那須の戦


「洋一さん、那須にアイヌ人が来たのね、根室から来たの?」



「なんでも根室から春の嵐で船が流されて大津に来たようです、それと甘い木があるとかトペニだったかな? そんな話を聞いたようです」



「それってメイプルシロップの事かも、多分樹液の事だわ、今が1568年だから北海道の道函館を中心に主に松前半島が蠣崎という家が支配している地域でそれ以外のほとんどはまだ日本のどの大名家は支配していない時期よ、実際に北海道の開拓が進むのが徳川幕府になってからだから、まだ誰も手を付けていない空白の地だよ」



「洋一さんちょっと待ってて・・・これこれこの辺りに道南十二館という十二ヵ所の出先代官所を作った所、その近隣しかまだ支配していない時だよ、根室と言ったけど、根室も積丹、国後、択捉、千島列島、樺太もどこの外国も領地にしてない時、樺太は女真国の貿易商人と樺太に近いロシア系の毛皮を求める狩猟者が既に来ていたと思うけど、まだ何処の国という領土になっていない筈よ」



「玲子さん樺太って冬は氷で陸続きになる所ですよね、その女真とロシア系の人も冬に活動していませんでしたか?」



「そうだったかも、私歴オタだけど北海道の歴史は知っている訳じゃなくて裏覚え程度だから、でもなんでそんな事を知っているの?」



「間宮林蔵が樺太が島なのか陸なのかを調査するのに結構苦労して季節を変えて調査した結果島だと判明したと思います、間宮林蔵の物語を昔読んだ記憶があるから、間宮林蔵は樺太の先端まで冬季に海が氷っているから行けたと・・・ちょっとあいまいだけど、それと千島列島の先端はカムチャッカ半島ですね、そこにもアイヌ人がいたような記憶があるんです、千島列島も全てアイヌ人がいると昔高校の歴史の先生が言っていました、その先生北海道の出身で大学の卒論でアイヌ人の事を書いたと自慢してました」



「それは貴重な話だね、根室のアイヌなら目の前が北方四島から千島列島が点々と繋がっているからカムチャッカまで行けるね、でもカムチャッカ半島って巨大な半島だよね、カムチャッカの事他に何か知っている洋一さん」



「大きさは半端ないですね、日本より全然大きいと思います、樺太も日本の本州70%位あるのでは、カムチャッカと樺太含めると日本の2倍は、それと北方四島と千島列島まで入れたら、西に広がるオホーツク海を独り占めするようなもんです、戦国時代では利用出来ませんが、樺太まで領土に出来たら石油とガスには困らなくなりますね、エネルギー輸出国になってしまいます」



「それはいい話だね、勝手にどんどん夢が広がるね!」



「ついでにカムチャッカの東側には列島が沢山続いてアラスカまで行けます、日本人と似ているエスキモーの人がいます、有名なゴールドラッシュもいずれ起きますね」



「あっははは、もう勝手に妄想だけは広がるね、現実に戻って、ここ数年は那須は大きな戦いとか無いしこれはチャンスかも、アイヌと交流して北方の島々とか樺太を物に出来るチャンスが来たかも、ちょっと考えて見るね、思いも寄らない幸運が舞い降りたかも取れないよ」




洋一の元にアイヌ人の若者が嵐で大津に流れ着いたとの話で戦国時代の北海道について再度調べる二人。



戦国期の北海道は函館周辺の地域を津軽安東氏、後に蠣崎氏の支配地域とされ、周辺のアイヌ人を酷使し、アイヌ人を武力で奴隷化を図るか如く行っていた。


決してアイヌとの融和ではなく武力による従属であり無理やりアイヌ文化を否定する政策を行い反発を強めて行く、その傾向は徳川幕府に受継がれ、女性が行う口の周りに行う入れ墨禁止、アイヌ語から強制的に日本語の習得などに繋がる、アイヌ民族を語る時、武力による従属させた暗い歴史があった事を日本人は忘れてはならない。



芸術文化と言った技術が上だからと決めつけ力で抑える事は本当の意味では技術も文化も上とは言えないであろうむしろ恥ずかしい事をしたと認識するべきである。



「洋一さん、ここに書かれている資料を見て、当時のアイヌ人は交易で鉄の刃物、鉄で出来た文物を主に得ていたようね、アイヌには鉄を作る技術がまだ無かったと書かれている、他に交易で米や穀物を得て代わりに獣の皮や織物や海産物と交換していたと書かれているよ」



