温泉での長逗留をしており、その間に五藤、林から那須の家について、嫡子正太郎の事、佐竹との合戦、五藤達の主人である山内一豊、明智十兵衛、竹中半兵衛等の出自などを聞き、全く武田とは違う、他の者を殺し富を得るという世界とかけ離れた家であり、数百年に渡り領土を守って来た家という確固たる裏付けが備わっているのが那須であると感嘆していた。




武田家にも本来その様な裏付けがあった筈であるが、遠くの昔に忘れ去られてしまっている事に恥じると共に父信玄が犯している他者を殺し、富を得るという行為が如何に恥ずべき事であり人外の行いであり、人として犯してはならないと、人としての矜持に目覚めていた。




武田館は板室温泉地よりやや南側の地に建設されていた、街道からやや離れ、現代の高林という地域になる、温泉地にも近く、烏山城までは騎馬にて二刻程の距離となる、全体が緩やかな南傾斜の地であり、河川もあり、切り開けば農耕にも適した地に建てられた。




武田太郎達が新しく出来た館に到着し見分すると驚いた、単に居住が出来る建物という館ではなく、館の周りに騎馬隊と家族が住める戸建ての武家屋敷、隣にも兵士が居住出来る長屋まで作られていた、館も300坪は在ろうかという立派な建物であり、館の敷地も3000坪程あり、砦という言葉の方が適している館ではあった。




館には資胤の奥方藤が派遣した侍女達と小者達が向かい入れの準備をしており、嶺松院様お付きの侍女達へ引継ぎが終わるまで滞在する手筈になっていた。



正太郎がこの地を選んだには理由があった、板室の先は白河結城家とその後方に蘆名家が控えており、その両家が仮に那須に攻め込んで来る場合に那須七騎の芦野と伊王野だけでは大変に厳しいと考え、援軍となる支援策としてこの地に館を構えた、但し現状では、白河結城家、蘆名家との揉め事は無い。



又、この地なれば、武田信玄にも太郎達がこの地にいる事など露見しないであろうとの考えであった、一緒に来ていた五藤と林もその立派な館を見て。



「これは立派な館で御座いますな、正太郎の様の館より大きい建物ですな、これなら奥方の嶺松院様もご安心されますでしょう、いや~素晴らしい館です、我ら二人はこれより城に帰りますので、嶺松院様へよろしくお伝え下さい。」





那須の地に武田騎馬隊が誕生するとは考えても見なかったストーリーになりました、この作品はどこに向かっているのでしょうか? 私にも判りません、なんとか連載89まで来ました、日々更新、先ずは100を目指します。

次章「豊穣祭り2」になります。

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