決別


── 小田原外郎家 ──





この日の夜、一仕事を終えPCに向かいある画面に釘付けとなった軍師今成玲子、画面を見つめ興奮した口調で夫の洋一を呼びつけた!!



「洋一さん! 洋一さん早く来て!・・早く来い!!」



「はいはい・・どうしたの大きな声で?」



「あったの! あったのよ、見つけたのよ!」



「何を興奮してるんですか? 何を見つけたの?」



「今成よ! 今成家の先祖の家が小田原にあったの!!」


※ 本当の話です。


「えっ! 確か今成家の先祖は川越の宇野源十郎さんという人がこの川越の今成と言う名前の村を北条家から拝領した馬廻役の人でしたよね?」



「うんうんそうそう、その宇野さんの実家が今もあったのよ、川越の宇野さんの本家が今も小田原に実在していたの、その家が今成家の源流よ!!!」



「それは凄い話ですね、良く見つけましたね! どうやって見つけたのですか?」



「前に石の蔵で見つけた今成神社を寄進するときの勧進帳がヒントになったの! 北条分限帳には宇野源十郎 200貫465文 武蔵国川越筋今成 御馬廻衆と書かれていたけど、勧進帳に書かれている寄進者の名前では宇野藤右衛門尉で記されていたよね、なんで名前がちょっと違うのかなと不思議に思っていたけど宇野さんの本来の氏名が宇野藤右衛門慰だったの! 分限帳に書かれた時には既に領地を拝領された後の変更された氏名で書かれていてそれ以前の正式名は宇野藤右衛門尉だったのよ!!」



「なるほど分限帳に書かれた名前は既に川越の領地を拝領して河越衆と呼ばれる支配者層の仲間入りしていた名前で記載されていた訳ですね、勧進帳の寄進者名はそれ以前の名前であったという事ですね!?」



「そうそうそれだけでは無いの今の川越市の史跡紹介の資料では今成神社の寄進者の勧進した人の名前は川田備前守今成という名前で紹介されているの、他にもその横にあったと思われる今成館も川田備前守今成の館だと紹介されていたの! 川越市のHPにそう説明されているの」



「何?その川田備前守今成という名前? 宇野さんと同じ人?」



「基本同じ人と考えていいと思うよ、この川田備前守今成という名前は官位の名前だよ、宇野さんは紛れもなく立派な武将で官位まで持っていたという証拠、最初の川田は川越の川と村が作られた時に田を多く作った象徴から付いたかもね、後に川越の地名も河越と書かれていたりそれが今は川の字に変遷しているから大昔は河田って呼ばれたかも知れないね、でも大切な事は官位まで頂けた人で北条家では大切な人材だったという事よ! 最初に戻るけどその宇野さんの実家が今でも小田原に外郎家という名前で存在しているの!!」



「私達の今成と言う先祖は中国から渡って来た医師みたいよ、それも優れた人で朝廷とも関係があったご先祖様みたいなの、外郎家ういろうけという名前の立派な薬屋さんがあってその外郎さん、現在の当主も外郎藤右衛門さんという名前の先祖代々から藤右衛門さんという名を受け継いでいて、今も宇野さんと同じ藤右衛門さんよ!」



「じゃーその藤右衛門さんから別れた人が北条家の武将になる訳ですか?」



「恐らくそうだよ、ちょっとここに書かれている外郎家の紹介を先にするね、歌舞伎の二代目市川團十郎が作った歌舞伎外郎売りが外郎家の商品だから歌舞伎が好きな方ならこの話を聞けば驚くよ! 歌舞伎俳優の二代目市川團十郎だんじゅうろうが持病で声が出なくなり、役者人生をあきらめかけていた、ところが『ういろう』喉薬が喉に効き目のある薬だってことを聞き服用してみると病がすっかり治りそのお礼にと演じたのが歌舞伎十八番の『外郎売』なの」



※ では外郎家の歴史紹介をここで参照に!!


