堺危うし

  

1568年春、那須領内は田植え準備で例年通り一番忙しい時期を迎えていた、今年は会津蘆名、佐野の地にも新しい田植えである塩水選での田植えである。


 燻炭を作り、海からは食さない小魚を煮て日干しを行い砕いて肥料とする為に田の土を起し空気を土に入れ微生物を活性化し、そこへ燻炭、干して砕いた小魚を撒く、その後は水を入れ土を柔らかくし代掻きを行い田を均し田植え準備を行う、なにしろ人力の時代である。




 馬を使い、牛を使う、那須では侍も田を広げる為に開墾に従事させ石高増強を図っていた。




 3月下旬油屋から1000人の奴隷から逃げて来た者が送られて来た、その者達も烏山周辺の人が不足している村々に吸収されて行く。




 油屋からの文に訝し《いぶかい》不安な事が事が書かれていた。




 織田信長が足利義昭を将軍に据える為に京に上り、諸将を引き連れて三好と戦うという噂が広がっており堺も争いに巻き込まれる事になるかもしれない。


 堺は三好の影響力が強く自治権をこれまでは認めており商いを日ノ本一の商いが出来た地であるが、この先どうなるかという不安が広がっており、堺会合36人衆とその中の代表10人衆が商人達と図り自衛策として堀を広げ、深く工事を始めた事。




 中には他の地に移り始めた商人もいる、今は商いどころではなく堺は騒然となっている事が書かれており、金との交換する明銭3万貫と今回手元にある砂糖と火薬、油等を通常の三倍ほど送ったが、次回はいつ送れるか先通しが見えないと書かれていた。


 そこにはいつもの冗談が書かれた油屋の文ではなく緊迫した状況が書かれた文であった。






 堺の会合衆とは商人の町堺を代表する選ばれた者で議員のような存在である、諸説あるが会合衆は36人いると書かれ、その内10人が特に権限のある会合衆とされている。




 その10人が次のようである、紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易(利休)、油屋常琢、津田宗及の10人である。




 千宗易(利休)、今井宗久、山上宗二、津田宗及は色々な歴史物にもよく登場する人物である。






 折角なので那須正太郎が誼を通じ取引している油屋は上記の会合衆10人の中に入っている。


 堺市立図書館、又は国会図書館デジタルアーカイブに堺市の歴史資料の中に油屋の事が記載されているので紹介する。




 油屋常祐は、油屋(伊達)常言の子で、【日珖の伯兄】妙國寺の開山日珖の兄である。(妙國寺過去帳)【紹鷗門】茶湯を武野紹鷗に學んだ。(茶人系傳全集)常祐常に愛するところの釜あり、後世之を模して油屋釜と稱した。御物名物記に、【所持の名器】昔引拙所持の灰被の天目、後堺油屋常祐にあり、天下の名器にして、今は御物となり、又曜變の天目、油屋常祐にあり、今尾州家にありと。(數寄者名匠集)




 其他常祐所藏の名器及び名物には、紹滴肩衝、舜擧筆鶉の繪、平鍑ひらがなえ (つり下げて物を煮たきする口の大きい釜)。〔十巻本和名抄(934頃)〕、無滴の花缾(かびんでしょうか不明でした)、やつれがうし(意味不明でした)等がある。(全堺詳志卷之下)元龜四年四月、織田信長岐阜から上洛して堺の名器を覽んとて、松井友閑、丹羽長秀に命じて、此旨堺の南北に觸れさせたが、所持の者擧つて出陳した中で、信長の意に協ひ留置かれたものゝ一に、常祐所持の柑子口の肩衝があつた。(堺鑑下)天正七年七月四日卒去。法號を信行院常祐日德といふ。(妙國寺過去帳)妙國寺に其墓碑がある。




 ここに記載されている中で特に注目したいのは曜變の天目と柑子口の肩衝である、日本に数個しか無いとか国宝であるとか言われている曜變の天目を油屋が持っていたと記載されている。




 もう一つ驚きなのが歴史資料では柑子口の肩衝が記載されている事である。


 歴史解説では日本に伝来する以前は楊貴妃の油壺であったとも。足利義政から村田珠光の門人の鳥居引拙の所持となり、京の大文字屋疋田宗観を経て、永禄12年(1569年)4月頃織田信長に進上された。元亀2年(1571年)と天正2年(1574年)信長の茶会で使用されたことが確認できる。当時、初花肩衝は新田肩衝に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていたという。 と紹介されている。




