滅亡
── 浅井朝倉──
1573年信玄が倒れ、将軍が京を追放され織田信長包囲網が崩れた事で攻撃の矛先は浅井と朝倉に向かった、浅井長政、後世の歴史家は長政を評する時必ずと言って優秀な武将の一人として上げ義侠に殉じた将であり実に惜しいとの意見が多い。
8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に攻め入る、浅井長政は5000の兵で居城小谷城に籠城を、朝倉義景も2万の軍を率い救援のため出陣、しかし肝心の長政の重臣山本山城主阿閉貞征が秀吉の調略で寝返る、寝返った事で小谷城が包囲されてしまう、朝倉側も援軍の兵を起こすも信長側の調略が進んでおり一枚岩となっておらず、意思疎通に齟齬が生じ出兵を拒否する者が現れる。
浅井長政の居城小谷城は標高495mの小高い峰の山城とされ難攻不落の城として評されていた、多数の砦と曲輪、谷間にある地形に守られ攻める方は苦戦を強いられ守る方に有利に築かれている、山城の代表的な城と言える。
8月10日に北国街道を封鎖、朝倉の援軍を侵入出来ない状態に成功、朝倉軍は行軍出来ずに留まるも嵐に遭遇し撤退に移る、撤退する朝倉をチャンスと見た信長は追撃し、次々と朝倉の兵を削り、越前にまで侵攻しその勢いで朝倉を殲滅へと導く、信長が先陣を切って乗り込んだとされる、その際、参戦に遅れた佐久間を叱るも反抗的な態度を取りより信長の心証を悪化させたとされる。
朝倉の居城一乗谷に逃げ込んだ時は朝倉義景の手勢は500とされる、もはや抗う事は出来ず逃走を図るも周辺の豪族達も秀吉の調略を受けており、逃げ道すら塞がれてしまった朝倉義景、その結果8月20日に自刃しその生涯を終える。
朝倉を滅亡させた信長は取って返し小谷城攻略に着手、8月26日には全軍に攻撃命令を発令する、僅か二週間余りで朝倉を滅亡させ、小谷城へ総攻撃を開始した。
小谷城攻略ではなんと言っても木下藤吉郎の活躍が光る、数ヶ月前に既に名を羽柴秀吉と名を改めており、秀吉の名を織田家中に示した戦でもあった。
27日、木下秀吉率いる3000の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父、久政が籠る小丸との間にある京極丸(兵600)を占拠した、この時、三田村定頼、海北綱親らは討死し、これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功、やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて、浅井惟安らと共に自害。
その後、本丸で長政は兵500と持ちこたえるも、嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃し、お市の方と3人の娘を織田軍に引き渡し、9月1日、長政は自害して小谷城は落城した。
信長の浅井氏への仕置きは苛烈を極めた。浅井久政、長政親子の首は京で獄門、万福丸は捕らえられた後、関ヶ原で磔にされ、寝返った将も処分された。
小谷城は廃城とし、その地は戦功のあった秀吉に与えられ長浜城を築き、一城の城主となった。
浅井朝倉が滅亡した事により信長の天下取りが大いに近づいたと言える、しかし厄介な宗教勢力との戦いがまだ残されていた。
── 玲子の悩み ──
「玲子さん、何をそんなに浮かない顔しているんですか? 悩みでもあれば言って下さい!!」
「今後の那須が向かう方向性を定めておかないと大変な事になると思って悩んでいたの」
「信玄も亡くなったし、色々解決したのでは? まだ他にもありました?」
「それがあるんだよね、今度は信長と謙信なんだけど、あの将軍だった義昭が死んだふりしていて復活するのよ!!」
「ゾンビ・・・えっ本当ですか?」
「そもそもなんで信長と謙信がぶつかるのか? 元凶はゾンビ義昭が謙信を焚きつけるのよ、元々権威というか、序列というか正統なる物への忠誠心見たいな物が強い謙信、将軍を京から追放した事は許せない訳よ、信長は信玄が亡くなって息を吹き返して、残念だったけど浅井と朝倉を滅亡させて一気に勢力を伸ばしたまでは洋一さんも理解していると思うけど」
「問題は謙信が信長に対抗する為に一向衆が支配している隣地側の加賀と越中に手を出すの、手を出さないと自分の領地越後が侵食されるからなんだけど、問題は両者の争いに那須が巻き込まれるかも知れないと言う事なんだ」
「えっ巻き込まれる原因が義昭と関係しているんですか?」
「ちょっと複雑なんだけど、①毛利が義昭を庇護している、毛利は義昭派 ②一向宗は信長と謙信の敵 ③義昭は一向宗を味方にしている ④謙信は義昭の要請に応えようとしている ⑤信長は自分に逆らう奴は全て敵 ⑥ 那須は謙信派 こんな感じなんだよ」