外郎家は中国の元朝で1271年~1368年に仕えた公家の家系、元朝は、1368年に明朝に滅ぼされますが、このとき、日本における外郎家の初代となった陳延祐ちんえんゆうは命からがら日本に亡命し九州の博多に、博多の妙楽寺には『ういろう伝来之地』の石碑があります。


陳一族は延祐が、中国で礼部員外郎れいぶいんがいろうという役職についていたため、その官職名の一部をとり、後に、日本では『 外郎ういろう』姓を名乗る事に。


延祐は、製薬や医術に関する中国伝来の知識と技術を持っていたので、京都の第三代将軍・足利義満に招かれましたが、九州を離れようとはしませんでした、延祐の死後、二代目の大年宗奇たいねんそうきが京都に上り、将軍に仕えた。


この宗奇が処方する薬は、大変な効き目があり朝廷や幕府の人々に重用され、時の天皇から香透頂とうちんこうという名を授けられる、京都で幕府の傍らに邸宅を与えられ、典医の職にも任用されるほど重用されていました。


五代目の定治は、京都の家や典医の職を弟に託し、当時関東で台頭し、小田原も支配下においた北条早雲の招きに応じて、小田原に移住します。


京都から小田原に居を移した理由は足利将軍家の騒動から始まる戦国時代に突入した1467年からの戦乱で京都の街を焼き尽くした応仁の乱が主原因、洛中が荒廃し神聖な薬をつくる環境が亡くなった事。


結局、京都に残った外郎家はその後、途絶えてしまい、小田原の外郎家は今日まで残っているのですから、この時の判断は正しかったと、早雲が目を付けたのが京都で活躍し、しかも将軍家とのつながりも強かった外郎家。


こうして、早雲の招きによって関東にやってきた外郎家は、製薬や医術はもとより、軍事顧問的な役割、さらには、薬を各地に持っていく中で、その土地の情報を集める諜報・外交官的な役割も担う事に。


16世紀前半頃の北条氏の家臣。藤右衛門尉。中国出身の薬商人である陳宗敬(陳外郎)を祖とし、京都で透頂香(外郎)という丸薬を扱っていた京都外郎家の出身。江戸期に成立の「陳外郎家譜」には、宇野定治は陳祖田の子で、北条早雲(伊勢宗瑞)の招きにより京より下った小田原外郎の祖とある。


亨禄四年1531年北条氏綱は制作を進めていた『酒伝童子絵巻』の詞書や奥書の礼金を、定治に命じて近衛尚通や三条西実隆に届けさせている。この内、奥書を担当した三条西実隆の日記である『実隆公記』享禄四年閏五月二十一日条によれば、この日、外郎家の青侍が奥書を揮毫する料紙を持って訪れた。手土産は薫衣香や透頂香であった。同年六月二十二日に「外郎被官卯(宇)野」がやってきたので、実隆は認めた奥書を渡している(『実隆公記』六月二十二日条)。


『実隆公記』に「外郎被官卯野」とあることから、定治が京都の外郎家の家臣と認識されていたことが分かる。定治はこの時には既に北条氏に仕えていたとみられるが、依然として本家筋の京都外郎家と緊密な関係にあったとみられる。このため、外郎家が交流を持っていた幕府要人や文化人たちとの折衝を氏綱から期待されたのだろう。


なお、定治はこの年に小田原城下に寺院を建立しているため、おそらく永正年間には小田原に下向し、北条氏と被官関係を結んだものと考えられる。


天文八年1539年二月三日付の北条氏綱判物写によれば、定治は『河越三十三郷之内今成郷』(埼玉県川越市)の代官に任命されている。永禄二年1559年(1559)作成の『役帳』には、宇野家治(定治の子)が川越領今成で二百貫四百六十五文の地を所領としていることが記されており、今成の地が定治の代官職を経て北条氏直轄領から宇野氏の所領となったことがうかがえる。


以上の見解に基づいて今成家の先祖は外郎家から始まったと作者としてここに記したい、今成家のルーツを解き明かした人は現段階では誰もいません、その理由は各地域にある歴史資料が統合されておらず大名では無い人物まで編纂されない事で判明出来ないという、今成性は全国約3300番目以降の名であり誰も関心を持たない氏でありますがルーツに辿り着けた事に読者の皆様に感謝致します、この作品で紹介できた事、大変にありがとう御座いました。



これより本編に戻ります。




── 決別 ──



年が明けて10日、烏山城に登城し謁見となった黒田官兵衛は一通りの挨拶を終えて本題の臣従についての話となり行き詰っていた。



「那須の御屋形様は関白殿下の差配に従わずとの事でありますがそれでは帝を蔑ろにする行為となり逆賊の誹りを受けますぞ、場合によっては打ち滅ぼされる事に繋がります、その点は如何にお考えでありましょうか? 賢明なる那須様でありますどうか納得の行くご見解をお願い致します」