 余談となりますが、油屋の事を紹介されている堺市の図書館所蔵と国立図書館デジタルアーカイブで紹介されている曜變の天目と柑子口の肩衝について、詳しく知っている方がいましたら是非教えて下さい。


 別の稿で紹介させて頂ければと思います。


 私は素人なので勝手な想像から、油屋という商人はとんでもない凄い商人だったと、何故国宝級の物を所持していたのか等も気になる所です。








「十兵衛なれば堺の様子分かるのでは無いか?」






「はい、堺は商業の都市です、武家社会から離れた独特な都市です、商いを行う者達が自治を行っており銭雇の私兵を用意しておりますが、本格的な武家と衝突となれば勝てぬでしょう、守るだけでは無理です」






「そうであろうな、いくら銭を持っていても物を売り買いする世界では絶大な力であろうが、きつい話であるな、帰りの船に文を書く持たせて欲しい」










 少し遡り板室温泉滞在の幻庵、幻庵はまだ板室の地で長期に渡り長逗留していた。






「幻庵様小田原より文が届きました」






「どれ、や、や、やや・・・寿桂尼殿・・・逝かれましたか、安らかにお眠り下さい南無・・・・・・・


 その方が小田原を経ったは何時であるか?」






「はい、三日前になります」






「そうか、では高林にいる嶺松院の元には届いておらぬかも知れぬ、今文を書くここから2里程度の処に武田の館があるそこにいる嶺松院に届けてくれ、それが終われば関東見物しながらゆっくり帰るが良い」










「嶺松院様、北条幻庵様から文が届きました」






「私にですか、三条のお方様では無いのですね、判りました」






「どうやら嶺松院に来たようですね、今川の事かと思われます、妾も一緒に行きましょう」






「ご苦労様です、中でお休み下さい」






「・・・・・・お婆様・・・・・寿桂尼様・・・・・」






「こ・・これは・・・寿桂尼様がお亡くなりになられたのですね・・・・太郎・・・太郎を誰か・・・」






「母上・・嶺松院どうなされた」






「今川の寿桂尼様がお亡くなりになられたと知らせが届いたのじゃ」






「なんと・・・」






 今川家寿桂尼が亡くなった知らせは瞬く間に広がり悲しむ者、冥福を祈る者、時が来たとほくそ笑む者がいた、その中で徳川家康は複雑な心境で知らせを聞いた。




 今川で幼少から質となり孤独な時を過ごした中で物事の成り立ち、考え方捉え方を某に教授した太原雪斎と寿桂尼様から慈愛ある言葉を思い出していた。






「竹千代その様な悲しい顔をしてはならぬ、良く聞くのじゃ、そこに控えている小姓の顔を見てご覧」






「その者は竹千代に取って無二の者であろう、その者はどんな時でも竹千代を守る者ぞ、既にその様な者が、幼少の竹千代にはいるのだ、悲しい顔をすれば、その小姓はどうすればよい、自らの命をかけてお主を守ると誓っている小姓は主の悲しい顔を見てなんと思う」






「上を向くのじゃ、大将は常に上を向くのじゃ、悲しい時、泣きたい時は、1人になって泣くが良い、それが大将ぞ、それに竹千代ここからが大切な話ぞ、竹千代が今川の質と考えるか、今川の地で修行していると考えるかで竹千代の歩く道は違って来るのだ!」






「それはどいう意味で御座いましょうか?」






「今の竹千代は今川の質となっていると考え言われるがままに過ごしているだけじゃ、それでは新しい道は出来ぬ、確かに人の目には質として映るであろう、しかし、竹千代が今川の地で誰よりも大きな人徳ある武将になるとの決意で過ごすとどうであるか、誰よりも人徳ある武将に育つとの決意があるから、誰よりも厳しい環境で学ぶ為に自分は今川の地にいるのだと悟ればどうであるか」






「質で過ごすより気持ちが晴れます」






「そうじゃ、竹千代、其方は正しい目を持っておる、立派な武将になる為にこの地で修行をしているのじゃ、生半可ではなれぬぞ、私は今川義元の母であるが其方の成長を楽しみにしている婆でもある、自分に負けてはならぬ、環境に負けてはならぬ、全てを受け入れ大きくなのじゃぞえ」