「うわ~めんどくさい話ですね、これで信玄と浅井朝倉がいた訳ですから頭の整理が追い付きませんね、どこから手を付ければいいんでしょうかね?」
「一番手っ取り早いのは、義昭と顕如を暗殺かな?」
「ちょっとそれはなんでも・・・」
「だよね、そんな事したら混乱だけが増幅して収拾が着かなくなるね、だから悩んでいるのよ」
「史実では謙信の上杉家は次の当主は関ヶ原で三成側になりますよね、結果的に負け組になりますよね、そうなるとどうなるんでしょうかね?」
「一足飛びに疑問を提示しないで、史実的な事では北条からも養子をもらって和睦しているからこちら側で間違いないけど、謙信が倒れてお家騒動が起こって上杉家の力が半減してしまうからなんとかそれを防がないと結果那須側の勢力が弱くなる事に繋がると思うよ」
「!? ちょっと待って一足飛びの今の話・・・そうかも知れない、うんうん♪ ちょっと光が見えて来たかも、今の一足飛びで調度良かったのかもしれない、名案かもしれない!!」
「関ヶ原の事ですか?」
「ううん、違うの、上杉家の力を弱めない方法、上杉家には直江兼続って重臣がいるのを忘れていたのよ、直江も反権力志向が強くて理不尽な要求には応じないタイプだったと思う、個人的にはそれほど好きな武将じゃないけど、そこに入り込む隙がしっかりありそう、その点を突き崩せば行けそうかな! これは使える、うんうん!!」
「良く判りませんが玲子さんがすっきりするならそれで大丈夫ですね?」
「でもね義昭がやっぱり邪魔なんだよね、武力を持たない将軍、ペンで戦う、勝手な言論で戦うワイドショーのコメントする人のタイプ、厄介としか言えないね、対策が浮かばないから義昭は信長に丸投げするしかないね」
「それと少し気になっていましたが、家康は結局どうなってしまうのか史実と違う独自路線を歩んでいますがそれでOKでしょうか?」
「まあー家康が勢力を伸ばす余地は結局ないからね、遠江の浜松を得て当面は終わりだよね、史実と違って甲斐は太郎が継いだから、しかし信玄に占領される所を回避したんだから、それも北条の支援が無かったら終わっていたよ、だから家康は今、信長と北条の両方と同盟を結んだのよ、同盟という名の臣従だけど、家康は内政に力をいれないと三河が荒れた状態だしこれでいいかと思うよ」
「それより驚いたのが真田家よ、三方ヶ原の戦いで小田家の真壁が参戦した事で、小県の真田家が飛び地だけど小田家に臣従したんだから、真壁の元で真田昌幸が頭角を現していた事が幸いして小田家側に付いたのにはびっくりよ、史実と全く関係ない家に付いたのには本当に驚きだね、個人的には一番のニュースかな!!」
「飛び地の領地ってこの時代ある事なんですか?」
「うんうん、それは結構ある話よ、律令の時代から荘園とか公家の領地も飛んでいたり、飛んでいた領地で分家が家を興したりでそれなりにある話なんだけど、今回のはちょっと変わったケースだと思うよ、本来は太郎に付く真田家だけど元々西上野の端にある小県だし、甲斐より西上野の地域だからね、戦で勝利したので小田家が得る報酬として真田が付いて来たって所ね、北条は袋井周辺を全て取り戻して10万石を得た事になるから」
「なるほど、真田も戦国時代では最後無くなる家だから流れ的には三家側で間違いないと思うよ、後、注意しておくのは秀吉だね、ついに頭角をはっきりと現したから国持大名だよ、危険な誑し男に変化していくから要注意だからね、動きを抑えていた方がいいよ、裏でこそこそ嗅ぎ回るから、小谷城が落城したのも裏でいろいろ嗅ぎ回って調略したからよ、資晴君には要注意人物だと伝えてね」
── アイヌ連合 ──
アイヌの人々を蝦夷(えみし、えびす、えぞ)に住む少数民族的な位置づけで見る事は大間違いであり、その歴史は古く、律令の政を推し進める朝廷取って支配の及ばない地域の人々であり和人とは違う民族として当時の朝廷は東征を行った。
当時の東征とは関東地方、東北地方、北海道を指す、但し北海道は和国の領土であるが支配地としては確立されていない未開の地とされていた。
不思議な話であるがアイヌ人を毛人と呼んでいた、ここで忘れてはならない事に下野という国の名前の成り立ちである、今の群馬県と栃木県は一つの地域とされており、4世紀頃に『毛野』と呼ばれていた。
その『毛野』が5世紀末に三つに分かれる『上毛野』『下毛野』『那須』の三つである、7世紀末から8世紀末に、『上毛野』⇒『上毛野国』⇒『上野国』へと現在の群馬県になる。
そして『下毛野』⇒『下毛野+那須』⇒『下毛野国』⇒『下野国』へと現在の栃木県になる。