「那須には米とトウモロコシとさつま芋がある、これを交易の品にすればアイヌの人も喜んで交易を行ってくれるのでは」



「トウモロコシなら根室でも育つと思いますよ、元々アンデスの高い山の寒い地域で育った作物ですから、さつま芋はちょっときついかな、お米は無理だと思います」



「それならアイヌの人達にトウモロコシを教えたらどうかな? 最大に恩を売って味方にすればどうかな? 交易は交易として行って、アイヌの人達に日本人の印象は残念だけど今の戦国時代では相当悪いと思うから、悪さをして来た日本人の償いとして伝えるの、そうすれば正太郎達に対する印象だけでも大幅に改善できると思うけど」



「江戸時代から明治に移行する中で北海道の開拓を政府は本気で行うからそれだけ資源が豊富なんだよ、聞いた事あるでしょう、屯田兵という名前、あれ北海道だから」



「簡単に言えば兵隊だけど任務の内容は開拓なんだよ、今の那須が農繁期になると侍達が行っている事なんだけど、あれも屯田兵の一種だね」



「屯田兵は足軽が中心だけど合理的な兵ですから未開拓の北海道に沢山配備された歴史もありますから先取りして那須の領地に出来ると思います、アイヌ人を那須の領民として正太郎達なら力による従属ではなく良い関係が築けると思いますね」



「えーと300石の船だから米と芋とか食料で80石分が減るから残り220石の重さまで大丈夫なので、伝馬船の小舟の帆船二隻で50石分、残りが170石だが全部積載したら危険だから100石分(1.5t)を余裕分として残りが70石だから、一豊隊30名と鞍馬3名、侍女2名(くノ一)、医師1名、アイヌ人2名とマタギの助、これで何名じゃ・・・39名か、他に船大工幸地達5名、小者4名、船長他操船で12名で、全部で60名、それと色々な品を乗せて50石~60石分か、食料100石分は乗せすぎかもし知れん、60石程度で良いか、あとは澄酒、空樽、大釜、駒6頭乗せて行けるか?」



「どうじゃ幸地、これだけ載るかのう?」



「重量は問題ないでしょうが、少々窮屈で御座いますな、寝床の確保が大変で御座いますな」



「あははは、儂もそう思ったが、帰りは楽になるからなんとかなるであろう、ちと工夫して欲しいのじゃ」



「まあー見た目が和船の500石船と同じ位の大きさなので物が入るように見えますが、船は二重の板で出来ておりますので船内はそこまで広く無いので馬6頭分をどうやって作るかですね、急ぎ船を工夫するしな無いでしょうな」



「では先に大津に行き手配を頼む、10日後に此方は大津に着くよう致す」



「では皆の者集まったな、皆の者は10日後に大津に行き、幸地と合流し蝦夷に向かう、蝦夷人の二人を送り届け、しっかりとその村の蝦夷人と誼を結ぶのじゃ、通訳はマタギの助と梅がある程度出来る、あの二人も我らの言葉を覚えた、なんとかなるであろう、そしてしっかりと頼んでくるのじゃ、聞いておきたい事は他にあるか?」



「若様が集めようとしている物は一体なんでしょうか?」



「あ~主に樹液じゃ、蝦夷にある木から甘い樹液が採れるのじゃ、それがなんと煮詰めると砂糖の液体になるのじゃ」



「えっ、砂糖ですか、樹液から砂糖になるのですか?」



「そうよあの二人の話ではトペニという木から出る樹液がプリンと同じ甘さだと言うのじゃ」



「そこまで甘い樹液が出るのですか、砂糖の木ではありませぬか」



「そうなのよ、それともう一つ大きな目標がある、その地はまだ何処の外国の地でも日ノ本の大名の地で無いそうな、これを機にアイヌと深い誼を結ぶのじゃ、我らは彼らの地では収穫出来ない米と芋、それと鉄の刀や鍋などじゃ、彼らからはトペニの甘い樹液と彼らが渡すであろう獣の皮などであるが、獣の皮はそれ程無くても良い、彼らを我らと同じ人として扱い尊重してあげるのじゃ、さすれば彼らは味方となり次から次と新しい地を紹介してくれる、その地を那須の物とするのじゃ」



「今回は冬になる前に帰るのじゃ、焦らずゆっくりと仲良くなるのじゃ、トペニの樹液は冬に採るようであるから、来春に取りに行くのじゃ、今回は先に米等を渡し誼を通じる場にするのじゃ、幸地達と手の空いた者は村長の家と我らが行った時の寝泊まり出来る家を作るのじゃ」



「常駐はしなくても良いのですね?」



「いきなりは無理があろう、帰りに此方に来たい者は連れて来るが良い、春には送り届けるという事で、それと帰る時は駒は渡して来て良いぞ、戻るまで自由に使わせて構わない」



「蝦夷人より攻撃されたりとかは大丈夫でありましょうか?」



「二人の話では問題は無いとの話であった、それより熊の化け物がいるそうだ、我らの知っている熊の倍程もある凶暴な熊がいるそうな、攻撃されそうなら戦うしかないそうだ、逃げる事が出来る場合は逃げる方が安全と申しておった」