この竹千代は寿桂尼様の教えて頂いた事忘れませぬ、立派な武将になりまする、あの日の誓いを忘れませぬ、某竹千代は寿桂尼様から頂いた御恩を・・・この家康は武田と手を組み遠江を攻めるは・・・・・決して・・決して・・私利謀略の為では御座りませぬ・・・どうか・・・・どうか・・・お許し下さい。と自分に言い聞かせるのであった。










 田植えの準備が整い領内では一斉に田植えが始まった、そんな最中、4月末に大津から二人の若い異人が送られて来た。






「何々、この若い二人の異人はどうやら春の嵐で船が流され大津に着いた者です、こちらの言葉は一部理解出来るようですが、何を言っているのか判りません、若様にてお二人の面倒をお頼み致します、大津浜の長より、と説かれておるが、半兵衛は異人となればどうすればよいかのう」






「見た処、年は20才前かと、我らと似ておりますが、毛深いですが手が少し長いようです、骨格もしっかりしております、背丈は我らと同じ様ですね、やはり南蛮とは違うようです」






「その方達はどこから来たのか、名前はなんと申す?」






「エゾ二イムロ、トオー、トオー、エゾニイムロ・・・・」






「何であろうか?」






「若様のお持ちの大きい地図を見せてはどうでしょうか? 方角だけでも判明するかも知れませぬ」






「お~日ノ本の他も書いた地図であるな、ちと待ってろ」






「よしこれを見よ、今はここにいる、今はここぞ、お主達が流された港はここ大津じゃ、ここ大津じゃ」






 若い二人は身振り手振りで話しては地図を確かめようやく一つの場所を示した。






「若様あの地は蝦夷です、この二人蝦夷人ですぞ、蝦夷人であればこちらの言葉を多少理解出来るかも知れませぬ、たしかこの下野の真岡もおかにも末裔がいると先祖が蝦夷人であった者がいたと思います」






「なんじゃその蝦夷人とは?」






「その昔この坂東の地の東に蝦夷人が多く住んでいたのです、えみし、えぞ、とも言いそれらは蝦夷人の事であり、下野にも多く住んでいたと思われます、坂之上田村麻呂大将軍が東征を行い蝦夷人と戦になり負けた蝦夷人はこの遠くの地、蝦夷に移ったと書物に書かれておりました」






「では昔はこの地にも住んでいた者達であるか、ならばその真岡にいる末裔を呼んで会わせて見るが良い、少しは話が出来るかも知れぬ」






「あと、梅殿に日ノ本の言葉を教えて頂きましょう、某人に物を教えるは苦手になります」






「ほんにのう、一豊もダメだし、十兵衛も何かと逃げ出す、半兵衛は説明が難しく半兵衛の話したことを解説する者が必要じゃし、梅の方が確かであるな、では梅一つ頼まれてくれ、ゆっくりでいいからなんとかこちらの言葉が通じ、彼らの言っている事が判ればよいのじゃ」






