今成家の謎・・・2


「玲子さん! どう考えても今成のご先祖様が那須と戦う理由が正直解らないのですが、史実として本当にあった話なんですか?」



「う~これは歴オタだからとことん追求した事で判明したのよ、歴史学者も歴オタも似ているけど疑問があると沼にハマる傾向があって、沼から出るには疑問を解くという性を背負った美しい人達なんだよ(笑)、だから私も今成洋一と資晴が繋がった謎という深い沼にハマっていたの、抜け出すのに何年もかかったけどやっとすっきり出来た処なのね、だからテンションが爆上がりしてたの! やっと沼から抜け出せたのよ!!」



「その謎って本当は自分が解くはずなんでしょうけど、この20年以上資晴の那須家に関わって来たけど謎を解くヒントが得られなくて那須家の滅亡が回避出来れば問題無いと考える様になっていました、でも資晴には今成家って知っているかと言う質問はしたけど、返事は? 知らないと言うつれない答えでしたよ!」



「そうだよね、資晴では知らないだろうね、父親の資胤でも知らないと思うよ、知っているとすれば資胤の父親だね、接点がある人物は資晴の祖父だからね!!」



「えっ、祖父ですか、一度も登場した事がない人ですよね、名前すら浮かびません」



「そりゃそうだよ、那須家滅亡とは直接関係ない人物だし、資晴が生まれた時には既に亡くなっているから資晴も知らないのよ!!」



「でも資晴が烏山城に幼い頃に爺様という人がいましたが、その人が祖父は生きていましたが?」



「私もそれは当然調べたよ、それは資胤の弟さんで叔父にあたる人だったの、その人を資晴は幼少期に祖父だと思っていたのよ、その人も今成家との接点も関係無いし、今成家と接点がある人物こそ資胤の父親、那須 政資という人と接点があり今成家と戦った武将だよ!!」



「よくそんな遡って大発見しましたね、でもその今成家と那須政資という武将が衝突した戦って何でしょうか? 全然解らないのですが一体何ですか!!」



「勿論そんなに簡単に見つけれらる訳ないしこの事を知る学者も極一部の人達だと思うよ!」



「それにしても考え深い物がありますね、ご先祖様が那須家と戦った場面があるなんて、何しろ私達はその那須家滅亡を防ぐ為に青春の全てを費やしていますからね!」



「本当だよね、歴オタとしてはこんな素晴らしい機会に恵まれてまさに歴オタ冥利だけど、長い時間だったよね、考え深いし、私もそうだけど、戦国時代に転生して軍師として大活躍出来た気分だしかけがえのない充実した時間だったよ、専念しすぎて洋一さんを結構放置していたから娘に怒られたりいろいろあったね!!」



「玲子さん、その充実感をそろそろ分けてもらえますか? 今成のご先祖と那須が戦った話を教えて下さい、自分にとっても大切な話なので!!」



「うふふふ・・じゃー説明するから聞いていてね!!」



「今成家が那須家と衝突した場面は日本三大夜戦の一つ、川越夜戦という有名な戦だよ、洋一さんも良く知っている奇襲戦だよ、小田原北条家が関東に足場を固めた一大合戦だよ、この戦いで関東に進出する北条家と関八州の盟主、管領の上杉憲政と戦った一大合戦が関係しているの、上杉は管領と言う立場を巧みに使って関東勢の軍勢8万を集め、川越城を取り囲んで北条家を叩き潰す戦を起こしたの、その戦に那須家も小田家も千葉氏以外の大名が全て参加して北条と戦った稀にみる大戦があの川越夜戦って戦だよ!」



── 河越夜戦 ──



河越夜戦とは小田原北条家が管領上杉家憲政の策によって滅亡寸前まで追い詰められた河越城奪還と今川義元も参戦した大戦である。


一言で言えば北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が河越城埼玉県川越市奪還すると同時に北条家滅亡戦を企てた戦争であったが巧みな戦術で圧倒的な不利な状況の中で、北条軍が勝利を収めた戦い。