「あと細かい事は一豊、五藤、林、幸地に伝えておくので、各自支度を行うよう致すせ」




こうして6月中旬根室から流されて来た若いアイヌ人との出会いが、全くの未開の地、蝦夷根室に向かって大津から帆船に乗って出港したのであった。





── 上洛戦 ──




那須、北条、小田の三家が内政に力を入れている頃、京を目指し将軍家再興を画策する動きがあった、首謀者の名は足利義秋。


 1565年に起きた永禄の変、将軍足利義輝が三好一党に殺害され弟で出家していた覚慶が難を逃れ逃亡生活を行う中、還俗し名を義秋とした。



1567年11月21日その足利義秋を朝倉義景は一乗谷の安養寺に迎え、朝倉で庇護する事にした、足利義秋は1568年、義秋という名は不吉であるとし、4月15日元服式を行い名を義昭に改める、しかしこの少し前、中々京に上らない義昭に対して、2月8日、足利義栄に征夷大将軍宣下の宣旨を朝廷は下したのであった。





「おのれ朝廷はこの先の将軍義輝様の弟義昭を蔑ろにする気が、こうなれば力づくで儂が将軍になって見せる、諸将に触れを出すのじゃ、我と共に京に上り賊を退け薙ぎ払うのじゃ」



この義昭の呼びかけに反応したのが戦国の雄、織田信長である。


しかし、上杉も北条も那須も小田もその呼びかけに応ずる事が出来なかった、その理由は武田信玄の動きが邪魔をしていたからである。



「御屋形様、織田殿より使者が参っております、会われますか?」



「広間に通すように致せ」



「織田殿の使者であるな、して使者の口上は?」



「さすれば既に那須資胤様宛に足利義昭様より軍勢を引き連れて参集するよう文が来ておる筈です、本来であれば某が来る事ではありませぬが、未だ参集に向かわれぬご様子、どの様な経緯で遅れておるのか主より確認して参れとの事にて訪れ申した、遅れております理由を是非御聞かせ下さい」



「そうであったか、これは失礼した、実は戦準備を整えていた処、甲斐の武田が西上野から下野の国を狙っていると、我ら那須が京を目指し留守となれば那須を侵略するとの情報が入ったのよ、それで急に動けなくなってしまったのじゃ、我らの軍勢は西上野に出張り今は警戒をしている処なのじゃ」



「なんと折角整えた軍勢が武田の行いで動けないとなりましたか、それは・・・残念で仕方ありませぬ、またしても武田で御座いますか?」



「他の家でも参集出来ぬ処が御座いますのか?」



「はい、何処とは申し上げられませぬが、同じく武田が動く様子があり参集出来ぬと」



「もしやそれが武田の策ではありませぬか?」



「それはどの様な意味で御座いますか?」



「武田の家も京を目指す家であると聞きました、此度織田殿に先を越された為に邪魔建てをしているのかも知れませぬ、義昭様を京に上らせない為に我らも含め動きを封じる為に動いておるのやも知れませぬぞ」



「確かに、それであれば辻褄が合います、怪しい動きで御座います、実際に参集した家の留守を狙い領地を得れば大儲けとなります、動けないだけでも織田様を苦しめる事になります、言われる通り、武田の策と思われます」



「使者殿今は動きようが御座いませぬ、些か銭を用意しました、義昭様と織田様に費えの足しにして下さいとお伝え下さい」



「なんとそのようなお心使いを、那須殿が動けぬ事きっとご理解下さるでしょう、忝のう御座ります、使者の役目これにて果たせました」



資胤は義昭に200貫、信長に100貫を使者に持たせたのである。



「正太郎これで良かったかのう?」



「はい、充分かと思われます、態々那須から大切な兵を送り使うなど意味がありませぬ、義昭様が京に上られても恩賞は織田殿が独り占めとなりましょう、恩賞があっても官位とかだけです、それに武田に備えるは本当の事になります、大義名分が御座います、今は力を使わず貯める時です、誰が将軍でも我らには関係ありませぬ」


「あっははは、こうまで簡単にはっきりと申されては儂もすっきりした、立場上当主であるから何かの際は責任が及ぶ、どうしても慎重になってしまう」


「今からですと織田殿が動くのは早くて8月、遅くて10月頃と思われます、武田が動くのもその後でしょう、動きたくとも本当に動く事は出来ませぬ、銭を渡したので我らは義昭様側であり織田殿側に那須が付いていると理解されると思います」



「そうだな300貫の銭で助かったわ、実際に動いたらその10倍は必要になる」




速いですね、あっという間に根室に出発してしまいました、冒険物語に変化しそうです。次章「那須とアイヌ」になります。

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