「黒田殿よ! 良く聞くのだ! 物事には道理があり理があるのだ、その道理を超え理を壊した政には暗き道しか無いであろう、関白殿下はその道理を無視し理を破壊してまで地位に拘り関白と言う位を身に付けただけである、それでは簡単に従えぬという事であり大いなる不安しか見えぬという訳である!」



「では那須様が言われております破壊した道理とは何でありましょうか?」



「関白殿にも伝えて頂きたい、儂が話す事は三家の大いなる疑念であり関白殿が解決せねばならぬ話である、では疑念をお伝えと致す、織田家内紛を利用し家乗っ取りした際に織田家に仕えていた多くの者達を無下に葬りした事、それらの者は織田家に忠義していた者であり降伏した者を何故に切り伏せたのか?!! 織田家内紛を治めた事は立派な事であるが主家である織田家はどこにあるのだ?!! 何故に織田家の臣であった者が主家を乗っ取り致したのか? 下剋上でのお家乗っ取りをした輩が武力を背景に官位があるからとの理由で臣従を求めるとは天に唾する行為である三家が従えば下剋に加担した事に成ろう、我らは人としての矜持を範としている果たしてお家乗っ取りした輩に従う事は人としての矜持に背く事になるであろう、それ故に従えぬという事である!!」



顔面を充血させ憤懣し聞き入る黒田ではあるが那須資晴が言う処の道理に基づいての話に矜持と言う言葉まで持ち出され反論出来ずにいた。



「ではどうしても従えぬという事でありましょうか?」



「それらの事柄につき解決する方法は二つの事を成せばなりまする、一つ織田家には幼年ではあるが三法師という後継する者がおる織田家で差配していた領地は三法師殿にお返しするが良い、織田家の政は残っているゆえ丹羽殿や滝川殿達に任せれば良い、関白殿下は六摂家となった今は帝を支えるが主命であり公家となれば良い、関白と言う役目は律令が成り立たない世では武家に政の差配は無理である、これが我ら三家の総ノ意見である、如何かな黒田殿!」



「判り申した関白様に三家の意見をお伝えいたします、某にはこれ以上話は御座いません」



「うむしっかりとお伝えして頂きたい、それと・・もそっとこちらに黒田殿・・近くに来て頂きたい・・うむそうじゃ! これより話す内容は黒田殿の身に関わる事になる能々考え身の安全を図るべし!」



「某の身でありますか?」



「良いか黒田殿は今も軍師として色々と高い地位におるが関白という頂点に到達した羽柴殿、今は藤原殿にとって黒田殿は後数年で関白より遠ざけられ身に危険が伴われる、それ故にそなたの息を急ぎ大切に育てよ! 黒田家が残る道を作っておくのじゃ、そなたは軍師としては類まれなる才を持つ者であるが、かの中華漢朝の国を作った礎の大将軍韓信と同じく追いやられる事になる、その前に手を打つのだ!!」



「なんと某が追いやられると言う事でありますか? その根拠はなんでありましょうか?」



「この話、誰にも公言しては成らぬぞ、関白に伝えればそちの命は早まる事になる、我と通じたと見なされる、そちの黒田殿の才を惜しむが故に伝えるが儂には特別な才が幼少時より備わっており数年先まで何が起こるかを先読み出来るのだ、それ故に那須家と三家は争いを回避し東国から戦を無くす事が出来たのだ、関白殿下は何を行い何をするであろう事も既に先読みしている、その中で黒田殿の命が危ゆい事になるので今の内に手を打つ様にと話しているのじゃ!! 判ったであろう心して歩むが良い、それと儂の中では関白殿と三家は争いとなるであろう、それが最後となる黒田殿の軍師としての差配である、我が那須家には伏龍である今孔明と呼ばれる軍師がいる、そちは鳳雛と呼ばれ龐統ほうとうであろう、その際はあらん限りの力を出すが良い、その戦は大きく世を変える戦となろう!!」



「那須様申し訳御座らん、頭が付いて行けませぬがお心を込めての話であると理解しております、誠に忝けのう御座います!!」



「うんうん・・それと城下町では美味しい食を楽しまれた様で何よりであった、安寧した世となればいつでも遊びに来るが良い、待っておるぞ!!」



全てを見透かされ驚きの謁見となった黒田ではあるが『物別れ』となるも気は晴れていた。

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