そしてここからは勝手な推測なのだが、坂之上田村麻呂が蝦夷を成敗する為に東征した時期とこの下毛野という名に付いていた毛の字が消える時期がほぼ重なるのではないかと思う、即ち坂之上田村麻呂が栃木県を通過する際に従う者達には毛という文字が消され従わない者を毛人として区別し、毛人と呼ばれた者達がどんどん蝦夷へと追いやられて行くと言う推測である、通過の際に朝廷に従う国として認められ『下毛野国』から『下野国』へ表記されるようになったのでは無いかという勝手な推測です。
それと栃木には真岡市という市がありますが、アイヌ語マオカに由来し、風の強くあたる所・風の通る道の意から、マオカがモオカになったという、那須もアイヌ語が変化した名であると町のHPに紹介されている、そうなると『那須』と呼ばれていた五世紀末はアイヌ王国だったの? と頭をよぎる。
※余談ですが、ニュージーランドの原住民マオリ族のマオリ語とアイヌ語に言語の共通点が多くあるようです、そしてマオリ族のマオリ語は日本語と発音が似ていると紹介されています、日本のアイヌの地名はマオリ語でも同じ意味が多いという記事が紹介されていました、感心ある方はお調べ下さい。
余談はさて置いて本題に戻ります。
那須ナヨロシクの活躍で1573年夏にはアイヌの大酋長3名と根室の大酋長イソシアン四名による会盟会談が持たれ、蝦夷における盟主を那須ナヨロシクが相応しいと決定されこの冬に函館の蠣崎に対して攻撃を行い捕らわれているアイヌ人を開放し蠣崎を蝦夷から追い出す事が正式に決定された。
那須ナヨロシクが盟主に選ばれた主な理由は馬を初めとする豊富な物資を那須から得られそれらがアイヌの民に大いに貢献している事があげられ、根室のイソシアンは遠方となりイソシアンも那須ナヨロシクを推薦した為に問題なく盟主となりアイヌが統一した事で後は蠣崎への戦準備となった。
那須からの佐竹海将が運び入れた那須駒も累計で既に600頭を超えており、アイヌの主な武器である弓の騎馬隊として馬に慣れる調練が各地で行われていた、那須の弓と違ってアイヌの矢には毒が塗られており毒はトリカブトになる、普段は獣道にボーガンに似た弓を仕掛けておいて獣が通ると自動的に矢が放たれて獲物を仕留める猟に使われている、もちろん対人にも武器ともなる恐ろしい毒矢である。
那須ナヨロシクと佐竹海将との打ち合わせで蠣崎への攻撃は敵を誘い出し森の中で弓攻撃を行う、敵には鉄砲と言う武器がある事を伝え平野などで的になり易い場を避ける事、忍びの報告では敵の城にはアイヌの奴隷が150名程いる事を確認した事を伝えた。
函館周辺には一般の領民も多数いるため領民は敵ではない事を徹底させ、城下町には入らず攻撃をしない事、町には那須の侍達が戦が終了した後に領民に事情を説明し残る者、本土に帰る者等自由にさせる事も了解を取り付け、敵はあくまでも蠣崎という侍達だという事を他のアイヌ人に伝わるよう依頼した。
それと今回和田衆の忍び20名がナヨロシクの配下として戦が終わるまで連れて来ており既に敵情を掴むために函館に行っている事なども伝えられた。
蠣崎の兵は約600名、但し海の向こう側に津軽安東家という武将が蠣崎の親玉がいて、蠣崎が攻撃された場合に援軍が来るであろう事、そこで海からの援軍を防ぐ為に那須で戦舟30石船を用意するので弓の射手を60名用意する事等を打ち合わせを行い別れた。
蝦夷を支配している蠣崎氏は秀吉の天下になった際に松前氏へと変名する、祖とされる武田信広は、若狭国出身で1454年に蝦夷地に渡り蠣崎氏の客分となったが、コシャマインの乱でアイヌ人制圧を主導して蝦夷地における地位を固め蠣崎氏を継いだという。
当時道南では蝦夷沙汰代官であった津軽安東氏の統制下にある和人の豪族が、道南十二館を築き、そこを拠点にアイヌと交易を行っていた、花沢館主、蠣崎季繁もその一人であった、1457年、和人とのトラブルを契機としてアイヌのコシャマインを中心とする和人への武装闘争コシャマインの戦いが発生する、12館の内10の館がアイヌの攻撃で落とされた。
激戦の末、蠣崎季繁の客将であった武田信広が鎮圧し、蠣崎氏が優勢となり、支配を確固たるものとした、その後客将であった武田信広は蠣崎季繁の婿養子に、蠣崎信広と名乗り、拠点を勝山館に移した。
戦国時代に入ると東北北部から北海道南部に影響力をもっていた主家である檜山安東氏から実質的に自立の傾向を見せる、蠣崎義広の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺し、地位を確立した。
「では那須ナヨロシク殿、一旦これにて帰ります、調練大変かと思われますが、頼まれました品を用意して秋に又来ます!!」
「うむ、義弟によろしく伝えて欲しい、必ず勝つので安心するようにと!!」
「判り申した、ではこれにて帰還致します!」
浅井、朝倉がついに消えてしまいましたね。寂しい様な感じもあります。
次章「菓子と公家」になります。
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