「あの有名な河越夜戦で今成家と那須家が出合う場面なんかありうる事なんでしょうか?」



「河越夜戦に付いては幾つもの資料が存在しているから付け加える事は無いけれど、洋一さん、今成神社がある場所に大きい意味があったのよ、あの場所って今成神社以外に何か浮かばない?」



「あ~あそこは元々今成館があった場所ですよね、館は既に無いですが今は神社だけが残っている場所ですね、川越市の歴史の中でもそのように紹介されています、今は今成館跡という事に成りますね」



「そうだよね、では今成館って何時頃まで存在していたのか知ってる?」



「それはちょっと調べた事は無いです、何時頃まであったのでしょうかね?」



「それは史実だと1590年頃よ、この1590年って意味解る?」



「・・・史実での小田原成敗で北条家が負けた年でしたよね?」



「その通り、うんうん偉い!! では何故1590年に今成館が無くなったのか、又は取り壊されたのか?」



「北条家の家臣だった今成が主家の北条家が戦で負けたからその地を去る事になって勝利した秀吉側の手で壊されたのかな?」



「そうだね、それが正解だと思うよ、付け加えれば今成館って河越城から見て西側にある防衛線としての砦の役目でもあったから、戦に負けた事で砦の意味が無くなって取り壊されたという事だと思うよ! 館が取り壊されたけど今成神社は今でこそ今成と言う名前の神社だけど、神社としては正式な熊野神社だから戦とは関係無いと言う事と、神社を打ち壊すという暴挙は出来なかった、特に熊野神社は信奉する西国の大名達に関係が深い神社だから取り壊しされずに現在も残っているというのが正しい見解だと言えるは!!」



「でもその今成館と戦ってどう結び付くのですか?」



「そこが面白いのよ、まあー今成家に取っては災難としか言えないけど、河越夜戦って当初は北条側が何も出来なくて何しろ頑張って半年間籠城戦で耐え忍ぶのよ、僅か3000名の兵士で八万の敵に対して半年間も持ち堪えるの、この時から既に北条家って籠城戦の経験があったのね、籠城戦って普通城に籠る兵力に対して攻撃する側は3倍の兵力があれば勝利するとされているの、この法則は西欧でもほぼ同じよ、だけど河越夜戦では20倍以上の敵と戦う訳だから、恐ろしい戦力差での戦いであって北条側が負けて当然、100%勝てない戦争といっても過言ではないよね!!」



「川越市民で歴史好きな人達もそんな状況で勝てた北条家を誇りに思っている人が多いと聞いた事があります、良く勝てましたね!」



「じゃー実際はどんな展開だったのか? もちろん一方的な攻撃なんだけど、上杉側は何しろ八万もの兵力、城を取り囲んでも兵力が余っているの、そこで三交代で城攻めをする訳、昼夜構わずに、何しろ四六時中攻撃するんだよね、籠城している兵達も半年後には白旗を上げる寸前まで追いやられる訳だけど、戦で上杉側で戦う兵士は主に足軽が中心、城攻めだからね、では那須家はどうなのか、那須家は騎馬隊が中心なんだよ、史実でも騎馬隊が中心なんだよ、足軽もいるけど足軽は大切な農民、石高が少ない那須家に取って農民を失う事は出来ない、そこでやはり参戦した兵達は騎馬隊が中心なんだよ、まあー300騎程の小勢力での参戦なんだけど!!」



「那須家の石高は5万石程度、300騎でも多い位ですね、確か侍達が1500人程の家ですよね、その中から300騎の騎馬隊って頑張りましたね!!」



「そうとも言えるかもね、では今成家はどんな家ですか?」



「馬廻の人ですよね!」



「その馬廻を詳しく調べたんだけど北条家には家全体で正規な馬廻役は全部で120名しか居なかったの、たったの120名だよ、今成もその内の一人で、さらに馬廻としての禄高は120名の中で22番目、川越を守る河越衆と呼ばれる中ではトップテン入りの高禄の家なんだよね、これって凄い事なんだよ、国立図書館にある北条家分限帳にしっかり記載されているんだから!! 我が今成家のご先祖様は立派な侍なんだよ!!」



「でもね洋一さん、その偉い立場のご先祖様が偉い立場であったために残念だけど那須家と遭遇して戦になってしまったの、それが後々の洋一さんと資晴が繋がる接点になったの!!」