「取りあえず当面は儂の館で寝起きすれば良い」






 ここに登場した若者の蝦夷人はアイヌ人の事になります、この物語の那須家という名の那須がアイヌ語から来た言葉であると那須町役場のホームページから紹介されています。


 他にも栃木県では、真岡市の(アイヌ語でマオカ)、鹿沼市のカヌマ、日光などもアイヌ語と関係ある地名と紹介されている。




 この日よりアイヌの若者は正太郎の館で寝起きし、正太郎と食事を共にしていた。






「梅よ、この二人は何でも良く食べる嫌いな物がないようじゃ、少し驚かせて見よう、夕餉の時に『那須プリン』用意してくれ、梅の分も用意するが良い」






「おっ、梅、いよいよプリンを食べるとこぞ、見ておれ・・・・あれ、ちょっと・・・どうしたのだ? なんか言い合いを始めてしまったが・・・大丈夫か?」






「なんでしょうか、甘い味に驚いているようですが、それだけでは無いようです、トペニ、トペニと言ってます、これはトペニだと言っている様です」






「蝦夷にもプリンがあるようです」






「本当か? トペニとはプリンの事を言っているのか?」






「私は毎日彼らに接しているのでなんとなく意味が解ります、プリンを食してトペニと言っている事は確かです」






「そうだあれだ、麦菓子を与えよ」






「これはトペニか、トペニか・・・・」






「・・・トペン・・・トペン  ケラトペン、ケラトペン」






「このプリンはもう一度」






「ケラトペン、ケラアントペン」






「卜ぺという言葉が、プリンと麦菓子に関係しておるのかも知れんが、美味しく食べておるから甘い物は好きなのじゃ、二人は酒は飲むのか?」






「はい、普通に濁酒も澄酒も召し上がっていました」






「蝦夷人も言葉が違うだけで我らと同じじゃな」








 後日アイヌの末裔と申す助が来た。






「某真岡のマタギをしております、助と申します、村長に館に行くように言われ来ました」






「よう来た、済まぬがそちの先祖は蝦夷人か?」






「そのように聞いております、マタギに蝦夷人の子孫がいると言い伝えられております」






「そうかではその蝦夷人の言葉は少し出来るか?」






「はい、正しいかどうか判りませぬが幾つか伝え覚えております」






「お~では、この二人に蝦夷人であるか聞いて、どこから来たのかを聞いてくれ」






「判りました」






「フナクワ エエク?(どこから来た?) マカナク エレヘ アン?(名前はなんていう?) ユプ?(兄か) アク?(弟か)」






「エゾ二イムロ(北海道の根室から来た)  ユプ・アエトヨ・セコ(兄のアエトヨ) アク・アエハシ・セヨ(弟のアエハシ)です」






「若様、二人は蝦夷の根室という所から来たそうです、兄のアエトヨと弟のアエハシと名乗っています」






「お主、助凄いでは無いか、話せるではないか、でかしたぞ」






「習ったのはあいさつ程度の言葉だけです、ほとんど話は出来ませぬ」






「ではトペニとはなんであろうか? 聞いてくれ」






「タアンペ ヘマンタ アン トペニ?」






「チクニ トペニチクニ」






「木の名前です、木の名前がトペニだと」






「木の名前であったか、プリンを食べて木の名前を言うという事は・・・木は甘いのかと聞いてくれ」






「トペニチクニ トペン?」






「トペン」






「甘い木だと言っています」






「木が甘いとな」






「蝦夷人は木の樹皮も食すると聞いてます、甘い樹液が出る木の名前かと思います」






「うむうむでは、その根室から流されて何日で大津に来たか聞いてくれ」






「エゾ二イムロ~ タント(今日)ニサッタ(明日)トォー~(日)?大津エク(大津に来た)」






「トゥト~レト大津」






「えーと何日だ、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13」






「12~13日で来たのだな、若様どうやら12~13日間だそうです」






「小舟で流されて12~13日という事は、大きい船であれば10日以内で充分着けるという事かも知れん、間もなく300石の帆船が出来ると言っておった、既に出来ているかも知れんぞ、その根室に日ノ本の人間はいるか聞いてくれ」






「エゾ二イムロ オカ和人?(根室に日本人はいるか)」






「イサム(いない)」






「いないそうです」






 日ノ本がいる所は地図のこの辺りだそうです、もっと蝦夷の南だそうです。






「今日の所はこれまでとしよう、助よ、その方とここにいる梅で我らの言葉を二人に教えてくれ、暫くマタギを休み、代わりに俸禄を渡すゆえ頼む」






「判りましたでは明後日からで宜しいでしょうか、家に帰り事情を話して参ります」






「梅驚いたのう、マタギの助の凄い事よ、人は見た目で判断してはダメであるな、あっさりと蝦夷の言葉を話したぞ、助も蝦夷人ではないかと思うたわ」






「私も見ていて助殿の相貌も二人に似ており普通に蝦夷人が三人で話している錯覚を見ておりました、あの二人も驚いていたように見えます」






「儂も本当に驚き感心しておったわ、下野に蝦夷人の末裔がいたとは」








後書き編集

まさか話の流れでアイヌ語まで書く事になるとは、アイヌ語を検索しまくりでした、本当のアイヌ語とは違うでしょうがそれなりに調べた言葉なのでそこらへんはご了承下さい。


次章「那須の戦」になります。

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