「なんか意味深な発言ですが、偉かったから那須家と戦う羽目になったとは?」



「それはね、今成家の役割であった馬廻役という立場がそうさせたんだよ、馬廻役って当主とか城主を守る特別な者達、親衛隊なんだよ、この夜戦では城主を守る為に小田原北条家と河越城との行き来して籠城の様子や支援策についての重要な事柄を伝える役割を担っていたの、何しろ馬廻役だから足の速さを活かして的中を突破して小田原と河越を繋ぐ重要任務だからね!!」



「河越夜戦を詳細に書かれた資料でも何故半年間も耐える事が出来たのかという疑問が結構あるのよ、それは本家の小田原北条家が必ず支援策を講じるからと必死に励ましていた事と、河越城主が北条氏康の義弟北条綱成がとても優秀だった事でなんとか半年間持ち堪える事が出来て起死回生の夜襲で一夜にして敵方の上杉を圧倒的な敗北で負かした事に、本当に日本の歴史での三大奇襲線と言われる大戦だったのよ!」



「半年間耐える事が出来たって事は今成家もそれに貢献したって事だと言えるけど、その半年間の中で任務遂行中に那須家とぶつかってしまうの、これだけ攻め続けているにも関わらず白旗を上げない河越城、攻める兵士達も厭世気分が、要は中々落ちないから呆れて来るのね、娯楽もない酒も自由に飲めない戦が半年間も続けば上杉側でも中倒れ的な不満が出始めるの、そこでバカな上杉憲正が遊女を陣中に呼び集めて武将達と歓楽を戦なのに初めてしまうの、酒も多く取り寄せ、遊女を沢山引き入れて行くの!!」



「那須家は遊女達と遊ばなかったのでしょうか?」



「裕福な家の者達ならトップが馬鹿な事をしているんだから遊女と遊んだでしょうね!! でもその遊女と遊ぶのだって自腹だよ、戦国時代の戦はほぼ全て自腹だから半年間も馬の餌代も自分達が食べる食料も費用を捻出するって大変な金額だから、馬の飼葉って牧草の外にも麦や塩とか野菜類も必要だし手当てするのは大変だよ、牧草だけだったら馬も弱っしまうから大きい身体を維持するのに結構な量が必要だし人よりお金がかかるし、それも300頭だから遊女処ではないよね、傍目で管領家を軽蔑していたと思うよ!」



「確かにそうですね、話がそれてしまいましたが那須と衝突ってもう少し説明いいですか?」



「河越夜戦の激戦地って今も夜戦跡の石碑が東明寺に残っているよね、あそこが一番の激戦地だったって事は洋一さんも知っているでしょう?」



「昔から川越に住んでいる人なら常識ですね、遠足でも行った覚えがあります、確か亡くなった兵士達の塚もありますね!!」



「そうだよね、日本三大夜戦、別名奇襲戦とも呼ばれている激戦地があのお寺の処だよね、問題はその激戦地から今成館まで直線距離で僅か800m、実際は道順を辿っても僅か1200mという近距離にご先祖様の館が砦があったのよ、東明寺は河越城の北に位置していて、城の西側に今成館が、その内側には上杉連合軍の兵が城を取り囲んでいる状態なんだけど上からの指示が無いから今成館は放置されている」



「そして付け加えるなら、那須家は古河公方の足利晴氏から資胤の兄が諱を頂いている関係で公方に付き従う形で河越夜戦に参戦、騎馬隊が中心なので城周辺の警戒と敵兵の探索が主な任務、城攻めには基本参加していない状態、そして中々根を上げない城内の様子に古河公方も苛立ち始める、もともとこの河越夜戦を主導したの人物は憲正であって管領としての盤石な地位を築きたいと言う思惑が、扇谷上杉朝定は元の居城だった河越城の奪還という目的が、そして公方の足利晴氏は戦前は何かと北条家ともやや親しい関係だったけど、それを裏切って公方の権力を拡大したいとの意味で参戦、要は三者の目的はそれぞれ違っていた事で時間の経過とともに三者は乱れて行く事になるの!」


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